経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

ネグレクトの親と共に有った日々

私は3歳から小児喘息を患い体も弱かったので通院や入退院を繰り返していた。日中でも夜間でも発作を起こして父や母に病院へ入れていってもらっていた。
そんな訳なので保育園や学校にはあまり通えなかったから友達はできないし、病院が第2の家みたいな物だから看護師さんや医師など大人と話す機会が多いため同級生との関わりが難しくて保育園や学校での生活が苦しかった。

保育園の運動会のこと。半ズボンで来てくださいと言われ、両親は私に膝くらいの長さの半ズボンを用意して風邪をひくといけなからと更にタイツも履かせた。運動会に行ってみるとみんなお尻だけ隠れるくらい膝上の短パンを履いていた。勿論タイツなんて履いてない。その内、同じ組の子が「〇〇、そんな長い半ズボンなんて履いちゃいけないんだよ、やーいやーい」「タイツなんて履いて変なの」とからかわれ恥ずかしくて泣きそうだった。私だってこんな格好したくなかったのに短パンを持っていないからお姉ちゃんのお下がりの半ズボンを履かされただけなのに、私は悪くないのにって思ってでも泣かなかった。通院費入院費が多く家は貧乏でけっこう惨めな思いを沢山した。
父は団体職員の下っ端の下っ端。母はパート勤め。祖母は農業で祖父は働いていなかった。祖父は酒乱でいつもお酒を飲んで特に母に対して暴言を吐いた。暴れることだってあった。それが母には辛かったと思うがそのはけ口に母は私や姉に理不尽にキレて怒ってばかり居た。悲しくてなぜ怒られてるか分からないしそんな母が大嫌いだった。父は仕事を頑張っていたので家の事にはタッチしなかった。祖母だけは優しく接してくれて大好きだった。母はそれがまた気に食わないので毎日顔を合わせる度に怒られた。その祖母も小2の時に亡くなり、姉とはその頃あまり仲良くなかったからずっと1人のような気がした。小1だったか街のお祭りに両親と姉とで行った。その時迷子になってしまったけどこれからどうやっていけて行くか自分なりに考えた。家には戻りたくないし学校は休む。じゃ一人で生きよう。寝るところはまあいいとしてご飯はどうしようか。お金が無い、困ったなと行くあてもなく考えながら歩いた。(そのうち迷子だと連れていかれてなんとか父に会えたが母には怒られた)
私は最初に述べたように喘息や体が弱くて、その辺では両親は面倒を見てくれた。だけどそれ以外は風呂に入れて貰えず(風呂は毎日入るって知らなかった)ご飯も祖父の好きな物だけしか食卓にのぼらず(子供が好きなメニューを母は作らない、祖父が怖かったからだ)怪我をしても包帯やガーゼを替えたり処置をしてもらず(担任の先生に包帯が汚いと怒られた)、歯磨きも毎食後するとは知らずしなかったので歯はボロボロ、服も買ってくれないから汚いまま(見かねた親戚がたまに買ってくれた)だった。男子にからかわれたり少々虐められたことを誰かに助けて欲しくて母に話すと「〇〇が悪いからでしょ!」と突っぱねられた。お手伝いしても上手く出来ないから怒られ、それが嫌で手伝わないと「手伝わずに何しているのか」と怒られ。家族旅行もないし、誕生日にはプレゼントやケーキはない時が多かった(気まぐれのようにたまに貰える年があった)。年頃になって胸が膨らんでも下着を買って貰えないから16歳で働き自分で買った。前後するけど中学生になり風呂は毎日入ると同級生から聞いたから朝シャワーするようになった。風呂や風呂場には良い思い出がないからシャワーで精一杯だった。そうやって私は大人になった。でも人付き合いができなくて仕事(DTPデザイナー兼イラストレーター)が辛かった。仕事は嫌いじゃなかったけど人間関係を構築できなくてほんの少し仲良くなった人はいたけど、みな次々辞めていき仲のいい人がいなくなった。仕事も残業が月に50〜60時間あって体も心もボロボロで仕事を辞めた。そしてうつ病になった。病院を自力で探して電車と車を使って通ったが変な格好、ダサい、こんな昼間になにやってんのと周りの目が怖かったけど治したいから必死で通った。でも医師に怒られたり、相手にして貰えなかったりで薬漬けになった。私の周り誰も居ない、金もない、母が嫌い、仕事できない私はダメ人間…。消えたい。死にたい。うつ病になったと母に告げたら、あんたは鬱じゃない、鬱なわけないと否定され、その当時付き合っていた彼に「いつまで親のスネ齧ってるんだ、早く働け」と言われたりもう辛すぎて色々あって終わりにしようとオーバードーズして救急車で運ばれた。もしかしたら一生透析になるかもと言われたと後になって父に聞いた。母は何か言ったかもしれないけどもう覚えていない。でも今は体は大丈夫です。
ずっとずっと辛いことが42歳くらいまで続いた。このままじゃダメだと思いクリニックを変えた。その医師がとても良い医師であなたは発達障害(ASD)だと思うので検査しようと言われしてみたらやっぱりそうだった。その検査の時に母に私の子供時代を振り返るという検査をしてもらったんだけど、母は私の子供時代については特に何も無いみたいなことで話にならないのでその検査は中断された。医師はたぶんお母様も発達障害だろうと思うと言われ、ああなるほどなと納得してしまった。
ただ、自分が発達障害とわかったことで安心した。ああそうか、自分の人付き合いの下手さやこだわりや不器用で空気読めないのは、私が悪くてダメだからじゃないんだ、障害のせいなんだと知ることで自分や母を許せる部分が多かった。
母は花が好きでよく飾っていたが私は花が大嫌いというか気持ち悪くて未だに触れないし今でも理不尽に怒られるとキーっとなり反論してしまったり、正しいことを言っているのになぜわかって貰えないのかと悲しくなることもある。そのキーっと怒ったり正しいのに何故と思う所が母に似ていて本当に自己嫌悪だ。でも両親も私も歳をとり私が1歩大人になって歩み寄って関係は良くなっている。両親揃って要介護になりお手伝いをしていたけど今は施設入居したので色々な手続きや少しの世話などやいている。姉は統合失調症になり施設入居している。両親や姉のお世話(各種手続きや都度の用事など)
実家や土地の管理など難しいことは父から全て丸投げされたので心底困っているし手続きは難しくて理解できないことが多いくてつらい。その事で鬱スイッチが入り自宅や自分のことが疎かになるのが今1番つらいことだ。
母は病気をして高次脳機能障害になりぼんやりしている。もう怒ることはなくなり、〇〇に親らしいことをしてあげられなくて申し訳なかったとよく話してくれる。

両親とのことは書ききれていないけど、子供時代は辛すぎてあまり覚えていない。でも今は私も結婚して飼っている猫が子供替わりなので両親の気持ちが少しわかる。きっと反面教師として両親は私に教えてくれたんだと思う。子供の頃両親に甘えられなかった傷は癒えることは無いけどだからって親を恨んではいない。恨んだところで甘えられる訳じゃないから。塗り替えられる訳じゃないから。ただこれからの事はいくらでも変えていける。自分が願えば、頑張れば自分の人生はどんな形でも拓いていけると思っている。

長文を読んでくださりありがとうございました。私は生きています。

感想1

過酷な人生を歩んできた事実とともにとても誠実で善良な人柄が伝わってきました。最後の「私は生きています」という一文に独特な力強さが宿っていて、ドラマの最後のシーンで朗読されるナレーションが聞こえてくるようでした。
最初の方の子ども時代のエピソードを読んでいる時には、環境の劣悪さに周囲の大人たち(祖父や両親)を責めたくなる気持ちにもなりましたが、そういう問題ではないと思う気持ちもありました。そして、後半の発達障がいの話を読み、子育てを親に丸投げしすぎる今の社会のあり方について問い返しています。子育てはそもそも親という限られた人だけでできるものではなく、余裕がある親であっても周囲の力を借りながら何とかやっているのが現実だと思います。ましてや、あなたの育った家庭のように祖父のアルコールの問題、家庭内での暴力や暴言。その影響を受けて、祖母や母に負担がかかり、より弱い立場である子どもにストレスや負担が向けられること。そして、経済的な困窮も深刻だっただろうと推測します。つまり、子育てをする上でかなり余力がない家庭状況だったのだろうと思われたので、家庭だけで子育てをすることはかなり困難であったと思います。少なからずサポートをしてくれる人もいたようですが(見かねた親戚など)、包帯の汚れを怒る先生など、どちらかというと親を批判したり、子どもを怒ったり、指導したりするような大人の方が多かったのではないかと推測します。
そんな環境の中で子どもの頃のあなたは、自分への否定感情と周囲への不信感や諦めのようなものを蓄積していったように感じました。一方で、誰かを頼ろうとする気持ちも失わずにいい医師に巡り合ったことに少しだけ救われた気持ちがしました。おそらく、祖母さんとの関係がその土台になったように感じました。そして、何よりもその土台を使い、自分なりの道を拓くことを諦めなかったあなた自身の力がそこにはあると強く感じています。
今は「生きています」と表現できるあなたの強さが印象的な一方で、私たちは弱い存在であることも事実なので、これからも苦しいこともあるかもしれません。ただ、そうした強さも弱さも、その人の問題ではなく環境や人とのつながり、そして社会のあり方によって変化するものだろうと私は思っています。だから、家庭状況や家族のつながりに過剰に依存することなく、子どもが健やかに成長し、誰もが必要な人とのつながりを得るチャンスがある世の中になることを願っています。
ともに誰かのささやかな支えになれるよう社会の一員として生きていきましょう。

感想2

子供時代はつらすぎてあまり覚えていないとのことで、思い出しながら書くのはしんどいものがあったのではないかと想像します。実際読んでみて、実体験に基づいていることがすぐにわかる文章ばかりだと感じました。繰り返し読ませていただき、色々なことを頭に浮かべながら、感想を書きました。
特に印象的だったのが、朝シャワーのお話や、下着を自分で働いて購入したお話です。きっと同級生からお風呂の話を聞かされたときは、簡単に言葉にできないような様々なことを思ったのではないかと想像します。下着の件も、なぜ自分で買わないといけないのかと思ったかもしれません。けれどこのお話しから、誰も教えてくれなかったり、してくれなかったことを自力で何とかしようとするあなたの一生懸命さや、目を背けないまっすぐな感じが伝わってきました。「朝シャワーで精一杯だった」と書いていますが、今までの生活にないことを取り入れるって難しいことだと私は思っています。十分すぎる頑張りだと私は思いました。
保育園でのことも、バカにされたり恥ずかしい思いをしたりするのは本人なのに、大人は子どものそういう気持ちを軽く見たり、ごまかそうとしたりすることが悔しいけどあるのかなって思いました(実は私も似た経験があります…)。もしかすると、これ以外にも近い経験をされてきたのでしょうか。いつか話せそうなときには、また教えてもらえたらと思います。
経験談のどの部分をとっても、その裏にあなたの頑張ってきたことが垣間見える気がしています。ただ、あなたの頑張りには「背負わされた」という側面もあったのかなとも正直感じました。だからこそ、発達障害だとわかったことは肩の荷がおりるような感覚で、安心できたんじゃないかって想像しました。
読ませてもらって、なんだか胸がいっぱいになっているところです。とにかく、すごく頑張ってきたあなたのことを労いたい気持ちは伝えさせてください。家族の件でままならないものがあるようですが、それはあなただけが背負わなければならないものではなく、あなたの意思を優先していいものだと私は思います(ご家族の全てを背負うのも大変だと思いますし、全くもって放棄するのもまた別のしんどさがあったりするのかなってイメージしています)。あなたの納得できる形で、そして無理のないペースで、一歩一歩生きていけたらいいなって思います。経験談の投稿、ありがとうございました。

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