私は今、大学3回生の女です。ADHDの多動・衝動優位、鬱病があります。
中学校ではいじめが至るところで行われていて、どれだけ止めても全然いじめはなくならない、そんな所でした。幸い私は、どれだけいじめを止めても、幼馴染が傍から見れば怖めの子だった(実際は、心優しい子です)こともあり、いじめられることはありませんでした。そんな人たちと同じ学校に行きたくないと思い、遠くの進学校と言われる高校へ一人で進学しました。
高校に入ると、楽しい生活と引き換えに自分の心身の状態を崩すようになりました。成績はいつもトップ、運動は、もともと得意だったので、優等生としていい意味で頼られていました。はじめは、その期待がいいプレッシャーだったのですが、次第に自分を追い込むようになりました。一度成績が落ちた時に、周囲から期待してたのにと言われたことがきっかけで、「完璧な自分以外は必要じゃないんだ」と思い込み、全てに全力を注ぐために集中するようになりました。
その結果、ADHDの特性である、過集中の状態に何かをするたびになってしまいました。日々の生活では、学校が遠いので、朝5時に起き、通学中に英単語を勉強し、授業を受け、クラブ活動で夜7時まで活動した後帰宅し、ご飯を食べて風呂に入り、10時から深夜2時まで勉強していました。テスト前の休みの日になると、15時間勉強は当たり前でした。朝から勉強して、飲まず食わずで深夜までぶっ通しでやり続けることも多々ありました。
その結果、ある日体の調子まで崩し、ベットから動けなくなってしまいました。その時の自分は、完璧じゃない自分に価値はないと思い込んでいるので、死ななきゃいけないと思うようになりました。実際、ADHDの特性も相まって衝動的に自殺未遂や自傷行為を繰り返していました。その時に、過集中による燃え尽き症候群と、鬱病の診断を受けました。今でも思い出したくないぐらいの辛い日々が続きました。しかし、徐々に治療を進め、日常生活が送れるまでに回復しました。
そんな時、大学に進学しました。高校の時の成績から推薦を貰い、有名な所へ進学することができました。大学でも、1回生のうちからサークルの代表を任され、成績も学部で1番を取りました。アルバイトもはじめ、頼られる場面が多くなりました。成績に関しては、高校ほどではありませんが、勉強する時間は確保し、できるだけするように努力していました。
鬱病は寛解することはあっても、治ることがありません。私は、鬱病の寛解の手前で大学に進学したので、希死念慮があっても、動くことで紛らわして、考える時間がないように生活をしていました(病院には通院していました)。
そんな時、また体調を崩しました。3回生の夏休みのことです。精密検査の結果、入院しました。体の状態自体が良くなくて、治療が必要な疾患が何個も見つかりました。授業すら受けることが難しいレベルでした。その後に予定していたカリキュラムも変更になりました。大学の教授、カリキュラムの受け入れ先、調整してくださった事務員の方々、沢山の人に迷惑をかけました。
同じ時期に、寛解手前だった鬱病が再発しました。鬱病を再発させたことで、見ぬふりをしていた希死念慮が増幅し、動けない・何もできない自分に嫌気がさすようになりました。周りは就活や卒論のことで前を向いて進んでいますが、自分は何一つ進んでいない。今までできていたことすらできない。そんな自分が嫌で嫌で仕方なくて、死にたいと思うようになりました。現在でもその思いは全く消えていません。衝動的に自殺未遂や自傷行為をすることも多々あります。
私は、ADHDの特性上、不器用で人の何倍も時間をかけないとできないことがいくつもあります。勉強もそのうちの一つです。しかし、それは言い訳になると思っていたので、努力してカバーしていました。その努力が、いつの間にか当たり前になり、自分自身を苦しめることになりました。見えない努力だということも相まって、周囲からは過程ではなく、結果だけを見られ、ある意味何でもそつなくこなす、器用な人だと言われていました。全くそんなことはなく、むしろ反対なのにです。
そのことを高校時代と大学に行っていた時、他の人に言ったこともあります。結果は、絶対そんなことないよ、冗談でしょ?と言われました。そこから相談しても信用されないのではないかと、怖くて悩みを打ち明けることができなくなってしまいました。また、相手を信用することも怖くなりました。
努力していない自分は自分じゃない。努力できない、何もできない自分に価値はない。でも、努力している自分が自分なのだろうか。自分の存在意義がわからなくて苦しい。死んで消えてしまいたい。本当の自分はどこにあるのだろう。今の自分には何が残るのだろうか。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
本当の自分はどこ?今の自分に何が残る?
感想2
投稿読みました。本文の最後にあった「本当の自分はどこにあるのだろう。今の自分には何が残るのだろうか」という問いかけを、真っすぐなあなたの本音だと強く感じました。そして、自分に対しても、同じ問いを向けてみたくなりました。
(読み終わってそんなことを考えながら文章の最初に戻ったら、タイトルも「本当の自分はどこ?今の自分に何が残る?」で、なんだかすごく納得しました)
わたしには何人かADHDの友達がいるので、いろいろかみ合っている時期に高い評価を受けて後で苦しくなっていくことや、実は不器用なのに周りには分かってもらいづらいことなど、これまでも話を聞いたことがあります。
勿論人それぞれ状況も個性も違うので、あなたとわたしの友達を一緒にするつもりはないのですが、「あなたの身に起こっていることは、今の社会とADHDの特性のマッチングによる悲劇で、あなた個人のせいじゃない」と伝えたくて、そのことを書かせてもらいました。
例えば優等生であることが高い評価や期待につながらなければ、その後に優等生じゃない自分になっても、「波があるタイプなんだな」「この方が自然体でいいかも」などと受け止められるだけになります。あなたがもっている個性を、社会側が(今の社会の価値観における)「いいとこどり」をして評価して、本来のペースや人間らしい生活を奪っている…そんな構図にわたしには見えました。
本当の自分はどこにあるのだろう、という問いに話を戻します。
わたしはASD(自閉スペクトラム症)の特性があり、人の何倍も努力して、なんとか人並みにできるようになったことがいくつもあります。でも周りからはたぶん何でも卒なくこなす器用な人だと思われています。だから、努力してない自分でここにいたら周りにどう評価されるのだろう?本当の自分はどこ?と思うことがあります。そのあたりは一定程度あなたと共通する部分があるように思います。
わたしも本当の自分がどこなのか確信をもってはわかっていないのですが、あなたの「自発的に行ったこと」や「感じていることや考えていること」というのは、偽りなく本当のあなたであるように思います。
例えば、中学校のエピソードでの、いじめを止めた行為や、「そんな人たちと同じ学校に行きたくない」という気持ち。器用に見える裏で努力していることを、他の人に言ったこと、言ってみてもダメで人を信用するのが怖くなってしまったこと。そして、それらを経験談に送ってくれたこと…
そこからわたしが読み取ったのは、「自分の正義感や責任感をしっかりと持ち、自分の思いを行動に移す力のある」あなたです。一言にまとめるなら「正しく生きたい」という強い力といえるかもしれません。
ただ、今は責任感=「優等生」でいなくてはならない に結びついていることや、行動に移したときの出力のコントロールがうまくいかないこと、発信を受け止めてもらえなかったことで、個性がどこに伸びていっていいのかわからなくなっているような印象を受けました。
でも「正しく生きたい」という思いだけは、どこまでいってもあなたに残り続ける気がするのですが、どうでしょうか。
「君たちはどう生きるか」という小説に(小説は実は読んだことがないのですが)、”「死んでしまいたい」と思うほど自分を責めるのは、君が正しい生き方を強く求めているからだ”という一文があります。わたしはこれは結構真実なのではないかと感じています。
あなたが求めている正しさの本質は何なのか、どんなペースで歩んでいくのが自分に向いているのか…そんな試行錯誤の道を一緒に考えてくれる人がいれば少しずつ自分が見つかるかもしれない…?なんて思ってしまいます。
もしあなたの役に立ちそうなら、またいつでも死にトリを訪れてくださいね。
感想1
投稿ありがとうございます。
文章を読んでいて、本当にあなたは努力を重ねてきたのだろうな、と思いました。いじめを止めてきたエピソードからも、あなたにとって果たすべきことや重要な価値観、大事にしたいことがあって、それのために努力してきたし、もしかするとそれをしないことは選択肢に上がってこないようなところもあるのかな?と思いました。
あなたは短期的にはおそらく多くの人よりもかなり力を発揮することができるのだろうと思うのですが、だからといって体力が無限にあるわけでもないし、そもそも苦手なことを補うためにたくさんの時間を使う必要があることもあったりして、たしかに疲弊してしまうことも多いのだろうなぁと想像しました。私もADHDの診断を受けていて、力を発揮すること自体は自分としても好きなことなのですが、それを続けることが不可能に近く、虚脱状態→鬱、を繰り返してきたので、なんだか人ごとと思えないなぁ…と感じています。勝手に重ねてしまいすみません。そう考えると鬱の状態もある意味では体をセーブさせて回復させるために必要な時間なのかも?でもそれもそれでしんどいのだから、それでいいわけでもないしなぁ…と考えていました。
あなたは「努力できない、何もできない自分に価値はない」と書いてありましたが、それは違うと強く言いたい気持ちになりました。まず、努力するということは「いつも努力する」ということではないし、休む時もあれば、努力する・努力できる時もある…みたいなことではないかと思います。またこれは個人的な意見ですが、私は努力はしなくてもいいと思っています。というか、人がどんなあり方をしても、どんなふうに生きても、人の価値がなくなることはありえないと考えています。もちろん、個人にとっての距離の近さとか、誰が好きで誰は好きじゃない…みたいな話とかの中で、個人レベルでの重み付けということはたしかにあるのかもしれません。でも、それは本質的な人の価値とは関係ないと思います。
あなたには休む権利があるし、だらだらする権利があるし、自分の好きなことだけする権利があるし、なにもしない権利もあると思います。
ただ、周囲からの期待もあり、努力以外のことを自分に許してはいけないような感覚が強くあるのかなと想像しました。
また、個人的には世の中には迷惑をかけることをよくないことだとする考えが蔓延っているなぁ…と思うことが多く(私自身も若い頃そう思っていたこともあるのですが)、今はそうは思いません。それはそれぞれの人を孤立させる考えだと思うし、そもそも人は多くのものに支えられてしか生きることができないのに、「迷惑が悪い」と考えると、お互いが支え合うという当然のことを過剰に隠してしまったり、逆に後ろめたく思わされてしまったりすると思うからです。
そもそもADHDであることも悪いことやだめなことではないし、あらゆる個人の性質にだめなことはないと私は思います。ただ、その性質が少数派だったり、社会的に軽んじてみられていたりすると、世の中が多数派を前提に作られてしまっているために困難が生まれてしまうことも多そうです。それは社会の問題で、それこそ、人が生きるために解決していかなければいけないことだと私は思っています。
といっても、あなたからみたら、現時点で自分が頑張る以外に方法が見つからない、頑張り続ける以外にどうしたらいいのかわからない、みたいなところもあるのかなぁと想像しています。
「でも、努力している自分が自分なのだろうか。」というところからのあなたの言葉にも、どうしていいか、どう考えていいかわからない苦しさのようなものを感じました。
私も自分の存在意義はわからないし、本当の自分もよくわからないし、それもどこから見るかで変わる気がするし、普遍的なものはない気がするし…と、ついいろいろ考えてしまいます。それを瞬間瞬間に確定することも自覚することも不可能に近いのかも…という気がします。私は生きている価値や意味がなければ生きていてはだめなんじゃないかと感じていたことがあるのですが、もしかしたら、あなたにもそれに近い感覚があったりするのかな?とも思いました。
あなたが限界まで努力して力を使い切る以外に選べる時間の使い方がもっといろいろあったらいいのかなぁと思ったりもして、それってどんなことだろうなぁと想像しています。
本当の自分って、私で言えば、いまちょっと頭痛があって、この経験談を読んで頭の中でいろいろ思考が飛んでったり戻ったりしながら、椅子の上に体育座りでパソコンに向かっている、まとまらない私そのものとも言えるような気もします。そういう瞬間瞬間のいろんな私がすべて本当の自分だとも言えるのかもしれません。あなたのことももっと聞いてみたいです。