経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

積み上げたもの、崩れ落ちるとき

自分は正気じゃないように思う。おかしくて、めちゃくちゃで、色々と破綻しているように感じる。でもそれは思い込み混じりのことだとも気づいている。現実味がどこか薄いのも、うっすらと何かもかもやめたいと思うのも、自分がそうやって現実から目を背けているだけだと思う。

私が絵を描くことや物語を作るのが好きなのは、どうしてだろう。
好きになったのがあまりにも前すぎて、よく覚えていない。単純に褒められていたからかもしれないし、人見知りをするので(今もする)、一人遊びや室内遊びの一環として絵や物語に触れていたのかもしれない。本や文章を読むのも好きだった。国語は小学校から今に至るまで得意と言えるし、難しい漢字も小さな頃から読めた。

小学校の頃、私は自分で言うのもなんだが勉強はできた方かつ勉強熱心だったので、問題が解けたら真っ先に先生の元へ出しに行ったし、テストも間違えたところはいつも確認していた。(その分体育はてんでダメである、今も)オリジナルの漫画も描いていた。友達が描いたものも一緒に、学級文庫に置かせてもらっていた。そしてみんなに読んでもらったりしていた。

中学校になって、数学が苦手になった。でもテスト前はいつもワークなんかを解いていたし、やっぱり真面目だったと思う。漫画は描かなくなってしまったけど、部活に入った。文化部が美術部か吹奏楽部しかなくて、まあ必然的に美術部に入った。というか小学生の時点でもう決めていた。友達と喋りながら、でもそれなりにコンクールに出品したり、イベントごとに部員がまとまって大きな作品を作ることもあった。絵の具を使うのは好きだった。色が好きだった。年齢が上がるにつれて、人間関係に困ることはあったけど、部活に行けば楽しかった。それで良かった。

高校はまだ、つい最近のことのように思うし、もうずっと昔のことのようにも思う。知り合いはほとんどいない。最初の頃は友達を作ろうと頑張っていた。私としては、頑張っていた。でも何だか、周りと決定的に違っているような気がした。ズレている。私の話すことは大して面白くない。話が続かない。というより、相手から話を振られるのを待っている。そして話をされても、ちゃんとした返しをしたり、面白く返すことに手間取っている。だんだんと、孤独を抱えて落ちていくみたいだった。それでも、勉強も創作も、一人でだって出来る。理由や理屈があれば、周りと話すこともできたし、課題の難易度もさほど高くなかった。ちゃんと時間をとって教えてくれるのである。何よりも、私の所属していた場所では、それぞれがそれぞれの好きなことをしていた。だから比べるも何も、あまりなかった。そもそも作品の手法やジャンルが違うのである。そして私は、何故かいくつもの部活を掛け持ちしていた。ぶっちゃけただでさえ授業で忙しいのに。でもやりたかったから仕方ないよね。そこでもだいたい孤独ではあったけど、作品制作がほとんどだったから、唯一集まる時とかだけが不安だった。いや、どうせなんだから友達でも仲間でも声かけて作ろうよとは思うけど、少しずつ、何かを諦め始めたのは多分このあたりだ。

なんだかんだで、小学校から今までずっと、なんとなく、部活やら課題やらで美術系のことをやっている。美術系の大学に今は通っている。でも、高校のあたりから、少しずつズレてきた。それは、自分と、他者の乖離にも近くて、今まで自覚してこなかった、あるいは自覚していてもまあいいかと見て見ぬ振りをしてきた、自分だ。
どんどんと諦めていくことが増えた。制作に時間がかかってしまって、かかっている割には大した物を作れず、上手く器用に物事をこなせない。中学校や高校の時から、それはなんとなく勘づいていたけど、マイペースだし、とか、呑気に思ってたりそれこそ妄想や物語の世界に耽っていたので、大した努力はしていなかった。それは美術に対してもそうなのだ。褒められてきたし、感想をもらうのは嬉しかったけど、段々と周りに見せるのが怖くなった。というより、その後の反応が怖かった。やたらと恥ずかしさや惨めさばかりがまさってしまって、どうせ間に合わないからもういいよね、とか、後でちゃんと作り直そう、とか、思って言ってそのままにしてしまうことばかりだ。それでもまだ、高校の時は違った。自分の納得がいくまでひたすら残って作っていたし、それで良かった。

しかしそれらは、言い訳にも近い。時間に間に合おうが間に合わなかろうが(できれば間に合うべきだ)、何かを作ることに意味がある。私は実力の無さや別の要因をやらない理由として引っ張ってきているだけだ。…もちろんそれらも問題ではあるが、要は面倒くさい、作っているのが辛い、ただその一点において何もしない、何もしないから余計に後になって困って、困ったまま抱え続けることのループに陥っているのである。(それらがリセットされることはない。)(これは課題においても、その他においてもそうである)だけどそんなことがバレたら怒られるし、見放される。人間関係の構築(というより継続)が壊滅的に苦手な自分には、とびきりに最悪な状況。特に同年代との会話が、何だか出来なくなってしまった。もっともらしく、普通の大学生みたいな会話をすることが、難しい。本来の自分を取り繕っている、だけどボロが出る。自分から話しかけることや、なんでもない時になんでもない会話をするのが、苦手だ。そうやって、自分のダメさが原因で破綻した関係もある。
そういうことが続いてしまって、大学には行けていない。大学や家族やSNSなど含め、周りは優しい、というか自分らしく生きている人が多いと思う。それぞれ夢ややりたいことや大切な自己をちゃんと持ち合わせているように思う。周りが悪いわけじゃない。

コミュニケーション能力か、美術的技術か、せめてそのどちらかがあれば、多分乗り越えられてきた。今までを振り返っても、そんな感じだと思った。だけど私はその両方への努力を、怠ってきた。単純な話、勇気や度胸は無いのに、プライドだけはやたらと高い……いや、プライドすらも無い、自己肯定感が崩落し、現実味を失って停滞したナニカがそこにいるだけだ。
どこかで努力する勇気を持てたら、なんてそれもまた言ってるだけじゃん!今行動しなよ!と自分に自分が語りかけてくる。しかし自分は正気を失っている、自分はおかしい、めちゃくちゃなことを言っている、と胸が押しつぶされそうになる。いや、それは半分妄想混じりなんだろうけど。だから人と話せない、まともな会話ができないから、とも思ってる。

「こんな私なんて」とずっと言わないように意識していたけど、そう言ってしまう気持ちは本当に本当に分かるから、口から飛び出てしまいそうで呆れている。
雑多な社会を気にせずに、周りと比べずに、ただ自分だけに向き合っていればいい…? だけどその自分はあまりにも体たらくで、どんどん落ちていく一方にしか思えない。それもおかしな話なんだろうけど。
燃料が無い、生きていくための燃料が、好きなはずなのにそれと向き合うだけの気力が、尽き果てている。分かってる、それも言い訳だと、何を言っているんだこの怠け者と、そもそもこういう文章を書いている暇があったらもっと有意義なことをしろと、誰かがどこからか責め立てている。

多分普通の精神状態だったら、こんなこと思わないだろうなと思っています。…普通の精神って言い方はなんだか怖いな。なんていうか、生活がちゃんとしていたら、多分それなりに胸張っていられるから。楽しいこと好きなことを、後ろめたさなく楽しめるし、好きでいられると思うから。
何だかいつも、変なところで頑張っているって感覚が強い。なんでそこで頑張って、別のところではだらけるのかっていう。上手く話しかけられないとか、返事ができる自信がないとか、普通との強烈なズレに耐えられないとか…、言っているだけで行動しない自分を責め立てて、もうなんか全部、うんざりだとか。

好きなことを、ちゃんと好きなはずなのに、自分から好きじゃなくしたり、触れられなくしてしまうのは、何だか凄く取り返しがつかなくて、後悔してしまいそうだなって、思う。めちゃくちゃだなって思う。
それでも、やっぱり、そういうことをしているときが楽しかったのは確かで、続けたくて、でも怖くて、でも終わらせたくなくて、
…そういうことが立て続けに起きて、起こしてしまって、ついに全てから逃げた。今までは何とか騙し騙しやってきたけど、もうなんか、プツンって、糸が切れたように、いや…積み重ね続けた後ろめたさや言い訳が、一気に崩れ落ちて、どんどん酷いことになっていく、していくみたいな感じだ。
…ボロボロだけど、それは全て私のせいだから、自業自得かなあ、と思って消えようとしていた。でもそんなの、感情的にも、理性的にも、常識的にも、終わってるなあ、とぼんやり感じて、今はただ、心の無い何も無い日々を曖昧に生きている。生きているというより、死んでいないだけのようにも思える。

だから誰のせいでも、誰に理由があるわけでない。本当にごめんなさい。ただ一人の人間が、自分に絶望して勝手に闇の中に身を投げただけなんです。

…とかいろいろ言ったらスッキリするかなあ、と思ったけど、あんまりそんなこともなかった。結局行動しなければ根本的な解決にはならないからかな。…根本的に解決しないこともあるし、過去の虚無さに毎日泣いているけど。

でも消えたくはない…諦めきれない。どんなに自分が嫌になろうと、過去の自分をこれ以上裏切り続けたくない、何とかしたいという気持ちが燻っているから、多分それはまだ自分と言えると思うから、、
……恥ずかしいとかつまらないとか、今思えばそういうことばかりだけど、でもその時は本当に、それが正解だと思っていた。それが楽しかった。でもそれと同じくらい…傷ついて、傷つけ続けてきたのを自覚している。

消えたい、諦めたい、…正直、辛い
多分その理由は過去の頑張ってきた自分に対して、今の自分があまりにも最低だから。大切な人を散々裏切ってきた自分が許せないから。…それでも、手を差し伸べてくれる人たちにどう接したらいいのか分からないから。言いたいことはたくさんあるのに、何をどう言えばいいのか分からないから。話したらきっと応えてくれると信じているのに、自分に勇気が無くて怖くて言えずにいるのが、余計に苦しい。だけどこんな不安定でおかしな状態で、まともなことを言えない気がするのがもっと怖い。そしてもっと前から頑張っていれば良かった。現実的な、目標や目的や夢を作れたら良かった。

……散々書き殴って、十分疲れたように感じる。あとはもう、同じことを繰り返して書き続けてしまうだけな気がするから、どこかで、断ち切らないといけない。

あとは上手い具合に、終わるまで、続け続けるしかないのかもしれません。

…今とその先の未来が見えないだけで、本当はやってみたいこととか、楽しみなことはあるんだと思います。現実的ではないかもしれはいけど、もしやり直すことが出来たなら、私は他の人から受け取ったものを糧に、誰かの助けになりたいと思います。
…今までずっと、達成できないことばかり口に出してしまって、後から辛い思いをすることのループでした。でも、本当にそれを達成したいと願っているのは、確かです。理想と現実のギャップ(つらチェックやってみました)を、少しずつでも埋めたいです。あまりにも過酷に感じるけど、理想の自分とか、それを叶えるにはどうしたらいいんだろうとか、いっぱいいっぱいな頭と、心の隙間で考えています。
後悔は絶えず記憶の中から溢れるけど、それに囚われたらいけないとも思っています。…なんて、それもまた、言葉にするのは簡単だけど、続け続けるのは難しいですね。自分の記憶から他者の記憶が消えるか、他者の記憶から自分の記憶が消えるかだったら、私はどちらを選ぶだろう、結局どちらも辛くて選べないだろうな。

長文かつ乱文になってしまい、ごめんなさい。また、このような場所を作ってくださり、ありがとうございます。

感想1

経験談を読んで、投稿者さんが大切にしてきた思いや楽しんで創作していた感覚に思いを馳せていました。まず伝えたいと感じたのは「あなたの自業自得ではない、そう思う必要はない」ということです。むしろ社会や教育が、投稿者さんにそういう思いを抱かせ、そういうメッセージを発信し続けてきたということであり、そちらが大きな問題だと感じます。
読んでいて、投稿者さんの人生の中で、絵や物語などの創作は大切なものとしてずっと近くにあったのだろうなと思いました。絵や物語と書いてありましたが、それは投稿者さんの中で一続きのことなのかなと思いました。だけど、今はそれらの制作に向かうこと自体もつらい状況で不安を感じているのかなと想像しています。
個人的には、それは評価の優劣を定めることに偏りがちで、しかも評価の軸がものすごく少なすぎる学校教育の問題も大きいのではないかと思って読んでいました。
学校の勉強は、課題やテストに対して、高い評価をとることが一つの指標になりがちだと思います。それ自体、学びの本質からはかなりずれていると私は思うのですが、それをよしとする風潮は強いようにも思います。
美術芸術はその意味で、本来、評価に依存することが難しいことなのではないかと私は思っていて、評価のために合わせるのではなく、ひたすら本気で「遊び」をすることが創作なのではないかと個人的に私は信じています。本来それを評価しようとしたら、観賞者はその時々に、作品との対峙の中で、個別の評価軸を有機的に生成することでしか成立し得ないと思います。
とは言っても、美術においても、学校教育の文脈ではやはり点数的な評価付けが多くされていることも事実です(美術系の大学入試などもその一つだと思います)。その中で、投稿者さんは夢中になれる遊びのようであった制作と、評価されるための制作の板挟みのような状態にあるのではないか…と想像しました。

「制作に時間がかかってしまって、かかっている割には大した物を作れず、上手く器用に物事をこなせない。」という文章を読んで「大した物」かどうかを判断しながら制作をする必要を迫られる場面も多かったから、「大した物」でなければいけないというプレッシャーを感じているのかなと思っていますが、どうでしょうか。また作品そのもの以外にも世の中にあり、おそらくは美術系の大学の中でも少なからず紛れ込んでいる、「普通」とか「当たり前」というような価値観のなかで翻弄されているのだろうと想像しました。

私も小さい頃から物語や美術が好きで美術系大学に(だいぶ前ですが)通っていたのですが、その中で社会の中での「正しさ」や「普通」「有意義」などを意識すればするほど、創作自体が難しく、生きること自体がむずかしく、負担になってしまうような感覚がありました。だから「好きなことを、ちゃんと好きなはずなのに、自分から好きじゃなくしたり、触れられなくしてしまう」という言葉に共感しながら読みましたし、もしかしたら勝手に自分のことを重ねすぎているかもしれません…。
ただ、個人的には資本主義的な評価軸における「食える芸術」「評価が集まる美術」「○○でなければいい美術ではない」みたいな考え方は人の創造性や可能性をほとんど潰すものだと思いますし、本来、これは芸術に限ったことではなく、価値の評価軸が少なくなればなるほど、人間の多くの力は奪われていってしまうと思っています。
もちろん、その評価軸に合わせていくことで評価を得ようとするというやり方もあると思います。それも否定される必要はもちろんありません。ただ、それは個別の選択の一つでしかないと私は思います。

私は創作できる時期とできない時期があったりしつつ、今はわりと勝手気ままに制作したり、物語や詩のようなものを書いたりして過ごしています。それらに商業的価値や評価はとくにありませんが(基本的に公にもしていません)、価値付けを前提にしないことでむしろ自分の制作を楽しめるとも思っています。
ただ、創作できないときに無理にする必要はないし、うまく生活できないときにうまく生活しようとする必要もないし、コミュニケーションが難しいときにそれをやる必要もないと思います。「燃料が無い、生きていくための燃料が、好きなはずなのにそれと向き合うだけの気力が、尽き果てている。」という言葉は無理もないと思いますし、そういうときに投稿者さんが少しでもじっくり休むことができていたら…と思います。
勝手に共感して勝手に社会や教育に憤り、個人の経験を語り、押し付けがましい感想になってしまい申し訳ありません。私は投稿者さんがこれまでに作ったものや、いつか作るかもしれないものを見てみたいと思いました。投稿ありがとうございます。

感想2

投稿を読ませて頂いて、真っ先に頭に出てきたのは私の兄のことでした。
私の兄も幼少期から絵や造形が好きで今に至るまでずっと悩みながら何かを生み出しています。そしてそうすればするほど、自分の世界が強くなり、時には鬱々として時には没頭して、誰とも相容れない世界で生きているように見えます。
そんな兄のことも少し重ねながら、あなたが頭に溢れるままに綴ってくれた葛藤や後悔や否定や肯定、反芻する強い想いを感じながら読みました。自分自身の気持ちを敏感に感じとり、なおかつ抜けられない困り感もわかりやすく表現されていました。
私も比較的絵を描くことが好きですが、もしかしたら美術系やものづくりの世界に没頭する方のなかには他者と相容れない感覚(あなたの感覚でいうと“ズレている”)を持っている方は少なくないと思います。自身の感覚が強かったり、多数派に流されない感覚があるからこそ美術系に進めるようにも思います。だから私の中ではズレているということは良い意味を持っています。
いまはあなたの中では先が見えなくなっている状況なのだと思いますが、それを「現実味を失って停滞したナニカがそこにいるだけだ。」と表現する一方で「雑多な社会を気にせずに、周りと比べずに、ただ自分だけに向き合っていればいい…?」とも葛藤しています。いまは自分の中に頼りにできる、掴めるものがないままに土台が不安定になりながらも文章の端々からは自分を失っていない様子も私は感じられました。
ひとは自分の内面だけに核心(自分の明確な意思や希望)を見つけることは容易ではありません。ひとりで考え、自分のこころの中に答えを探し続けるとつい自己否定したり、他者と比べてさらに核心が見えなくなることもあるのかなと私は思います。
他者からの評価や客観的な意見があって初めてハッとしたり、視野が狭くなっていることに気付かされるものです。どこにエネルギーをかけたらいいのか、そもそもそのエネルギーがどれほどあるのか…それは自分だけではわからないのかもしれません。だからこそ経験談を書いてくれてよかったなって私は思いました。誰が読むかわからないけれど自分の気持ちを外に出したことで、経験談の最後の方にはご自分で内省して折り合いをつけたい気持ちが言葉に表れてきていました。つらチェックやってくれたんですね!理想と現実のギャップを埋めるためにはこうやって言葉にすることが役にたつかもしれませんよね。経験談を最後まで読ませてもらって感じたことは、積み上げてきたことは決して崩れ落ちていくわけではなく、あなたが言うように先が見えにくくなっているだけなんだということです。
クリエーティブな世界は正解や完成がないのと一緒で、ひとの生き方や考え方に正解や完成は無いんだなって私も色々考えさせられました。だからこうやって言葉にして考え続けて少しずつ自分の中の核心が見つけていくのかもしれませんね。
私自身もこうやって感想を書かせてもらいながら自分を振り返らせてもらっています。
葛藤することは生きることそのものなのかもしれません。
ぜひまた死にトリで訪れてみてくださいね。

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