経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

きっと誰も間違っていなかった

小学から中学にかけて、勉強に苦労することは一度もなかった。幸いなことに自分には理解する才能があったらしく、それがある意味で最初のきっかけだった。
母親はそんな私に『勉強しろ』としか言わなかった。100点を取ろうが『勉強しろ』、苦手な漢字で30点をとれば『それ見たことか』。
クラスで低い点数を取っていた子が勉強して良い点数を取れば欲しいものを買って貰えると聞いて、『自分は100点を取ろうが何もなかった』と子供ながらに思っていた。
そんな理不尽を『どうでもいいや』と思えるようになったのは、小学の終わり頃。辛くて意味も分からないけれど、どうせ言っても変わらないから、と思うようになった。
中学もほぼ小学の延長でしかなく、話の合わない皆の中でひたすら時間を潰しながら授業を聞き、母親の命令に振り回されて寝る。そんな事を続けていた。『やれ』と言われたからやる、意味はわからないけどやる…その繰り返し。もう『なぜ』とすらも思わない生活が続いて、虐められようが説教されようが、『だから何だ』と思うようになった。『涙を流して後悔した風にしてはいはい言っていればいい、そうすれば満足して帰してくれる』、と。

高校に行き、親が別居し、大きく環境が変わって漸く、私は少しだけ私を取り戻した。将来を考えても自分の中で答えは見つからない。夢も目標もどこかに置いてきた。私は何がしたかったのか、どんなことを夢見ていたのか、今となっては何もわからない。ただ漠然と、『このままではまずい』と思うようになった。
そんな時に、授業態度について教師と揉めた。別に成績も悪くはない、話を聞いて無かった訳でもないというのに、『謝罪しろ、さもなくば単位はやらん』と言われた。確かに態度は悪かったし、腹が立つ人もいるかもしれないとは思ったが、『それが世の真理だ』とでも言わんばかりの態度が納得できず、そこから一週間ほどで退学手続きをした。

学校を中退してすぐに両親は離婚し、命令の多い母親はどこかに行った。今はひたすら薬を飲み、時間を潰す毎日を過ごしている。
振り返ってみれば、きっと誰も悪くない。母親は話を聞くに父親に一杯食わされた人間で、精神的に余裕がない状態だったように思う。ただ他人より自分を重視している人で、それは別に問題ではない。父親はただ教育が下手で、自分が何かするよりも時間に任せるべきと考えていただけのこと。
だから今私は、『運が無かったのだろう』と自分を評価している。変わるきっかけは沢山あったけれど、私は立ち上がることも出来ないままそれを全て通りすぎてしまったのだ。私に残ったのは、『もうどうでもいい』という気持ちだけ。
このまま死んでも。
老衰で死ぬことになっても。
社会の中心となっても。
家族を作っても。
どうなろうと、そこにいる私は笑っていないように思える。だからどうなってもいい。自殺は考えていないが、それはただ『そのうち死ぬなら死ににいく必要はない』から。
どうなろうと後悔もない。やりたいことはどこかに消えた。今はただ、いずれ来る死を待っている。

感想1

文章を読んで、自分の人生に起きたことをどういうふうに理解するべきか、あなた自身が考えてきたことを書いてくれている経験談だと感じました。
母親からの「命令」は理不尽なものだと思いますし、家庭でも学校でも大変なことが繰り返されたのだと感じました。それについて「きっと誰も間違っていなかった」「きっと誰も悪くない」と書いていることは、あなたが多面的に考えたいという気持ちの現れなのではないかとも思いましたし、もしかすると、誰かを悪いと言っても解決しない状況で、他にどう考えればいいかわからないということもあるのかなと想像しています(的外れだったらすみません)。
突き詰めていくとどこか一箇所に帰結できるような問題はほぼないだろうと私は思っています。個人的には、例えばあなたの家族を支える人がたくさんいれば生活環境はまた違ったかもしれないとも思いますし、あなたが苦しい状況でいるときにそれに気づける大人がいれば…とも思っています。
私も、結局「運」がすべてじゃん、と思う時があります。能力も才能も努力も人間関係も生まれ育つ地域も運という以外に言いようはない気がします。ただ、だからどうしようもないということではなく、だからこそ、どんなに運がよかろうが悪かろうが、困らず、苦しまずに生きられる世の中に変えていく必要があるのだと思います。つまり、あなたが「運が無かったのだろう」と考えるということは、それを考えさせる世の中に問題があるということだと思います。
印象的だったのは、この文章があなたの感情や感覚よりも、認識や思考を積み上げて書かれたもののようだという点です。だからこそ、なのか、あなたが感情を追いやられながら生きなければいけなかったのだろうということも想像しました。
私は笑う必要もないと思うし、ポジティブに生きる必要もない気がしています。「どうでもいい」という気持ちもあなたが生きる上で必要だったのかなと思いました。この先のことはわからないですが、もしかすると、あなたが何か「どうでもいい」とはまた少し違う気持ちに遭遇することもあるのかもしれません。
今までと現在のあなたの一部を教えてもらったと思うので、また変化があっても、なくても、書いてみたいと思うことがあったら、教えてもらえたらと思います。

感想2

経験談を読み終えて、文中に出てきた「もうどうでもいい」という言葉と「誰も間違っていなかった」というタイトルについてあれこれと考えています。私もどうでもいいと思うことはありますが、誰かに「もうどうでもいい」と伝える時は、心のどこかで「どうでもいいと思っているけれど、どうでもいいと思えない何かがまだひっかかっている」時かもしれないと思い起こしています。そして、「誰も間違っていなかった」と思うときも同じように、自分の気持ちのざわつきややるせなさを鎮める時なのかもしれないと考えました。
私はあなたの経験談を読んで、あなたの中に受け入れる力の深さを感じています。現実を受け入れることは諦めることや希望を手放すことと似ているのかもしれませんが、私は希望を捨てずに目標をもって前向きでいることが生きることの姿だとはあまり思えません。それよりも絶望と折り合いをつけ、自分の力ではどうにもならないものに身をゆだねながらも、それなりに何とか過ごすことの方が生きることの姿としてはしっくりきます。だから、あなたの経験談から私たちが生きることの本質を垣間見たような気がして、不思議なぐらい内容や感覚がすんなりと私の中に入ってきました。
そして、あなたの経験談からは私は心の奥底にある本来の自分の意思や希望のかけらみたいなものの存在も感じました。こうして自ら思いを書き記し、誰かに伝えようと送ってくれたことがその証だと思うからです。
「立ち上がることも出来ないままそれを全て通りすぎてしまった」とありましたが、そこに立ち上がりたかったという気持ちや逃してしまったことへの気持ちもあるのかもしれないと感じています。ただ、私は無理に立ち上がる必要はないと思うし、これまでは立ち上がる時はなかったのではないかとも思いました。これからも、どんなことがあるかわかりませんが、立ち上がってもいいし、通り過ぎても私はそれでいいと思います。あなたが置かれた現状の中で選択したことは私は間違っていないと思います。
こうして死にトリを選んで経験談を送ってくれたこととつながれたことを嬉しく思います。これからも、必要なときがあれば参加してください。待っています。

一覧へ戻る