一人で暮らせるようになった今でこそ死にたいと願う頻度は減りましたが、物心ついた頃から、死にたいと考えるのは当たり前のことでした。喜怒哀楽を覚えるよりも先に、死にたいと考えていたのだと思います。事実、今でも死にたいという気持ち以外の感情は把握できません。
学生時代の記憶はほとんど残っていません。情報はなんとなく覚えていますが、実感が消えています。思い出そうとするとフラッシュバックがやってきて、死にたい気持ちが戻ってきます。
学生時代も、食事を摂らせてもらえて、病院にも連れて行ってもらえていたので恵まれた環境だったのだろうと思います。
ただ、いつ殺されるかわからない生活のストレスは相当なものだったのではないかとも思います。
父親はひどく横暴で気分屋でした。口ごたえは一切許さない。気分を害するのなら恫喝する。その日は意に介さなくても、次の日に機嫌が悪ければそれを口実に怒鳴り、暴れて、蹴り付けてくる人間でした。
母親も父親の被害者ではあったのでしょうが、子供の立場からすれば共犯者でした。
私が父親に殺されそうになっても別の部屋に逃げて見ないふりでした。食事を取り上げられても何も言わずに従っていました。所有物や教科書を捨てられても、私に嫌味を言うだけでした。
記憶が曖昧ですが、確か私が大学生の頃に親は調停離婚しています。理由は息子が殺されそうになったからでした。その頃から、私は母親から見ても要らない物なんだなと実感することが増えました。
父親から逃げて引っ越した先で、私の部屋はありませんでした。冷暖房も許可制でしたが、自分の部屋がある息子は自由に使えていたので、今思い出すと羨ましいです。
意識的にか無意識的にかは分かりませんが、母親は私のことを人形と見做しています。何をしても自分のことを愛してくれる、使い勝手のいい人形です。
就職後、家の環境に耐えかねて強引に家を出ようとしたことがありました。一度目の引っ越しは結局失敗しましたが、母親にはひどく罵られました。
「どうして嫌うんだ」「どうして私の人生を否定するんだ」「おまえが嫌うなら犬と一緒に自殺する」といったような言葉です。
私が今まで生きてこられたのはペットの存在がとても大きいです。前に飼っていた子と今の子と、犬だけは私の存在を喜んでくれました。その子を盾にして脅されて、ストレスがどんどんと溜まっていき、半年後にはとうとう倒れて数日間入院しました。
もう耐えられる範囲は超えたと感じて親戚を頼り、家を出ることに成功しました。一応は穏便に家を出たので犬に会いに行くことは出来ますが、母親に「おまえはもう要らない」という旨の言葉をかけられたこと、親と会うと死にたくなることもあって近寄っていません。
私は自分可愛さで犬を捨てました。大事な子ですら自分の都合で切り捨てられる自分が憎いです。
一人暮らしを始めて、自殺したい気持ちが嘘のように軽くなりました。普段は昔の記憶を思い出せないのでストレスなく生きています。
けれど、これまでの経験で生じた思考の偏りは直せず、今も鬱の治療でメンタルクリニックに通っています。
調子が悪い日は「おまえは害虫だ」「おまえはゴミだ」「おまえに価値はない」と、頭の中で思考が反復します。
愛された経験がないと感じることも私を苦しめています。
私は人間に愛されるという感覚が理解できません。人間を愛する感覚も想像すらできません。人の愛というものは、使い勝手が良くて従順で、利用価値のあるサンドバッグに向けられる物なのだとしか思えません。そのため、恋愛や人と深く関わることが恐ろしくて仕方なく感じます。
未だに人を信頼できない以上、死ぬまで一人で生きていくしかありません。普通の人なら当たり前に実行できる他者との繋がりを、一度も得られずに死んでいく人生を虚しく思います。
今は自発的に死にたいと感じる日は少ないけれど、一日でも早く死にたいと願う気持ちが消えることはありませんでした。
とても恵まれた環境にいるのに、どうしてこうも我が儘なのだろうと思います。
感想1
家から出て一人暮らしを始めて、ようやく自分の城を得て、権利侵害から物理的に離れることができたわずかな安堵のような気持ちと、長年受けてきた権利侵害による重い後遺症に苦しむ様子を深く受け止めています。ここまで生き抜いてきて、その貴重な経験を死にトリに書いて送ってくれたことに深い敬意の気持ちを抱いています。ありがとうございます。
そして、最後の方に書いていた「普通の人なら当たり前に実行できる他者との繋がり」の一端をこの死にトリとの間につくってくれたと私たちは受け止めています。一度も得られず死んでいくと言わず、ほんの少しの入り口だけでもここに繋がりがあると思ってもらえたら嬉しいです。
記憶が曖昧なところがあるとのことですが、それだけ過酷な子ども時代を送ってきたのだろうと推測します。そこを生き抜いたことも相当な苦労があったと思いますが、そこから「一応は穏便に」出たことも、並々ならない決断や行動、苦悩があったと思います(倒れて入院ができたのは本当によかったと思って読みました)。そして、一応穏便に離れたことで、家族との関係は続いているのですから、折に触れて自分の過去や逃れられない呪縛のようなものに直面化する機会があるのだろうと思います。ただ、そうしたことも、これまで耐えてきた状況から比べるとあなたにとっては、まだましなのかもしれません。
そんなあなたの救いがペットだったという話に興味を持ちました。最近、同じようにペットがいたから生きのびてきたという経験をいくつか聞いたこともありますし、トラウマの専門書においても、犬と馬との関わりはトラウマ治療の効果があると書いていたのを読んだこともあります。幼少期からケアをされるべき相手から否定をされてきた人たちにとって、動物は自己を保つために重要な役割があるのかもしれないと感じています。
人対人の関わりの力は影響力が大きく、誰かに保護されることによって心が育ち、人への信頼を築くこともできますが、力関係が不均衡の場合、強い者は弱い者の心や尊厳を破壊することもできます。だから、保護されるべき子ども時代に心や尊厳を破壊された経験によって、人を信頼できないのは当然だと思います。勝手ながら悔しい思いと理不尽さを静かに感じながら感想を書いています。今、恵まれた環境にいると書かれていますが、それは恵まれているのではなく、本来のところにようやくたどり着いたのではないかと感じています。あなたの人生はこれからだと私は思いました。今までの経験で抱えてしまったものは簡単には軽くなるわけではないと思いますが、こうして書いて送ってくれたことをきっかけにあなたが本来持つ力が少しずつ表現できることを願っています。
死にトリがあなたにとって何か有益なものになるのなら、ぜひ、また来てください。待っています。