一度、経験談を送ったことがある。
つまりこれは、新たに、そして再びの投稿。
ぼくはあれからたくさんの文字を紡いできた。アウトプットをするようになった。
だけど相変わらず「死にたい」まま。
あの時と違うのは、「もうそれでいいか」と思うようになったことだろうか。
少し「死にたい」が好きになった。
ぼくがこの感情を抱きはじめたのは8か、9歳の頃だ。
今は30歳前後。すごいね。よく生きてる。
はじめは、なんだったっけ?
クラスメイトが、学校が、嫌いだったから?思春期によるもの?
漠然とした死への思い。
そこから不登校になるのに時間はかからなかった。原因は宿題をやっていないことだ。
私はけして、良い子を演じているつもりなんてなかったけれど……
たぶん、『優等生』というものに憧れがあった。憧れてたから、知らない間に近付こうとして、無自覚に努力して、疲れちゃったんだろう。
家に帰ってまで、優等生として勉強をすることが、できなかった。
当然怒られたよ。私の気のせいかもしれないが、皆の視線が冷たかったよ。
書いててね、思うんだ。
幸せな話だな……って。
ぼくはいじめや虐待には遭ってないの。
ひどい話をするけど、
ぼくは、いじめや虐待に遭ってる人間を救ってあげるべきで、ぼくみたいな人間はひとりで勝手に救われればいいと思ってる。仮にぼくみたいな人間を救うとしても、“ぼく”は誰よりも後でいいし、なんなら一生、転生しても、ずっと助からないままでいいよね。
なんでそう思うかと言ったら、自分は幸せだから。
誰かのほうが苦しそうだから。
比較する。上下を決めてしまう。心のままに。
それはあくまで妄想の類いだとわかりながら、相手の苦痛を、自身の苦痛のレベルより上にしてしまう。
そして、その度合いが高い方から先に救われるべきだと。……からの、
ぼくの決断はこうだ。わたしが最底辺。わたしは誰よりも恵まれていて、誰よりもしあわせだ。
精神障害年金を受給しているんです。
家族に養ってもらっているんです。
働かずに、ゲーム、アニメ、YouTubeなどなど趣味をとことん楽しんで、平和に過ごしています。
僕はね、自分が羨ましいよ。
こんなに倖せなことがあるだろうか。って。
だって誰も私を傷付けない。殺されてもおかしくないし、捨てられてもおかしくないし、
ネットにこうして文字綴ってさ、誹謗中傷の嵐にズタボロにされてもおかしくない。
苦しくなんて、なれない。
ゆえに、苦しいと発言することに抵抗がある。「死にたい」と、綴れるようにはなったよ?
でも、まだ声に出すのは難しい。
セルフハンディキャッピングみたいなことをしがち。
自分なんて大したことないからさ~と。
9歳と16歳の時に親を亡くしたことも、大したことに数えられないほど、世界は冷たいと思ってる。
こんなもの、ハンデにならないとわかっているのに。今ここでこうして言っている自分が嫌いだ。
頑張れる人は、頑張れるじゃん。
そうしてまた他人を気にして、
自分は何やってんだろ~?って考えてしまう。
人の輪の中で生きている以上しかたないのか?
だけど、長く引きこもりやって、人と関わらない自分も存在してるからさ、
そんなん気にしないでいいかー。とか。
どんな人でも有り難み感じたりとか。
ポジティブな思考もあります。
なんだっけ?リフレーミング?
考えることが好きだから、世界って退屈しない。
この2、3年で覚えた言葉もたくさんあるんです。普通に生きているだけで知識が足されていく。
今この瞬間、1秒1秒が経験だから、すごい自由な経験談として書いてるけどこれ許されるのかなあ。
ざっくり年表的なものでも書きますか。
生まれる。
保育園、幼稚園行く。
小学校行く。(死にたい)
不登校。
母亡くなる。
小学校最後の方と中学校の始め復帰。
また不登校。(死にたい継続中)
一応中学の卒業証書はもらった。
高校は当然行かない。
父亡くなる。
バイトする。
精神科行ってうつの診断もらう。
バイト休職する。バイト辞める。
そっから今まで変わらず死にたいまま、引きニートしてます。もう10年近い?
身バレこわーい。これくらいだったら大丈夫っすかね?
これで勘づく人なんてもう身内レベルだし、大丈夫だろ。
ちなみに、一人称とか安定してないのは~、わたし昔から空想思考で~
イマジナリーフレンドは居なかったんだけど、頭の中にたくさんのキャラクター作ってその世界で遊んでるっていうか~
現実だと出しませんよ。
変に思われる率の方が高いと考えるのが普通でしょう?
女なのに、俺とか僕とか言って、過剰に反応されても困るので。
私って言っとけば、面倒ないもの。
とにかくめんどくさいことがキライ。
私がどう考えて現実を生きているかと問えば、めんどくさいことを極力避けようとして。だ。
努力しない。頑張らない。無理しない。
日々のニュースが耳に入るのが煩わしいからテレビは見ない。という選択をしたり、
好きになりそうな作品があっても、好きという感情が煩わしい時は触れない。という選択をする。
とにかく自分が楽になるように生きる。
だって生きたくもない世界で、今すぐにでも死んでしまいたい世界で、
それでも自殺せずに生きようとしたら、
常に何かと何かを天秤にかけて、その時自分にできる一番楽な方法をとるという思考回路に……
うーん、これ合ってるかなあ。
思い付いたことパッと書くと、なんか違うな……ってこと多くて。
上手く言語化できない【心】を持っているんです。だからこんな下手くそな文章しか書けない人間なんです。ごめんなさい。
ぼくは好きだけどね。わたしの文章。
そうやって、下げては上げて。
上げては下げるのは私の特徴。
最近だと逆張り人間っていう、あれの気質がある。あとはアンビバレンスとか。
否定したら肯定も同時に行う。
肯定したら否定も同時に行う。
そうすることで全てを否定し、全てを肯定する。
すべての責任は自分にあって、すべての責任は自分にはない。
矛盾させる。意図的に。
そうすることで何かを守ってる?
この性格は、何の経験から?
先天的?後天的?
まだ道半ば。
経験談語れるほど、経験なんてしてないから、こんな拙いものになるんだ。
ぼくに資格なんてない。
それでもありがとうございます。
聴いてくださって。
間違いだらけのぼくの存在を許してくれて、認めてくれてありがとうございます。
一度目の経験談の時より、
自分のことが好きになりました。
貴重な経験を、あの時も今も与えてくださっている死にトリさんに感謝です。
あ、そうだ。
お金ほしい!って苦しみあるの書いておきます。
お金あっても死にたい気持ちはなくならないけど、お金ないから死ななきゃ……っていう辛い気持ちはなくなるでしょう?
まあそしたら、それはそれでべつの苦しみが出てくるかもしれないけれど。
そう!一番伝えたいのは
「いろいろほしい!」けど、いろいろあって手に入らない、つらい、くるしい、死にたい!ということでした!
おしまい。
感想1
経験談の投稿をありがとうございます。
2年半前の経験談も含めて読ませていただいたのですが、その時と今回のとで文章のイメージが少し異なるような気が(私は勝手に)しました。なんて表現していいかはわからないのですが、今回の方があなたがあなたの言葉を自由に使っているというのか、「アンビバレント」とあなたが言うように、人の持つ相反する気持ちや他者との比較といったリアルな部分も含めた、あなたの本音のようなものが書かれている印象を抱きました。それが「一度目の経験談の時より、自分のことが好きになりました」となんらかの関係があるのかなぁと、あるとしたらどういう感じだろうなぁなどと興味を抱きつつ、2年半の間にあなたが「たくさんの文字を紡」ぎ、「アウトプットを」してきたことがその心境の変化に大きな影響を及ぼしているのかもしれないな、などといろいろと(勝手ながら)想像している私がいます。「死にたい」といった気持ちは変わらない中で、そのようにあなたが過ごしてきたこと、そして、改めてここに書きに来てくれたことに敬意を表したいと思います。
そんな風にあなたの経験談を読ませてもらう中で、あなたが最後に書いている「「いろいろほしい!」けど、いろいろあって手に入らない、つらい、くるしい、死にたい!」というところが私的には特に心に響きました。その前にあなたは「お金がほしい」と書いていますが、お金以外にもあなたには「いろいろほしい」ものがあり、それが手に入らない「つらさ」や「苦しさ」を感じながらも、他者と比較しながらー自身はそれでも恵まれていると思いながら、ないし、思わせようとしながらー自身を諫めてやり過ごしてきたのかなと想像しています。「苦しい時は苦しいと言っていい」と言うことは簡単ですが、あなたが「平和」に過ごしており、一方で世界が「冷たい」と理解している以上、自身の苦しみを口にすることが憚られるのはなんとなく理解できるような気が私はしています。かく言う私も、自身は恵まれていると考え、また、自分よりも苦しんでいる人がいる、あるいはみんな大変そうだからと考えて、自分の「つらさ」や「苦しみ」を誰かに話したり、認めたりすることがなかなかできない人でした。それもあって、揺れ動く様々な気持ちを抱きながら、どうしたらいいかわからないままなんとなく過ごしてきて、今に至っているような気がしています。とはいえ、「つらさ」や「苦しみ」自体は消えずにあるといった事実の中で、私が自分のそれらを少し認めようと思ったのは、ある人が「その人にとって苦しいことがあれば、それはその人にとってのアウシュビッツなんだよ。」と言っている姿を見たことが少し影響しているのかもしれない、と今書きながら思い出しています。(ご存じかと思いますが)アウシュビッツというのは強制収容所という人類最大の(と言ってもよいほどの)悲劇のことを指しています。自分では大したことないと思っている「つらさ」や「苦しみ」でも、それはあなたにとって最も「つらく」「苦しい」ことであり、アウシュビッツの中にいるのと同様だと思ってもいいんだ、とその人は言っていたように記憶しています。それをどう捉えるかは人によって違うだろうと私は思いますが、少なくとも私はそうした経験などから、「苦しい時は苦しいと言っていい」し、そうした環境が担保されてほしいと思うに至りました。あなたが言う「上手く言語化できない【心】」を含めて、またよかったら書きに来てもらえたらなと思います。あなたの考えやあなたの「つらさ」「苦しみ」「死にたい」気持ちについて、そして、あなたの「ほしいもの」について、また知ることができたらなと思います。ありがとうございました。