経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
適当に生きた方が楽だといいますが、私にはとっても難しいですし分からないです。適当に生きられる人というのは、きっと中身が綺麗な人なのだと思います。
私はそうじゃないんです。怠惰で臆病な怪物が人間の皮を被って生きているといえばいいでしょうか。
私はずっと、他人に選択肢を委ねる生き方をしてきました。幼くは姉の歩んだ道を、母が塞いだ末に残った道を。大人になってからは、そんな過去の怠惰が生んだ臆病さと、心の中にある母の影が、私の道を減らしていきました。別の道へ行ってみたくても、「行っては行き先の人間に迷惑だ」「お前に何ができる、努力もしないお前なんかに」「どうせお前は逃げたいだけだ、甘えるな」という声が聞こえるんです。
でもこれは本当に私の甘えや怠惰がきちんとした理由となっているのだと思います。私は言い訳をしているんです。できない理由を探しては、ほら見ろやはり甘えだった、と。お前のように努力を怠る人間が夢ばかり見てないで現実を見ろ、と。正論です。
適当に生きることが許される人は、それまで真面目すぎるほど頑張ることができていた真の努力家です。私には許されません。
私は今まで、素直で真面目な頑張り屋さんを演じてはきましたが、それを含めてあまりに多く、保身のための嘘をつき続けてきました。なぜか学校に行きたくなくて仮病をし、構ってほしい欲からかありもしないことを言いふらし、見捨てられないためにいい子のふりをして庇護をしてもらいながら自らの怠惰のために利用しました。
私は自分の進路を自分で決めようとした時、母に裏切られたことがあります。母は、親戚が自分の子供が自立するまでは実家を離れることを許さない方針をとっていることを批判し、私や姉にそんな束縛はしないと豪語していました。私はそれを心の底から信じていました。
でも嘘でした。母は正しいことを言う自身の姿に酔っていただけでした。私が行きたい進路のことを話せば、そんな所行ったら良くない、決断はもっと遅らせてもいいじゃないか、そんな所に行かせられる金がない…そう言われて、私は愚かにもそれを鵜呑みにし、強行することができませんでした。
私は以降、母を嘘吐きとして忌み嫌いましたが、私もまた嘘を吐く人間になっていました。幼い頃からすでに始まっていて、大人になって気付いた私の歩いてきた道には、私の吐いた嘘でいっぱいでした。苦しい時に助けてくれた教授がくれた、「その実直さがあればきっとどこへ行っても大丈夫」という言葉も、嘘吐きが塗り固めた表面を真実と捉えてくれた優しい教授の優しい言葉でした。
私は真面目でもなければ頑張り屋でもありません。真面目な頑張り屋さんは学校や仕事を明確な理由無く休んだりしません。
私の本性は、怠惰で臆病な嘘吐きです。見捨てられるのが怖くて、周りの人間を道具同然に利用しようとする害悪です。利用するために嘘を吐いて、「真面目な頑張り屋だけど不器用で弱い、愛される資格を持った人」を演じているだけなんです。そんな私が適当に生きるを実践したら、きっとたくさんの人の反感を買う迷惑な存在になるでしょう。
静かな人が自身を生きる意味のない人間と言っていたところで、周りは「別にそんなことないんじゃない?私には関係ないからどうでもいいけど」と流します。一方、私は迷惑な存在なので、どうでもいいこととは流されず、消えることを望まれます。きっとそうなると思います。
中身が怪物でも人間の形をしている以上、私は努力をしなければいけないんです。普通の人間のふりをする努力を。努力をすることで、やっと生きることを許されるんです。
私も身の程知らずなことに、普通の人間が得ている幸せが欲しいと願ったこともありました。ですが、やはりどうしても消えたい気持ちも出てきてしまうんです。
夜のように暗く静かで、冬のように冷たい、周りに生物も死霊もいない、たった一人の世界の中、ゆっくりと眠りに就き、何十年も何百年も朝が来ないまま、一人のまま。そんなユートピアを何度も夢見てしまいます。そればかりを望んでしまうから、生きるということが私にはあり得ないことのように思えてしまうんです。「何を言ってるの?生きる…って?意味が分からない」と。
適当に生きるって難しいです。適当に生きられるって凄いことです。毎日ヘトヘトになるまで頑張らなくては生きることを許されない、私なんかとは大違いです。
私も、適当に生きることが許される人間になりたいです。
この心の歪みが病気などによるものなら、どれだけ安心できたでしょう。病気のせいなら治せば普通になれますし、私のせいじゃなくなりますから。精神疾患だと診断されて安心する人の気持ちが少し分かる気がします。
でも現実は違います。どれもこれも私のせいなんです。私が綺麗な人間じゃないから苦しいんです。綺麗な人間になるための努力をしないから苦しいんです。みんなが当たり前にできていることを、私はしようともしないんです。醜いと思うのに、変わろうともしないんです。
適当に生きることも、努力することも、私には難しすぎるんです。真面目を演じることに限界を感じ、嘘を吐く自身に嫌気が差しているのに。生きることすら、私には難しすぎるみたいです。
お返事1
私が今回この経験談を書くきっかけとなったのは、ある人の言葉と考え方を受けてのことでした。
その人はまさに「適当に生きる」を地で行く人で、自分のペースというものを把握できている人です。他人のペースに合わせて動ける人は素直に尊敬するが、それで疲れるくらいなら、ただ自分のペースを守って気楽に生きたほうがいい……そういう考え方を、考えのみならず行動に移せている。そういう人です。
私はこの人のような生き方が羨ましくて、私も真似てみたいと感じ…結果としてそれを実践するには、私はどうしようもなく歪んでしまっていたことを、文章を書きながら実感したのでした。
つまり、私の思う「適当に生きる」とは、自分のペースを把握してそれにこそ従順となるという生き方なんです。自己犠牲は決してしない、合わせるとしても自分と他人との妥協点”適度”を見極め、そこに線を引く。私のように適度の線を見つけられないまま、いつのまにか線を越えて疲弊する生き方より、よっぽど器用です。
ある人は私のようなものを金属に喩えました。ありのままで生きることが難しいと悟った人は、硬く硬く、自分を鍛えることによって自らを強くする。しかし硬くなりすぎた金属は強いが脆い。折れてしまう。そんな時に必要なのは柔軟性だ。それがあると、衝撃を受けてもぐにゃりと曲がり、また元通りになる。それこそが本当の強さではないか…と。
感想1の方は鈍感力と表現しました。刺激を拾いやすい人と適度にスルーできる人。恐らくはその後に書かれている「勝手に声が聞こえる」話も、自分を責める声を拾いやすいということなのでしょう。実際、私もそうなのだと思います。気にせず趣味に打ち込んでリフレッシュしてしまえばいいのに、自分を苦しめる声は拾わずにはいられない。何をしていても私の中にこびりついた自分を殺すための声に振り回されて、物事へのやる気は消え、集中すら叶いません。
自分を罰する気持ちは、これはある意味どうしようもないのではないかとも思います。
感想1の方の言う「経験」の問題、そして感想2の方の言う「社会」の問題。後者でいうなら、この社会が「悪を罰することを是(=普通)とする社会」なのですから、私自身も「普通」を実行しているにすぎないのかもしれません。言い換えるなら「多様性が叫ばれて久しいものの、それは単なる理想であるから、”普通”こそを是とする社会」でしょうか。そこに適応するように育ってしまえば、私と同じ苦しさに悶えるのだと思います。
もしお二方の考える通り、環境や経験が私の苦しさの原因なら、こういうことなのかもしれません。
思えば私は、「○○してもいい?」とよく母親に確認する癖がありました。周りが聞くと「そのくらい確認しなくてもいいのに」と思うようなことです。食べていいから買ってきたお菓子を「これ食べてもいい?」と確認するといったものです。そういう時、母は快く承諾してくれました。
でも、そもそもここが既におかしいのかもしれません。何をするにも母という絶対的な法律があるような状態と捉えることもできます。
加えて私には姉という、真似をする対象がありました。趣味も習い事も、途中までは進路まで同じことをしようとしていました。そこに疑問は一つもありませんでした。周りは私がどうしたいかを改めて問い直すことはしませんでしたし、同じ道に進みたいという思考停止状態の私に”なぜ”を問いませんでした。私自身も、自分に問おうとすらしていませんでした。問われなければ考えません。発想にも至りません。
“なぜ”を怠った末が、今の私なのです。これが恐らく、自分で選び取ることに対する不安の原因なのでしょう。そして、自分の欲だけで選んでいい選択肢にまで迷いを感じている今の私の根元にあるしこりでもあるのでしょう。
私は今、好きで続けていたことの楽しさを見失っています。そのためやる気も起きず、体を動かす気も起きません。そして、そんな自身を認めることができていません。「誰かに望まれるものを生み出せない私に価値はない」と。
そして、「できるだけ早く私という個人が消えることで、私の周りにいる全てのものにとって”正しい”状態になる」という妄想とも言える考えが私から離れません。この世の真理のように思えてならないんです。私という個人は、誰にとっても特別な存在ではありません。誰も私という人間が生きることを望んではいません。気休めは不要です。事実ですから。
自分のペースを把握して、適当に生きられるようになれば、きっと「私が生きてれば周りに迷惑かけるから”正しい”状態とは言えないだろうが、ちょっとくらいずれた人間だって別に生きてていいでしょ。みんな周りとそこそこ折り合い付けて生きてんだからさ。正しくなくたって大丈夫だ。」なんて考えが生まれて、それに支えられながら生きられるようになるのでしょう。
たとえ誰にも望まれていないとしても生きてもいい…そう心から思えるようになれば、「適当に生きる」を実践できていると捉えられるのではないかと思います。
長く語り過ぎてしまいましたね。お返事になっているか分かりませんが…お二方の感想を頂いて考えたことを書き記してみました。
頼れる存在がなく独りだった私の言葉を、こうしてしっかりと受け止めていただけて、とても救われました。
少し前に、あるカウンセラーさんから、最近のカウンセリングの主流は終わりのない傾聴から、話を受け止めた上でのフィードバックにより本人に気付かせる、という方法に変わってきているという話を聞きましたが、この経験談のシステムがまさにそのカウンセリング方法に当てはまっているなと感じました。実際に、話すだけでなく感想を頂けたことにより、今は前よりすっきりした心地がしています。
お返事遅くなってしまってすみません。この度は本当にありがとうございました。
感想1
私も、「どうやったら適当に生きられるのだろう。」と悩んでいたことがあり、タイトルの「適当に生きるって難しい」にとても惹かれました。(ちなみに今でも悩んでいます。)私もあなたと同じように、本当に難しいことだと感じています。
私は、適当に生きられる人というのは、鈍感力がある人なのかなと考えています。敏感力が過剰に働き、深く考えてしまう方(思考力があるという意味でも捉えられます。)は、いわゆる「適当に生きる」ことへの難しさがあるのかなと。いい意味で鈍感だと、適当でいられるから、脳が疲弊しないのかななんて思っています。そう思うと、なんでも敏感にキャッチして、深く考え込んでしまう私にとって「適当に生きる」ってかなりハードルの高い事?!と感じました。改めてあなたにとっての「適当に生きる」って一体どんな事なのか、お話をお聞きしてみたいな、いえ、一緒に話したいなと私は思いました。
そして勝手に声が聞こえる感じ、なんだか私と少し似ているかもしれないと感じました。私はよく心身の調子を崩しやすく、学校や仕事を何度も休んで、その度に罪悪感を感じる経験をしてきました。しかし周囲の人は私に何も言わないので(思っていたことはあるかもしれませんが…)、自分で自分を罰するかのように「怠け者」「社会不適合者」「甘え」と自分で自分のことを表現していました。いつしかそれは自分の中に留まらず、他者から何も言われていないのに声が聞こえてくるようになりました。例えば「お前は責任がない」「お前は信頼できない」とかでした。このあなたの経験談では、あなたがあなた自身を非常に強く責めていらっしゃるように感じました。もしかするとあなたもご自身で、ご自身に罰を与えようとしているのかな?それが声となって聞こえているのかな?なんて考えてみました。(私の想像なので、違っていたらすみません。)
怠惰という言葉の意味を調べてみました。「すべきことをなまけて、だらしない性質・様子。」という意味みたいです。私は、この経験談を読ませて頂いて、あなたに「怠惰」という印象は全く受けませんでした。私は、母親さんに裏切られたこと、そして母親さんが道をふさいだことが、あなたに大きな影響を与えたように感じました。自分で何かを決めようとしたときに肯定し、受けとめてもらえなかった経験が、いつしか諦めのようなものに繋がり、「他人に選択肢を委ねる生き方」「怠惰」とご自身を表現することに至ったのかなと想像しています。ですが、本当にこれは「怠惰」なのでしょうか?ご自身で「怠惰」と感じている今のあなたをそのまま受け止めたい気持ちと、いやそれはあなたの責任ではないんじゃないかなという気持ちと… 2つの気持ちが今、私の中に生まれています。
最後に、あなたは嘘吐きが塗り固めた表面と仰っていたけれど、「実直さ」と教授が表現したあなたも、本当のあなたなんじゃないかな?と私は思いました。自分自身の中にある色んな自分を、偽物、本物というのははっきり分けられない気がしていて、素直で真面目な頑張り屋さんなあなたも、あなたを構成する1人のあなただと私は思うのです。
生きることは難しいけれど、またここ(死にトリ)で、生きる難しさを一緒に共有したいなと思っています。お待ちしていますね。経験談の投稿、ありがとうございました。