経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

「僕の死にたい理由」後日談

あれから受験をとりあえずやった。結果は惨敗。ギリギリ受かった滑り止めのところに入学した。受験が終わった頃に精神科へいった。適応障害と診断された。今までのよくわかんない心の中から湧き出てくる「死にたい」という感情の理由がわかった気がして少し安心した。しかし、不安と死にたいという感情は無くなったわけじゃなかった。中学校はできるやつと思われていたため中学の同級生に大学を聞かれるたびに情けなくなると同時に他の人と比較してしまってなんとも言えない虚無感が生まれる。一体どこから歯車が狂ったのか考える毎日。でも何も変わらない。気持ちも晴れない。結局は自分で蒔いた種。この時点で自分ができる方だと思っている。もう嫌になる。自分はできないんだと認めたくない自分がいる。でも、その感情が湧いてくるたび自分がどんどん嫌になる。この感情は一生背負っていくしかないのだろう。大学生活は楽しい。でもやはりふと死にたいと感じることがある。やはり、幸せな気持ちで生きていくことは出来ないらしい。今まで自分の能力を過信して驕り高ぶっていた業なのだろう。大して能力もないくせに。やはり、自分が嫌いである。大っ嫌いだ。これは今後も一生変わらない。頭の中をごちゃごちゃさせたまま毎日を生きている。何も感情が整理できないまま頭の中に真っ黒いモヤがかかっていてその中から負の感情が無尽蔵に湧いて出てくる。次は就職。だいぶ先のことだけど今の状態は何十年後も変わることはないだろう。今の感情を抱えながら果たしてできるだろうか?自分のアピールポイントなんて一生かけても見つからない。失敗するのは目に見えている。それでまた出来る人に嫉妬してより自分が嫌いになる。1番嫌いなやつと二人三脚で死ぬまで人生を過ごさなければならない。それが僕の死にたい理由である。

感想1

1年ぐらいたってまた、その後のことを書いて送ってくれたのですね。再び、書いて送ろうと思った理由やきっかけをまず知りたいと思いました。死にトリのことを覚えてくれていたのかな?と思うと、ちょっと嬉しくなりました。
1年前とは違って、大学生になったり、精神科に行って適応障害と診断されたり、状況は変わっているようですが、引き続き、苦しい気持ちや死にたい気持ちがあることは伝わってきました。ただ、苦しさや死にたいの中身はこの1年の中で何か変化があるのか、興味を持ちました。おそらく、変化はあるのではないかと感じています。
今回の経験談では希望する大学に行けなかったことや理想とするものに近づけなかった自分に対する嫌悪が書かれていると理解したのですが、どこの大学に行くのかがそんなに大切なことなのかな?と私は疑問に思っています。確かに世間では大学にランクのようなものがあって、それを気にする人はそれなりにいるというのは分かっていますが、実際に出会う人で考える時に出身大学で人の優劣は感じたことはないですし、どこの大学だろうと、あるいは中卒だろうと高卒だろうと、理解し合える人もいれば、気の合わない人もいるし、人生の質もみんなバラバラだと私は感じています。確かに生涯年収など、経済的な面では学歴が関係するところはあると思いますが、そうではない価値もあると私は思っています。
今は自分のことが大っ嫌いとのことですが、大っ嫌いというぐらい自分に関心があるし、好きになりたいからこそ大っ嫌いだと思うのではないかと私は感じました。私は自分のことを無理に好きになる必要もないし、嫌いでもいいし、どちらでもいいと思います。ただ、自分に対する気持ちを持つことは悪いことじゃないと感じました。一人で考えても行き詰まるので、自分について語れる仲間ができることを願っています。もしも、周囲に見つからない場合は、こうしてまた死にトリを活用ください。

感想2

前回経験談を送ってもらい、その後の状況や気持ちの変化などあったかな?と思っていたのでこうして後日談として今のことを伝えてくれたこと嬉しく思います。受験の結果は惨敗とあり、投稿者さんとしては挫折感や惨めな気持ちを拭うことができず、どうしても苦しくなってしまうのだと想像します。しかし、適応障害と分かったことで自分の感情(死にたさ)の理解に繋がったこと、望んでいた大学ではないけれど「大学生活は楽しい」と思えることは投稿者さんの中でプラスに働くこともあるのではないかなと私は感じています。
また、改めて学歴によって人の価値や評価が左右される社会の在り方に疑問を抱いてしまいます。良い大学を出ようと良い会社に就職しようと必ず幸せになれるかと言えばそうではない現実も確かに存在しますし、どこに所属するかが大切なのではなく、どこに身を置いてもその場所で自分の力を発揮したり、色々な人との出会いの中で得られるものを吸収していくことのほうが大切のではないかなと私は思っています。
「自分は出来ないんだと認めたくない自分がいる。」とあり、ずっと葛藤し続けている様子が浮かんできて、どうすればこの苦しみを手放すことができるのだろうなと考えていました。無理に認める必要もなければ、自分を好きになる必要もないと私は思いますが投稿者さんの中にある自分への価値基準ではそれを許さないでしょうかね。何となく、できることが当たり前の自分が今のできない自分を追い詰めているように見えてしまって、そう簡単なことではないというのは承知の上で、認める・認めないの前に今の自分をまず許してあげてほしいなと勝手ながら思うのでした。
先のことは誰にも分からないことではありますが、もし何か状況や心境に変化があった時はまたいつでも死にトリに伝えにきてほしいなと思いました。お待ちしていますね。

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