はじめまして。
少し私の過去を振り返り、
現在の辛さを整理したくて書いています。
私がはじめて生きていくのがつらい、
しんどいと強く思うようになったのは小学校高学年の頃です。
何が原因で、理由だったのは未だによくわかりませんが
その頃は同学年の人からいじめを受けていました。
その後、私は不登校になり人間不信や拒食症に近い症状が出ました。
現在は精神科などにかかり精神疾患に悩みながら今を生きています。
そして今の私が思うことは、
「生きることはつらいことでありしんどいこと」ではないかと思います。
それこそ、生きていればいじめを受けたという心の傷や
精神疾患での悩みは無くなることはありません。
他にも身内の冗談などでの心ない言葉や
人と比べられ評価されることも辛いです。
視覚、聴覚や嗅覚などの敏感性を持っている事実もあり
今の音の洪水のような町や情報過多な町並みも苦手です。
一番の身近な人から聞かされ続ける愚痴やミスに怒鳴られたことがあるので、誰かに自分の気持ちや思ったことを伝えられず体に不調が起こることもあります。
私が我慢すればいい。
私が頑張ればいい。
当時からそう信じ込んで私は自分を守っていたのでしょう。
今は気持ちの伝え方や相談できる相手が居てくれるので
課題はまだまだありますがその考え方に変化が起きています。
長年我慢し続けて、助けて!と声をあげる事は無駄なのだと、
助けは来るわけがないのだと諦めていました。
けれど、助けてほしいと声をあげる事は
無意味ではないんだなぁと今は思えます。
強くいなさい、
あなたは弱い、出来ない子、生むんじゃなかった。
文字に起こすだけでも心がザワつく、未だに私を縛る言葉たちです。
言葉の力はとても大きく、特に身近な人から
受けたものは強い影響を与えます。良くも悪くも強いのです。
あの頃があったから今がある。あの時、死のうとして失敗したから今がある。
死にたいのではなく楽になりたかった。
誰かに助けてほしかった。
きっと、そういう叫びは様々な人の心にある。
私はこの生きていくつらさは誰にでも形を変えて
のし掛かっているものだと強く感じます。
だからこそ人を、私自身を、嫌いにはなれません。
なぜ嫌いになれないのか?
それは「嫌い」になる前に「好き」であるからです。
寧ろ私は「好き」であり「嫌い」なのかもしれません。
好きか嫌いか、その2択だけではない。
そして私が生きている理由は、私自身が自分を好きになりたいからです。
人からの評価ではなく自分で自分を愛してあげたいのです。
きっと、これからも生きるのはつらいでしょう。しんどいでしょう。
だったら私だけでも私を愛して味方になれるように生きます。
ここまで読んでくださりありがとうございました。
感想1
経験談の投稿、ありがとうございました。あなたの中で「生きることはつらいことでありしんどいこと」と思いつつも…「自分自身を好きになりたい、愛してあげたい」という気持ちから生きる選択をした、あなたの強い覚悟を私は感じました。同時に、あなたの経験談を読ませて頂いて、生きることへの勇気が私の中でちょっと顔を出してくれた気がします。私にも様々な生きづらさがあり、よくこのまま生き続けるのはしんどいことなのではないかと考えます。そう考えると、私はとても生きることへの気力が中々わきませんが…あなたも恐らく様々な生きづらさを抱えつつ、それでも「自分自身を好きになりたい、愛してあげたい」という気持ちを持つまでには一体どんな過程があったのだろう?と、ぜひお話を聞いてみたいと思いました。(私とあなたとでは、どんな考え方の違いがあるのかなと気になったのです。)
また、「だからこそ人を、私を、嫌いにはなれません。」という部分がとても印象的でした。誰にでも生きていくつらさが形を変えてのし掛かっていることが、どのように「嫌いになれない。」という気持ちに繋がっていったのか…先程と同じになってしまいますが、お話を聞いてみたいと思いました。加えて今まで、どんな相談できる相手との出会いがあり、どんな考え方の変化があったのかなどなど…もしよかったら、また経験談でお話を聞かせてもらいたいです。いつでもお待ちしていますね。