経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

人間を信じられますか?

生きとし生けるものは、どの世でどの環境であれ年齢も性別も容姿も関係なく、いじめは無くならない。
人間はバカだよね。いつの世界でもいじめがなくならない。『人間を信じられますか?』
10代から20代の悩める世代に、人間をおすすめしずらいし、共に生きようよと声をはって言いにくいよ。

当時学校に行くのが怖かった。
不登校の道や、フリースクールの方法とがあると、その当時は思いもつかなかった。

中学時代、昨日までクラスメイトとして話してた相手が次の日は、態度急変して暴力的になった。
(グループを組んで、わざと人の悪口を大きく言う等)
訳がわからない。いじめに意味などないのだろう。
それに留まらず、
私が学校で誰ひとり友達ができなくて、ある昼休憩に独り教室にいたら、同じクラスの女子3人組がやってきた。「鬼ごっこ一緒にしようよ。」と誘ってきた。
瞬時に怪しいと思ったが、断るのも悪いと思う方を優先し、承諾してしまった。
じゃんけんの時に、3人組がこそこそ何をだすかをし始める。
(やっぱり最初から私を鬼にして、楽しむつもりかと確信した)
じゃんけんで、3人組は同じの出し、私が鬼になった。(善意という名の悪意のゲーム。)
ゲームを始めて、相手を追いかけるふりして、私は、図書室にこもった。図書室の窓から3人組以外の同じクラスの女子が、私を覗きに来て笑いながら去っていく。(偵察部隊か。)
(クラスのある程度がグル。)
図書室の階段で、私見て慌てて、ほくそ笑みながら教室に戻っていく同じクラスの男子。
休憩時間までずっとアホの遊びが続いた。
人間が信じられないし、死にたくもなるわ。
ふざけた3人組がやってくれたことは、現在も
許せないし、心は一生残る。
もっとふざけているのは、傍観客のようにほくそ笑むクラスどもだ。今でも腸が煮えくり返る。

私が大人になり、ニュースで某ビル屋上から飛び降り自殺が起きてしまった痛ましい事件があった。
そのニュースで、中学時代の苦しみがよみがえってきた。傍観者が、携帯撮影をする許されない光景を見た。大勢の方が携帯をいじり撮影していましたね。(どういう気持ちなのかも聞きたくない。)
いじめと同様に、そこにあったから意味はないのだろう。
傍観者が一番たちが悪いのを証明してましたね。
人間を辞めたくなるし、救いもないですね。
若い人たちにおすすめしずらい。人生救いもないし、生きづらいよとしか言えない。

『人間を信じられますか?』
加害する人は、だいたいがタッグかグループで組む。
全部を信じなくていい。でもね。
自分が想う相手だけを信じてていいんだよ。
いじめの経験もね、社会に出てからも過去の経験があるから強く闘えるよ。現に私は、暴力行為した歴代上司はクビになってその場から居なくなりました。人間観察が強くなれるよ。
大事なことをもうひとつ、人間で一番信じることは、自分自身を信じること。
難しいけどね。私自身が大嫌いで、自分を責めるばかりの癖は、なかなか変わらないけれど。気持ちを緩くしてもいいかなと思う。

混沌とした世の中に、凝り固まった心を緩めることも、許してあげるのも、自分しかいないのだから。

感想1

「10代から20代の悩める世代に、人間をおすすめしずらいし、共に生きようよと声をはって言いにくいよ。」この言葉に、私も共感しました。今回は「いじめ」を主なテーマとして経験談を書いてくださっていましたが、いじめ以外にも人間を生きづらくさせている要素はまだまだ存在しているな…と私は思います。生きづらい要素がたくさん散らばっているこの世の中で、確かに人間はおすすめしづらいなと率直に思いました。

 中学生だった当時されたことを思い出すと、あなたが何十年も経った今でも、当時の記憶や苦しい感覚が鮮明に思い出されていることが、よく伝わってきました。加害者にとっては小さなことだったかもしれないが、被害者にとっては一生心の傷になる大きなことだった、という話をよく耳にします。このような話を聞くたび、やるせない気持ちに私はなります。被害者が、どうして一生傷を背負わなきゃいけないのでしょうか。本来は背負う必要がないのに、なぜでしょうか。今回あなたの経験談を読んで、私は改めて強く思いました。

 今回の経験談では、「人間を信じられますか?」という言葉が3回出てきています。私はあなたに、強く訴えかけられている感覚がありました。私も、そのことについて真剣に考えました。人に裏切られたと感じたとき、「勝手に期待していた私が悪いのか?」と自分を責めたことがありました。肯定的な声かけをされても、純粋に受け止めきれない自分が居たこともありました。いつも、人を信じることの難しさを痛感しながら私は生活していたのだと、思い返しました。最後の、「混沌とした世の中に、凝り固まった心を緩めることも、許してあげるのも、自分しかいないのだから。」という言葉は、人間を信じられるかどうか、ずっと自問自答し続けてきたあなただからこそ、言える言葉だと私は思いました。「自分自身を信じること。」あなたの言葉に、私は背中を押してもらえた気がします。

 今回「人を信じること」について真剣に考える機会を、あなたに作って頂きました。まだまだ生きづらい世の中だけれど、そんな世の中だからこそ、一人じゃなく共に生きようよと、私はあなたに伝えたいです。投稿、ありがとうございました。

感想2

決意が込められたような文章だと思いました。確かに自分が経験したこと、感じたこと考えたことをもとにたどり着いた問い「人間を信じられますか?」がとても響いてきました。同時にその後に続いて「私は信じられません」という言葉とかすかに「でも、信じたい」という気持ちも感じとっています。そう書きながら、それは私の気持ちが投影されただけかもしれないと思いました。経験談を読み、私も同じように人間を信じられない、人間にもう期待しても仕方ないのではないかと思いながらも、でも信じたいし、期待もしたい気持ちがあると思ったからです。
いじめがなぜ、こんなにもいつでもどこでも繰り返されるのか私自身、歯がゆく、悔しく思います。ただ、別の意味でいつもどこでも他者を救ったり、心を寄せたりする行為もまたどこかで繰り返されています。自分だけのことを考えるのなら、いじめる行為も助ける行為もどちらもあまり意味がない気がしますが、これだけ繰り返されるからには人との関係性や関わり、そして集団というものに私たち人間は影響を受けていることを再認識しています。いじめの加害者がタッグやグループだという指摘もありましたが、それも人が一人ではなく、誰かとつながることの功罪なのだろうと思います。一方、支え合えることは誰かとつながることの強みなのだろうと思います。私たち人間はいつも両価性のある物事に直面化し、いつも選択を迫られているような気がします。あなたが指摘する通り、私たちがバカで選択を間違えてしまうこともたくさんあるようにも思います。ひょっとしたら選択をしていることに無自覚なことも多いのかもしれません。
最後に、「一番に自分自身を信じること」と明確に伝えていることが印象に残りました。自分が大嫌いで自分を責める自分とも付き合いながら、自分を信じることの力を実感しているからこその言葉なのだろうと思います。でも、自分を信じるというのはどういうことなのかな?とも思いました。いろいろと考えさせられることが湧いてきました。機会があったら、あなたの問いをいろいろな人たちと一緒に考えていきたいと思います。

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