経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

私の人生いろいろ

私は小学5年生の頃からいじめにあった。
それは両親の離婚かつ体臭が原因で…
その頃からメンタル崩壊してたんだと思うんだけどお風呂で髪を洗って体を洗わず浸かって出る生活をしていた。
もちろん匂いで父親に『もう一回風呂入ってこい!』と怒鳴られた事も…。
学校では『バイキン!!臭い!』『うわ〜菌がついた!タッチ!』『菌が移るから机離せ』など6年になってからも続いた。その当時はいじめのターゲットになっているのも知らず鈍感な私だったが…やっぱり心はズタボロだった。
その後、離婚調停等あり母に私・弟・妹の3人を引き取られ、小学校卒業後、母方の地元へ引っ越しすることに。。
新しい中学校生活…もちろん友達も知ってる人も居ない。田舎だったので転校生は2人…でもその子は隣のクラス…もちろん私は孤立…
人との関わりが上手く行かず保健室へ逃げる生活をするように…
修学旅行や班決めももちろん孤立…『えー!』なんて言われる事も。
とにかく自分嫌われてる!もう嫌だ。と思う日々。
家庭も弟の家庭内暴力で母も戸惑う日々。
祖父と祖母も来る騒動も多々あった。
あの時なぜ警察を呼ばなかったのか…と今思う。
その後も家庭内暴力は続き私もメンタル崩壊寸前。
とにかく家に帰りたくなかった。
家に帰ればパンが入れてる物が降ってくる棚は倒される唾は吐かれる叩く蹴るは同然、加減なくめちゃくちゃにされ疲れる日々。
こんな生活から逃げたく高校卒業後は県外の短大へ。
金銭面の関係で寮生活…3畳の部屋で。
そこでも色々な人にイライラピリピリして当たる生活。もちろん皆んなから嫌われる始末…
どうやっても集団生活できず2年生で寮内にある自炊組の部屋へ移動!
仲良し組で部屋に入ったが1人がオタクで最終的には喧嘩して2人で生活するように…
なんだかんだ言いながら1年間楽しんで卒業!
その後、島根へ臨時採用で高校の養護教諭(保健室の先生)になるが…知らない土地・誰も仲良しな人居ない等で慣れず…6月ごろからメンタル崩壊。リストカットもした。上司に相談しても『私ばっかりに言わないで!』『病院行き!』と言われ渋々病院へ…
処方された薬は副作用出るし眠くなるし…
とにかく最悪だった。
夏には実家帰ったりしていたがやはり地元が良くて島根に帰る時は泣きながら運転してた。。
病院でこれ以上は無理よ。と言われ11月ごろに休暇で実家へ…
それも早いもので過ぎ再び戻ったが…やはり良くならず年休も0で生徒の対応もままならず…
どっちつかずで3月末退職。
その後紹介で片道高速で40分の距離の幼稚園へ転職。もちろん副作用で寝坊もしたし園長や先生方からのパワハラが激し過ぎて8月に退職し実家へ…。
実家では心が折れててもなぜか大丈夫だったがやはり弟の暴力等あり逃げたい一心であちこちいろんな職を転々とし落ち着かない日々を過ごしていた所に一本の電話が…『山口県の○市の離島の臨時的養護教諭を探してまして…』離れたい一心で【行きます!!】と返事…。
また同じこと繰り返したくない!ここで養護教諭として働くんだ!!と決心はするが…
1日4便…片道45分の乗船…時には大荒れでジェットコースター並みの時も…週末は実家へ帰って居たがやはりそれもそれで心身共にストレスでした。だんだん慣れていくうちにストレスも膨大に…養護教諭なのに雑用係みたいな感じだし島民が魚持ってきたらそれを捌かなくてはいけない…。お酒の相手もせんといけん。もちろん虫との戦いもあった。こんな生活嫌だと思うようになったのは秋頃から…
食材も島には売っていないので持って来なきゃいけない。病院もない。電話は繋がらないわで不安膨大になりうつ病に発展してしまった。
夜の海に飛び込みたい。死にたい。薬も大量に飲んだ。このまま意識飛べばいいのに。と思う日々…。
実家へ帰り病院へ受診し入院が決まる…
閉鎖病棟で携帯も使えんし不便で困った。
退院してまた島へ戻ったがやはり元気は出ず3月退職し、また入退院を数回繰り返す。
その後今の医師と出会い病みが少しずつ消えていき母からも理解を得ることができたが…《怠け者!理解できん!》と言われる事も多々ありもうどうすればいいの??とまたどん底へ突き落とされる日々を繰り返す。
その後O市でまた臨時的採用が見つかり一人暮らしを始める。初めはよかったが…1ヶ月過ぎる辺りから様子がおかしくなる。。また負のスパイラルへ…そこでも仕事は続かず8月末退職し入院もした。医療費の滞納が続き働け働け!と親に言われんばかりに市役所で生活保護の申請を試みたりしていた。(もちろんダメでした)そんな頃今度は高速通勤だが実家から通う学校関係の仕事が見つかり勤務することに…
そこの校長先生はとても良い方で遠くからわざわざ…。ありがたい!ありがたい!と退職するまで言われ続けた。途中肺炎になり入院もあったが…電話で『心配しなくて大丈夫だから治してまた来て』と言われ涙する事もあった。
その後同棲を機に精神面が一気に変化!
地元でも高速で少し行った学校の臨時的養護教諭を2ヶ月限定でし、その後夏まで通勤ラッシュに巻き込まれながら勤務した学校もあった。
そこでは校長と揉めて主人も出る羽目に…。
その後転々と職場を変わり…
最終的にどこへ行ってもトラブって辞めるパターンで終わった。
子どもが産まれて1年経たないうちに心不全を発症しもしかすると難病かもしれない。と告げられる…いまだに原因不明だが何もなかったように落ち着いてる日々。
職は派遣で自由が効くようにしている。
行きたくない時は理由適当につけて休んでみたり…。
死にたいとは思わなくなったがやはり休み癖はまだついている状況。
こんな生活で今生きてるのだからきっと皆んなもあの時は大変だったけど…と思い返せる日が来ます!
命をどうか捨てないでください。
今お辛いと思います!!
逃げてもいいけど命だけは捨てないで。
お願いします。

感想1

経験談への投稿ありがとうございます。

どんな言葉を並べても、あなたの前ではどれも偽善やどこか嘘っぽく聞こえてしまうんじゃないかと感じるくらい、数多の過酷な経験を乗り越えて、ここまで生き延びてこられたんだなと初めに思いました。
自分の力ではどうすることもできなかった場面もたくさんあったのではないかと思います。いくつもの不条理な現実を目の前にして、あなたはどんな気持ちでいたんだろうと想像すると、胸が詰まる思いです。そして、これまでの人生を振り返りながらこの投稿を書いていく中でも、どんな気持ちになったのだろうと考えています。
高校卒業を機に大変な環境を自らの意思で脱出したけれど、そこからもまた苦労の連続だったのですね。希望を見つけた矢先でもストレスにさらされ、周囲にも理解を得られなかった場面はとてもつらかったのではないかと感じています。
それでも傷つきながらも、立ち向かって戦って、自分の力で人生を切り拓いてきた逞しさを感じました。でも、それは周囲の環境によってあなたがタフにならざるを得なかったと思うと、何だか寂しさや悲しさを感じたりもしています。
最後の言葉は、底の底を見たからこそ伝えられる一言なのかなとも思いました。休むこと、逃げることも大事なことだなといつも思います。どうかお身体と心をご自愛ください。
まだまだエピソードはたくさんあるんじゃないかと想像していますが、またここ(死にトリ)でもお話を聞かせていただけたらと思っています。お待ちしていますね。

感想2

勢いのある文章で早い展開のドラマのあらすじを見ているような気持ちになりました。そして、大変だった事実がたくさん書かれているのですが、どこかコミカルで、書いたあなたはいったいどんな人なのだろうか、学校ではどんな先生だったのだろうか?と想像しています。嵐のようにやってきて、嵐のように去っていく、既成概念にとらわれない個性的でいつも全力で一生懸命の姿を勝手にイメージしています。
子どもの頃に排除や否定をたくさん受けてきたのに、過酷な事実も受け止めているたくましさはどこから来るのかな、それとも、ひょっとしたらあえて事実を深刻に受け止めない、軽く麻痺をさせることで自分を守っているのかもしれないと文章からあれこれと想像していました。個人的には離島の仕事の話のあたりはとても興味があり、もう少し詳しく教えてもらいたいと思いました。
いろいろと大変なことがこれまであっても、今は何もなかったかのように落ち着いている日々だとありましたが、あなたの経験談を読んで随所で味方になってくれる人との出会いがあったように感じました。これからも、いろいろな出会いがあると思いますし、逆に今はお着いた日々でも、この先にまた大変なこともあるかもしれません。ただ、あなたはこれまで通り自分らしさを発揮して、出会いを生かして過ごしていくのかなと思っています。
子育てもしているようですが、あなたのいろいろな経験は自分のお子さんだけではなく、子どもたちと出会い関わることによって、個性的で自分らしく生きている大人の姿に触れる機会を子どもたちに提供できる貴重なものだと感じました。ご自身の経験を生かして、今つらい気持ちでいる人たちの気持ちをそのまま受け止め、多様な個性を認め合える社会を共につくっていけたらと思いました。これからも、死にトリをよろしくお願いします。

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