それまでも小さな片鱗はあったのかもしれないけど、自分が路頭に迷った感覚が染み付いたのは高校も大学も第1希望には行けなかったからだと思う。これは大学がダメだったときに無心で書いたもの。
さてこれからどうしよっか。どう生きよっか。なんも残んなかったな。なんも成せなかったな。
これ以上迷惑をかけたくないからいなくなりたいのに、ばあちゃんを亡くしてすぐのお母さんを思うと逃げられない。悲しませたいわけじゃない。苦しませたいわけじゃない。ただ生きていたいんじゃなくて、ただただ生きていたほうがより悲しむ人が少ないって言うだけ。ありがたいことだと。生きていて良いって言って貰えるのがどんなに嬉しいことで、苦しいことか。
5分の1世紀生きてきて知ったのは自分はそんなに出来の良い人間じゃなくて、皮を被った出来損ないだってことくらいだ。悔しいとか、嬉しいとか、いつもは何処にしまい込んでしまっているんだろう。出てくるべき時に出てくるべき感情を引き出せない自分は上手い具合に欠陥品だ。外見では判断がつかないタイプの質の悪い欠陥品。尊敬すべき父と愛すべき母に出来の良い娘を提供できなかったことが悔やまれる。私より余程将来有望な妹にはそうあってほしい。当然強制などしない。一般それは長子たる私の使命だったのだからただの願望である。
そうか、もうあそこには行けないのか。寂しいようだ。どこかで妬んでいるようだ。その気持ちを中心に据えて泣き喚くことをどうしてしないのか。どうして出来ないのか。どうしてもっと上手く生きられないのか。どうしてもっと期待に答えられる人間でないのか。どうして何も才能がないのか。器用貧乏で学校優良児だ。救いようがない。ただただ平凡だ。間違いなく欠陥品だ。
でも然るべきところで欠陥品だと証明してしまったら間違いなく好奇の目に晒されるのは親で、妹で、しかもその好奇の目を向けるのは親戚たちだ。自分が原因で家族が好奇の目で見られ、同情に晒されるのは耐え難い事だ。死でも購えない。死など以ての外か。それこそそれらに苦しめられる。それこそ死ですら償えない。
今考えるといじめだったのかすら曖昧なシロモノが原因で暗くなった性格を克服した振りをして生きていたら何のバグか同性を好きになり、不要な取り越し苦労の一人相撲をしていたら高校に落ちていた。そこで無くしたんだかしまい込んだんだか置いてきたんだか分からない感情が出てこなくて上手く表示できなくてただ流されて生きたその先でまた同じように落ちている。
もういいか。自分の好きに生きても。好きだったのも気の迷いさ。優良児だったのもただの振りさ。自分をどうしたって信じてあげられない。乖離してしまっても問題は無いだろうか。明日の行方は。未来の行方は。私の余命は何年か。あと何年生きたら元が取れる?あと何年生きたら呼吸は止まる?命を横に吊り下げて、隙あらば天秤に掛けようとする時点で己の大義に喋り倒す死生観などたかが知れている。
どうして働くのか考えろと父に言われたから「お金を稼ぐため。家から出るため」と最初に言ったら「どうして1番にひとりでも食べていくためとか、生きるためとかいう言葉が出ないんだ」と怒鳴られた。性質の似ている父との違いは始点が生にあるか死にあるかだ。そんな思考ひとつですら正しく導き出せない。父と母の掛け合わせは劣化品だった。できればゲノムから書き直すか、違う精子に取り替えるか、違う卵子に入り込むか、どれか選びたい。もういいかい。生きなくても。
感想1
混乱の中、思いのままにつづった文章なのでしょうか。まとまらず、迷い、思い悩む内容がリアルに伝わってきて、読みながらいろいろ考えました。キーワードのように繰り返し出てくる言葉について、特に考えてみました。前半は「欠陥品」という言葉が何度も出てきました。私はあまり人のことを「品」の意味で考えたことがなかったので、あなたがどうして自分を物のように表現するのか気になりました。何かのために役に立つとか有能であるとか、誰かの期待に応えなければならないなど、人間の価値を商品のように考えているように思う一方で、そうではない何か手応えや価値を見つけたい、感じたいという気持ちも感じています。その両方の価値の間で迷っているのかもしれないと思いました。私はどちらかが正しいというふうには思っていません。見る人にとって場合によって、その時の気持ちによっても、価値をどこに置くか異なりますし、人は多面的なものだと思うからです。
でも、あなたは何か答えを出さなければならないとか、理想的な生き方をすべきなのではないかと感じていたり、よくわからないけれど、自分は間違っているのではないかという不安があるのかなと感じています。
そして、後半は「もういいか」「もういいかい」という表現が印象的でした。前半に感じた終わりのない迷いや不安に押しつぶされて「もう、これ以上考えたくない」「迷いたくない」という気持ちなのかなと想像しています。最後にゲノムや受精の話になったので、ますます現実から逃げていきたい雰囲気が伝わってきて、想像力の大きさにあなたの個性を感じています。全体をもう一度読み直して、感じたのは社会の見えないものと戦う姿でした。戦う相手がわからず、そもそも戦うことが正しいのかわからない中で一人戦うのはつらいと思いますし、「もういいか」という気持ちにもなると思います。
そして、そうした話をする機会が多くあるわけではないと思います。でも、私はそうした迷いを分かち合ったり、話し合ったりすることが社会の在り方や人の生き方をいい方向に導く力になると思っています。だから、こうして文章にして送ってもらったことを嬉しく思います。これからも死にトリと生きることについて、迷いについて一緒に考えてもらえるとありがたいです。