経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

つらい思いが溢れる

ただただ苦しくて、苦しさをどこかに向かわせたくて、色々探した末にここにたどり着きました。
でも、私の苦しいはボヤっとしていて、程度で言えば大したことないと判断されると思うから、書き込むこと自体おこがましいとは自覚しているのですが、それでもみっともなく書かせてもらいます。

もう40近いのにまだ「死にたい」と思う。

昔は大人になれば何もかも慣れていって、平気になって、強くなって、人生を楽しんで生きられるのだと思い込んでいた。
なぜだろう?
多分「大人になる」ことのイメージがそういうものだったから。
子どもの私には、つらいことが多い子どもの私には、そう思い込むと救いだったのだと思う。

でも、大人と呼ばれるようになって久しい私は、何事にも慣れた感覚を持てない。
それどころか、同じ間違いを繰り返して、間違う自分が嫌になる。

昔から学校に通うということが苦痛だった。
不登校になったことはない。でも、苦しかったことは覚えている。
何かを押し付けられるのがとても苦手だ。時間割でもルールでも。
人間は社会に属して生きるものだと思っているので、苦手だけど社会のルールというものには乗っかる。乗っからなければ生きていけないとどこかで思っているから。周りの人もそうしているから。
でも乗っかれば乗っかるほど苦しい。乗っかりたくはないのに結局乗っかる自己矛盾に苦しむ。そもそも私を苦しめるものを受け入れることに苦しむ。
そして、最悪なのは、乗っかれずにコミュニティから煙たがられる人がいると、私はそのコミュニティが苛立つ空気が嫌で、そこから逃げ出したくなる。乗っかれない人を助けるとか、そんなこともできずに。自分が可愛くて逃げる。だから、いじめられていた子を見捨ててしまったこともある。いじめる側についてしまった。

小学生から高校生ぐらいまでは、音楽や映画が大好きだった。ライブに行くことにのめりこんだ。
純粋に素晴らしいと思う心もあったが、その他にも、つらいことから逃げられるから、心がそうさせていたと思う。

大学だけはちょっと違った。
国外へ逃げた。自由を自分の責任で背負う。ルールを守っているのかどうか、干渉する関係というのはあまりないように感じた。
大変なことも、プレッシャーに感じることもあった。でも、生きているのが苦しいという感覚はそう持たなかった。
いつの間にか、狂ったように映画を観たりライブに行きたい衝動がなくなっていた。

でも大学は終わり日本に戻ってきた。
今はまたライブに行きたい。
音楽に、バンドに、一時でも踊る心が欲しい。
苦しいとかつらいとか、忘れられそうな所へ行きたい。

仕事を長く続けられない。
苦しくなって辞めてしまう。それではそのうち転職すらできなくなって、稼げなくなって生きていけなくなるので、今度の仕事は辞めてはいけないと思う。
でも、始めたばかりの新しい仕事がつらい。始めたばかりだからしょうがないのだろうけど、物覚えが悪い、仕事ができない、周りに迷惑をかける自分がつらい。
仕事に慣れてもつらくなることは山のように出てくると思う。これまでもそうだったから。
でも辞められない。辞めてはいけない。自分だけがつらいのではない。仕事はつらいもの。
そうやってみんな生きている。だから辞めてはいけない。
でも、みんながそうだから自分もそうしなくちゃいけないというのは、本当は納得いかない。

納得できないなんて甘ったれで、根性なしで、生きる価値なしで、どうしようもない人間だと思う。大体にして自分が納得するかどうかなんてどうでもいい話だし。でも、自分の感覚を捨てきれない。だって、これが私の自然なのだから。自分にとって不自然の方を納得するのは…どうすればいいのか?
その方法がずっとわからない。
苦しい。

明日の朝起きたくない。
他の人も書いてたけど、私も寝るとき「このまま目が覚めなければいいのに」と思う。
寝てる間に心臓発作でも何でもいいからおきて、誰にもどうにもできない理由で死ねたらいいと思う。
自殺は周りがかわいそうすぎるから。
自殺だと周りの人が「自分のせいじゃないか」とか思っちゃいそう。そうじゃなくても、「なぜ?」という思いに一生囚われることにさせてしまいそう。それはかわいそう。私なんかのせいで。
でも、病死とかならある程度「しょうがない」って落ち着いてもらえるかな?なんて思っている。

こんな風に思っているけど、身近な人につらい思いをさせられているわけでは決してない。家族も友達も優しい。
一度、突然会社に行けなくなって3日で辞めてしまった。その時も家族はあまり私を責めずに家に戻してくれた。友達も私に優しかった。
そういう人に、こんな気持ちを知られたら、相手を傷つけるだけだなと思う。だから、身近な人にこそこの気持ちは言えない。

でも、一度、学生の時に親に「なんで生きているのかわからない」と言ったことがある。
すると親は「何言ってんの?」って反応だった。通じてなかった。親には意味が分からなかったようだ。
もしかしたら私以外の人間には意味の分からない疑問なのかもしれない。
でも、私はずっと思っている。「なんで生きているんだろう?なんのために?生きていたくもないのに?」
でも、こういうネガティブなことは、相手に理解されなかったり、相手を困らせる恐れの方が大きいので言わない方がいいと思っている。世間の常識的にも多分そうだと思う。本当に死にそうになった時にしか、自殺を考えて未遂になったとかそういう時にしか、言ってはいけないのだと思っている。
でも本当は言いたいし、本当は聞きたい。この言葉を真に受けて、優しく返してくれる人の言葉があるならば。

つらい思いが消えない。苦しい。ここまで書いてきた文章を読んでも、原因は自分にしかないと思う。誰かに責任転嫁しようとしている自分も垣間見えて自分への落胆も深くなる。そんな自分のネガティブさに自分でも嫌気がさす。
こんな人間生きていて何の意味があるんだろう?
表面でいい人を装ってて、心でこれだけくだらないドロドロしたことを思っていて、こんな人間を誰かにちょっとでも受け入れてもらおうなんて、それこそおこがましい。自分でそう思う。

パっと消えてしまいたい。一瞬で砂になって土にかえるみたいに。
人の記憶からもパっと消えたい。私が関わった人の記憶から私が消えれば、私が消えることの問題なんて何もないのに。

感想1

経験談を書いてくださり、ありがとうございます。
まずタイトルが魅力的でした…。溢れる感情が短く凝縮されているように感じたのかもしれません。「こういうネガティブなことは、相手に理解されなかったり、相手を困らせる恐れの方が大きいので言わない方がいいと思っている。世間の常識的にも多分そうだと思う。」という考えで生きてきた投稿者さんが、こうして感情とともに経験を綴って送ってくださったことが嬉しいです。
読みながら、諦め9割、期待1割、くらいの気持ちなのかなと想像していました。
本文中で、そうだそうだと同意して肯定したくなるような言葉がいくつもありました。とくにこの一文です。
「でも、自分の感覚を捨てきれない。だって、これが私の自然なのだから。」

投稿者さんは、子ども時代からつらいことが多かったからこそ、他の人にダメージを負わせたくないという気持ちが強く、また他の人も同じくらい心にダメージを受けやすいものなのだろうと想定していたのではないかと思いました。だから余計に、自分のネガティブな感情を含む話はできなかったのだろうと考えています。感情を出すことができないと、「これは自分の問題だ」という認識が強まっても不思議ではないと思います。

外国にいた大学時代は、生きているのが苦しい感覚がなかったとのことで、やはりその国や地域に特有の社会的な文化が、生きることの苦しさに大きく影響するのだなと改めて思いました。
他国の社会的文化との比較もしながら、日本の社会の課題はどのあたりにあるのか、一緒に整理して検討してみたいなと思いました。この経験談を読むと、日本では「みんなに合わせるべきだ」という圧力が強すぎて、個人の自由が必要以上に狭められているということなのかなと考えました。

また、ありきたりな表現かもしれませんが、子どもの頃から、他人に頼るということがあまりできない環境にいたのかなと思いました。
日常的につらいのが当たり前なので、それが他人に理解・協力してもらって、つらくなくなることを要求してもいい、という発想にはなりづらかったのではないかと思いました。だから、つらさは全て自分の問題であると考えることによって済ませようとするしかなかったように想像しています。でも、そのことに納得できないと思うのは、健全な気持ちだと思いました。
外国で過ごした経験から、つらくても納得できなくてもみんなに合わせるべきだというのは、おかしいんじゃないか?という感覚が強くなったのかなと想像しました。

「みんなと違う」と思われて邪険にされるのが怖いから、「みんなと同じように見える」ように振る舞う人が、日本では少なくないだろうと想像します。
身近で「みんなそうだから」と言われているようなことや、自分が「みんなもそうなのだろう」と思っていることが、実は同じように見えているだけで違った、ということが殆どなのではないか…?と私は思います。でもそれは、嫌なことや辛いことや苦手なことも含めて話し合ってみないと分からないので、「でも本当は言いたいし、本当は聞きたい。」という言葉が出てきたのかなと思いました。

大学時代を過ごした国では「自由を自分の責任で背負う」のだと書かれていました。
人から押し付けられることに疑問を持ち、苦しみ、主体的に生きようとする投稿者さんには、「自由を自分の責任で背負う」ことが肯定されやすい文化の中で生きるのが楽なのだろうなと思います。そしてこれは日本の中でもあり得ないわけではないだろうと思います。…と、期待が1割より上がらなさそうなコメントになったかもしれませんが、今後も一緒に悩んで、語り合ってみたいと思っています。

感想2

流れるような、湧き出るような文章だなぁと思いながら、読みました。最初に「ボヤっとしていて」「たいしたことがない」という表現もありましたが、自分の中にしまったあった大切な気持ちが自然に表現されたものだと感じました。
「社会のルール」という表現をされていますが、それが何なのか考えていました。乗っかれば乗っかるほど苦しくなり、本当の自分から離れてしまう苦しさを生み出すもの。あなたが表現した「社会のルール」とは何なのでしょうか?そもそもは、いろいろな人たちが共に生きていく中でお互いを大切にするためにできたものだと私は思っています。しかし、それがいつしか、形だけになってしまって、あなたのようにルールで苦しむ人がいる。ルールは一人ひとりを大切にするものだったのに、誰かを苦しめるものになってしまう。そして、あなたが書いてくれた「パッと消えたい」というところに追い詰めてしまう。
経験談から伝わってきたあなたの印象は、好きなことがあり、自分を持っている個性豊かな雰囲気でした。自由に自分らしく生きたいという素直な気持ちが溢れていました。それが、今の日本社会の中では閉塞感や苦しさになってしまうのですから、社会のあり方を考え直す必要があるのだろうと思いました。
最後に原因が自分にあるとしか思えないと書いていますが、苦しさはあなたの中にあると思いますが、その背景には今の社会のあり方があると思ったのが、読んだ率直な感想です。
今回書いてくれた苦しさや感じていることはとても大切なことだと思います。こうして書いて送ってくれたご縁です。もしよかったら、今の私たちに必要な新しいルールについて一緒に考えてみたいと思います。

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