経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

からっぽの人生

これまで真面目に生きてきたはずですが、1か月近くメンタル起因で欠勤が続いています。

勤怠欠損を発生させている自分が許せません。
出勤日の朝、いつも通りの身支度をしようとしても怖くなってしまい、欠勤の連絡を入れる日が続いています。

蓄えもなくお金を無心する先も無いため、自分が頑張るほかないにも関わらず、楽をしてしまっています。
健康第一、無理をする必要はない、という言葉を免罪符にした怠慢としか思えず、自己嫌悪が止まりません。

あと少しだけ勇気を出して家を出て会社に向かってしまえばいいのに、これまではその行動ができていたのに、それができない日が続いていることが苦しくてたまりません。

今までで来ていたことができなくなった自分に腹が立ちます。
自分に一切の価値を見出すことができません。

それでも今の社会は自分で自分の人生を終わらせることを許してはくれません。
なので仕方なく生きています。

ようやく自分に合った仕事を見つけられたというのに、自分からそれを手放そうとしている自分が情けなくて仕方ありません。

現状を打破しようと、自分でも症状や対策を調べてみるのですが、出てくるのは
「気分転換しましょう」
「自分を認めてあげましょう」
「好きなことに没頭してみましょう」
「無理をしないようにしましょう」
「お金を気にせず旅行してみましょう」
「それでもだめならお医者様に相談しましょう」
などと無責任かつ月並みなことばかり。

気分転換ができないから苦しいんです。
自分を認めることができないから苦しいんです。
好きなことに没頭できないから悲しいんです。
無理をしないようにした結果自分が情けなく腹立たしいんです。
翌週の食費すらままならないような状態だから苦しいんです。
すでにお医者様に相談して高いお金払って薬を処方してもらってるんです。

それも当然といえば当然ですがね。
私と同じように、指先でキーボードをぽちぽちするだけで掲載された、自分の名前も顔も晒さない記事に期待をしていた私が悪いのです。
なんの責任も負わずに書かれた記事に期待することが間違っていたんです。

だからこそ自分で答えを見つけて進まなければならないと思ってしまいます。
頼れるのは自分だけなのだと、思い知らされます。

その自分が自分を認められない、許せないというのだから、なおさら質が悪い。

自分を認めるとはどういうことなのか。
自分を許すとはどういうことなのか。
自分をほめるとはどういうことなのか。

未だにわかりません。
自分の考えが全て間違いなのではないかとしか思えないのです。

私は、他人から見れば恵まれた環境で育ったのだと思います。
会社役員の父、元高給取りの母のもとに生まれました。
食べるものに困る日はなく、学校にも行かせてもらえました。
しかしそこに私の意思は一切介在していません。
進路も、親の顔色をうかがいながら決めました。
中学校の時に一度だけ、自分のしたいことを父に相談したことがありましたが、その話をしただけで1時間近く怒鳴られ、説教をされました。
おそらくそれ以降は、自分のしたいことを親に打ち明けたことはありません。
大学も、親の機嫌を損ねないように必死に受験勉強をし、地元では上位の国公立大学に現役合格をすることができました。
しかし、やりたいことも決められないまま入った大学で何を専攻すればいいかもわからずただだらだらと過ごし、そして卒業しました。

思い返してみても、自分の人生を歩んできたという気持ちはありません。
親が犯した失敗を修正して焼き直したような、代理人生を歩んできた気持ちです。

今更、自分の性分を親の責任にするつもりはありませんが、今の自分がこのような軌跡をたどって形作られたことは事実です。

結局、独りになってから自分の意思を尊重できない人形の様な存在に成り下がりました。

その様な存在である自分が、今の自分のメンタルを、身体を、自分で面倒を見なければなりません。

それでも、自分で自分の人生を終わらせることは許されていないので、仕方なく生きています。

明日は、明日こそは会社に復帰できる、とからっぽの自分を奮起しなければなりません。
せめて、来週は、来月は、好きなものを食べられるように頑張らなければなりません。

こんな自分でも生きていていいのだと自分を認められるように頑張らなければなりません。

こんな自分でも意味があったのだと、誇れるようになりたい。

感想1

欠勤状態が続いている理由の根っこはどこにあるのだろうという視点で読み進めました。 もしかしたら、ここかもしれないなと思ったのは『親が犯した失敗を修正して焼き直した
ような、代理人生を歩んできた気持ちです』という箇所です。あぁ、ずっしりと重量のある言葉だなぁと受け止めました。これまで真面目に両親の代理人生を歩んできたことに心身が悲鳴をあげているのではないかと感じました。この言葉が適切かどうかわからないのですが、投稿者さんの心身が「的確に」限界をキャッチして、ブレーキをかけたのが今なのかもしれないと感じました。
 これまで投稿者さんが両親の代理人生を真面目に生きてきてきたというのも、投稿者さんが歩んできた道であり、肯定したいと私は考えました。本気でそう思いました。誰かの期待に応え続け成果を出すということは並大抵のことではないと思います。
そして(これまでそれが許されない環境下にあったという前提で)自分を楽にする選択をすることに不慣れなのかもしれないと想像しました。今、自分が楽になる選択として欠勤しているという状態もあるのかもしれない、でもそのことに苦痛を感じていらっしゃるのも伝わってきます。ほんとうに悩ましいです。
 自分を認め、許すという行為にはどんなプロセスがあるのでしょう。本当に悩ましいのですが、このテーマは投稿者さん1人のテーマではなく、このサイトで共有できるものであると感じました。

感想2

経験談読みました。書いてもらってから、数カ月が経ちましたが、その後、いかがお過ごしでしょうか?書かれている内容はどれも首尾一貫としていて、とても納得しながら読みました。同時にそのような人生を振り返ったり、思うように動けない今の状況を思い、その苦しさはどのようなものなのだろう?と想像しています。
あなたは「自分の人生を歩んできたという気持ちはない」と書いています。それは、言い換えると「まだ、自分にはなっていない」という意味なのかと私は理解しましたが、どうでしょうか?もしも、自分になっていないという感覚があるのであれば、今、仕事にいけずにいることは、まだ眠っている潜在的な自分が抵抗をしているのではないかと考えていました。もしも、自分として生きているのなら、そのまま会社に行き続けてもよかったと思うのですが、行こうと思っても行けないというということは、本当の自分がその道を歩むことに必死で抵抗して、「自分になりたい」と表現しているのではないかと私は感じてしまったのです。顔を出してきた本当の自分を心から応援したい気持ちになっています。とはいっても、それはあなたにとってはつらいことだろうと思います。実際には働きに行けないと困ると思いますし、行けないことを責め続けている姿を考えると、無責任な応援をしていることをお許しください。
あなたはご自身のことを「恵まれた環境で育った」と書いています。でも、私には恵まれた環境とは思えませんでした。人が生きていくためには、両親がいるか、お金に困っていないか、教育を受けられたかということよりも、意思や存在を尊重されることが大切なことだと思うからです。そのことに気づいた本当の自分に耳を傾けてもらうことを願います。一人では苦しいことだと思いますので、もしよかったら、一緒に考えたいと思います。

お返事1

【感想への返信】
感想を拝読いたしました。
このように肯定を前提としたお言葉をいただくことがとても新鮮に感じました。

結局、経験談を投稿してから一度も出勤できないまま、仕事は退職しました。現在は療養期間という形で、「なにもしない」を実行できるようにしながら日々を過ごしています。

次の仕事をどうするかなどまったく目処はついていませんが、心身に負担のかかりすぎないものがいいなとぼんやりと考えています。

今は、欠勤を続けていた時よりは多少気分が軽くなったようには感じますが、この世からぱっと消えて無くなってしまいたいという思いを捨て切ることはできないままです。
それでも実際にはそんなことは許されない世の中ですから、なんとか心身を休めることを第一に過ごそうと思います。

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