経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

死ななければならない

死ななければならない、と思うようになったのはいつからだっただろう。昔は死にたい、だったはずなのに、気付いたら義務になっていた。
ちゃんとご丁寧に、いつだかの私は死ぬ年と月日を決めて、まるで今の私に「お前はこの日に死ぬんだぞ」と分からせるようにアプリまで入れて訴えてくる。アプリなんて消してしまえばいいのに、未だに私はそれを残して「あと2年で死なないといけないんだなぁ」と思っている。

別に今の人生で苦しいことはないし。将来もそこまで悲観しているわけでもないし。あれもしたい、これもしたいとやりたいことは尽きていない。家族も職場も平凡で、どちらかと言えば恵まれている方だと思う。

なのに死ななければならない。いつかの自分がそう決めたから。そんなの無かったことにすれば良いのに、律儀に守ろうとしている自分がいる。
いつ、どこで、どんな風に死んで、亡骸をどのように供養して貰うのか。そのための費用まで貯金して、それまでにあれを処分して、どうせ死ぬのだから新しい車に買い替えるのはよしといて…。

あれが欲しい、これがしたい。その気持ちを持つたびに「どうせ死ぬしな」と思ったとたん、胸が抉られるような痛みがある。虚しいんだと思う。
本当は死にたくないんだと思う。今だって死ぬ気はないけど、なんて思う自分がいる。でも死なないといけない、理由も分からないくせに、ただ過去の自分がそう決めたからって。

誰が悲しもうが、誰が悔やもうが知ったことではない。長く生きたところで誰かと結ばれるでもない、家庭を築くでもない。年をとって独居老人などになって人様に迷惑させるくらいなら、若いうちにさっさと死んだ方がいい、なんて。死ぬための言い訳をしている。
でも生きるための言い訳もしている。いつか親の介護が必要なのだから、独り身の予定の私がしなきゃだとか、生きるために謎のローンを作るだとか。

何を馬鹿なことをしているんだろうってずっと思っている。生きたいし、でも死なないといけないし、でも別に死ななければいけない理由はハッキリしてないし。

ちょっと前までは死ななければならないなんて思っても、ここまで気にしなかった。でも今は違う、だってあと2年しかない。あと2年で死ななければいけない。最近やっと、死ななくてもいいかなと思うようになったのに。

何で死ななければならないんだろう。どうして死にたくないのに止める気がないんだろう。何で自分のことなのに他人事のように「だと思う」って言うんだろう。多分、それ以上考えたくないんだろうな。

2年後、私はどうしているんだろう。ちゃんと身辺整理を済ませて、どこか遠い場所で、誰にも居場所を告げずにそこで死ぬのだろうか。

死ぬなら一番苦しい方法で死んで欲しい。餓死とかどうだろう。寒い日に死ぬから、寒さと飢えの中で後悔ばっかりしながら死んでほしい。

こんなことばっかり考えている私はやっぱり死んだ方がいい。
でも、ここに送った私は今、止めてほしいのかもしれない。ただの構ってちゃんだらから、スルーしてもらっていいと思います。

感想1

「〜なければいけない」に対して、強制力があるような印象を受ける言葉だなと思っていたのに、経験談を読んでいるなかでの「死ななければいけない」には、自分が決めたわけでなく、必然のような、しょうがなかったこと、とどこか諦めの言葉ような印象を受けて、不思議な感覚になりました。
私には「死ぬ予定」が、何か貴方にとってのお守りになっているような印象を受けました。今はそれが不要であると思うくらいには、苦しいことがないと書いてありましたが、その日を決めてアプリをいれた時には、この日があることで生きることができた、そんな貴方にとって人生の防波堤のようなとても重要なものだったのではないかなと勝手に想像しています。そうだとすれば、元気になったから「はい、さようなら。」とアプリを消すこともできないかなと思ったり、その予定を守ろうとすることも、不思議ではないように感じます。
「止めてほしいのかもしれない」と書いているあなたに、私は「生きてほしい」と伝えたくなるけれど、でも同時にこの社会を「生きる」と言い切ったり、堂々と宣言するには想像以上にパワーが必要だとも思っています。「死にたい」がなくなったからといって、すぐに「生きたい」になれるわけではない。その間には、“どちらとも言えない”“まだ決められない”という時間があってもいいはずなのに、社会はその揺らぎをあまり許してくれないようにも感じて息苦しく思います。
生きるか死ぬかの選択は容易でないし、その選択は日々生きていく中で変わっていくものだと私は思っています。だから、もし今すぐその約束をただなくすことができない、したくないのだとしたら、「消す」か「守る」かの二択ではなくて、決めた日をどこかでまた延長するのはどうなのかな、と思いました。例えば、その日が近づいた時に、もう一度だけ先へ延ばしてみる。二年を三年に、三年を五年に。この2年の間に、また再設定してみるのもありかなと勝手に思う私がいるのでした。

感想2

私も人生の節目節目を「終り」に設定し、それを延長しながら生きています。たしかに、「死にたい」が「死ななければならない」という気持ちになったのは何きっかけだったろうなと考えました。そもそも、何で期限を設定する気になったのかなということも。

ずっと死にたい気持ちに苛まれている人にとっては、期日を決めることは救いとなるのだと思います。死にたさを抱えたまま、終りの知れない日々を歩むことは広大な砂漠の中を放浪していることに似ているような気がします。果ての無い旅より、終りのある旅の方が予定の目処が立つし、不確実性が減るので安心するんだろうなと思いました。
しかし、厄介なのが希望の「終りの日」が「この日までに終わらせなければならない」に変化し、その日までの自分の行動を縛るようになるという点です。「この日までなんだから残りは楽しくやろう~」とはならないんですね…。終わりを定めてしまったばっかりに、何を考えてもその日がよぎって、全てが死という虚無に吸い込まれていってしまうような感じになります。お金のこととか、葬儀のこととか、考えるのはそんな楽しくもないリアルなことばかりでした。終わりを見据えて行動していると、終りの先にあるIFも考えられなくなってしまうようで、やはり私も虚しくなります。

けれど、契約は更新しても解消しても構わないはずです。相手が他人だとややこしい手順を踏まなければならないけれど、「死ななければならない」契約は幸いなことに甲乙どちらも自分です。権利義務関係も曖昧だし。
私もきっと、今回も契約を踏み倒して勝手に延長して、なんも無いような顔で生きていると思います。のらりくらりで、今の一瞬を楽しんだり、穏やかさを感じたりして死にたさや終りの日をちょっとの間忘れるということがずっと続いていったらいいなと感じました。

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