経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

恵まれているなら応えろよ

閲覧ありがとうございます。

どうぞしょうもない悩みだと苦笑いで読んでいただけたら幸いです。

私は恵まれています。

なのに、これ以上生きているのが嫌になりました。

恵まれているはずなのにそう感じている自分がただただ腹立たしいです。

私はいじめや不登校を経験し、脱毛症を発症するなど、環境が変わるごとに何かしら崩れていました。その度に母をはじめ、保健室の先生やカウンセラーの先生など、多くの方が助けてくれました。そして何度も迷惑をかけました。

そうして周りが助けてくれたり、優しくしてくれた分、私はそれに応えなければ。これ以上弱音を吐いてはいけない。人を不快にさせてはならない。過去にひきこもりや落ちこぼれだった人のサクセスストーリーのように、うまく人生を歩まなけば。と思うようになりました。

人と会うときはできる限り明るく、できる限り笑わせ、相手が求めている反応を見極めなければと一丁前に考えながら過ごし、相手から肯定的な言葉をもらえた時は達成感と安堵感がありました。

ですが、明るくいることが少しずつ苦しくなり、人と話すたびに勝手に疲れてました。

自分は何に疲れているのかわかりませんでした。負の感情になるのはただの甘えで、昔から考えすぎるところもあったので、考えられるほど暇なんだなと気にしないでいました。

しかし抑えてごまかそうと笑顔でいても、窮屈さや息苦しさはどんどん増すばかりでした。

休みの日はひきこもり、どうしたら休まり、息が抜けるのかも自分のことなのによくわかりませんでした。

いつまでもぐずぐずしているのが鬱陶しいので、とりあえず心療内科を受診し、自分で療法を調べたりして、ジャーナリング、瞑想、気分を安定させる薬や睡眠薬なども飲んでいました。ですが必ずどこかで気分が落ち、何もできなくなります。この繰り返しでした。

この息苦しいような状況はいつ変わるのだろうと思う一方で、どうすれば自分が楽になるのかすらもわからなくなりました。

そこで冒頭に戻ります

いじめこそありましたが、誰かにそれほど存在を否定されたわけでも、両親に人格否定などされたわけでもありません。人より全然優しい世界の中で生きていたはずなのに、今まで恵まれていたはずなのに、どうしてもっと幸せそうに生きられないんだ。

こんな自分がずっと続くと思うと、これ以上生きているのが嫌になりました。

いつの頃からか、鏡やガラスに写った顔を見るだけで嫌悪感が酷く、駅のトイレなど鏡のある場所はあまり入りたくありませんでした。

そして死ぬことへの思いがどんどん強くなり

しょうもな。と泣き笑いながら今に至ります。

拙い文章で申し訳ありません。

ここまでお読みいただきありがとうございました。

感想1

これまでに感じてきた気持ちが詳細に記述されていて、無我夢中に自分(こうあるべきだと思う自分)と闘ってきたような印象を受けました。

タイトルは、自分に対してもっと頑張れと発破をかけているようだと感じました。

でも、「恵まれているなら応えろよ」というメッセージは、周りの環境から読み取ってきたものでもあるのだろうと想像しました。明るく人と話すべき、幸せな人生を送るべき、などというメッセージは世の中に沢山あるような気がします。私は、明るく人と話すことや幸せな人生を送ることは、あくまで自分のためにそうしてもいいというもので、他の人に強いられるものではないと思います。

「恵まれているなら応えろよ」という指令をあなたが突きつけられているとしたら、どうしてそうなっているのか、応えるというのは何を意味しているのか、もう少し紐解いていく機会があればいいのかもしれないと思いました。

また、何が幸せなのかということは人によって様々で、他の人が感じる幸せと投稿者さんにとっての幸せは違うかもしれません。投稿者さんにとっての幸せは、何か考えていることはあるのでしょうか…?

どうしたら自分が息抜きできるのか分からない、ということはずっと脇目もふらず全力で走り続けているような状態で、たまに息切れして、また走らなければならないというループなのかなと想像しています。

何か、投稿者さんが感覚を委ねられて、意味的なものから少し解放されるような安全な過ごし方が見つかるといいのだろうかと考えました。

感想2

投稿者さんは「恵まれている」と思うからこそ、「応えなければ」と一生懸命生きてきたのだろうと想像しました。サクセスストーリーはひとつのストーリーですが、現実にはだれかが死ぬ瞬間まで、あるいはそのあとも終わることのないストーリーが無数にあります。しかも、ストーリーというものはなにをどう切り取るか、なにをどう認識するかによって変わってくるので、「こうすれば成功」ということにもなかなかなりづらいように思いました。

「とりあえず心療内科を受診し、自分で療法を調べたりして、ジャーナリング、瞑想、気分を安定させる薬や睡眠薬なども飲んでいました」とも書かれていて、投稿者さんは行動を起こし、対処していこうという姿勢の強い方なのかもしれないと思いました。それだけに、行動が実を結ばないと、焦燥感が現れても無理はないかもしれないと想像しました。

「どうしてもっと幸せそうに生きられないんだ」という言葉はなんだか、投稿者さんの叫びのようだと思いました。気になったのは「どうしてもっと幸せに生きられないんだ」ではなく「幸せそう」と書かれていることです。投稿者さんにとっては、自分自身が幸せであるよりも、「あの人は幸せなのだろう」と周りに思ってほしい、安心してほしいという気持ちがあるのではないかと思いました。 

一方で、投稿者さんにとっての幸せはどんなものなのだろうかとも気になりました。幸せというものも、ストーリーと同じように不確かなものだと私は感じます。でもなにかおいしいものを食べた時や、きれいな景色を見た時などに幸せのようなものを感じることがあるかもしれません。あるいは、今は疲れていて、そんなものを感じる余裕もないかもしれません。個人的には、人が幸せでなければいけないとは思わないのですが、投稿者さんが穏やかな気持ちでいられることがあるといいなと思いました。

お返事1

感想1をお送りいただいた方へ

ご感想をお送りいただきありがとうございます。

拝読させていただいて、考えたことを書かせていただきます。

「明るく人と話すことや幸せな人生を送ることは、あくまで自分のためにそうしても良いというもので、他人に強いられるものではない」という言葉を読んで確かにそうだなと思いました。

今、私が考えている幸せな人生とは「もう絶対にうつや精神的な面で落ちずに、仕事も私生活もうまくいっている上しか向かない人生」だと思っています。一方でもうそれができないのなら無能。生きる価値がない。死ぬべき。とも思っています。

そしてそこに自分の意思や思いはあまりありません。わからない、といった方がいいかもしれません。

とにかくこれ以上周りに心配や不安、不快感を与えずに、自分は上を向いて。辛いことも苦しいことも全部こんなの生きてたら当たり前に感じることで、常に笑顔で走っていくべきだという強い意識があります。

「応えろよ」の発破のもとは、その「幸せな人生」にうまく向かっていけない自分の不甲斐なさが主だと思います。また、周りへの恐怖もあるのだと思います。

「できる限り明るく、幸せそうにしていなければいけない」という意識を手放したら、そのための努力を続けなかったら、いままで助けてくれた周りが全員離れていってしまうのではと、怯えているのだと思います。誰もそこまで私のことを気にしていないと思うのですが、自分の中では怖くて仕方がないようです。

例えるなら前科を抱えて生きている元犯罪者のような感覚です。

贖罪のために生きなければいけない、過去の出来事や経験から更生していかなければいけないと責めてここまで生きてきたのだと思います。

お返事2

感想2をお送りいただいた方へ

ご感想をお送りいただきありがとうございます。

拝読させていただき、思ったことを述べさせていただきます。

「こうすれば成功」というのはどう認識するかによって変わってくる、ことはその通りだなと思いました。

私の行動など微々たるものですが、「行動が実を結ばないと」そう自分で実感できないと、焦燥感をものすごく感じるのは仰る通りです。

思えば自分で「これはできた。これは成功した」という感覚を素直に感じたことはあまりありませんでした。理想が高く、「でもここはダメだった、ここはもっとこうするべきだった」という減点が必ずあります。

そしてその続きにも書かれている、「自分自身が幸せであるよりも、周りに幸せだと思ってほしい、安心してほしい」まさにその通りで、絶対に自分では満足せず、周りに許しや認識をもらって初めて実感します。

強すぎる承認欲求が自分がどう感じるかよりも優先されるようです。

今、「自分にとっての幸せ」は何かと問われれば、わからないというのが現状です。これが好き、この状態が居心地がいいなどが本当にそうなのか疑うような感覚になります。こんなことを感じるような価値など自分にはないと一蹴してしまいます。

自分のことなのによくわかっていないようで、意味もなくしんどい時が多いです。

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