出会った人が悪かった。今ではそう思えるようになっている。
思えば、学生時代は他の子よりも頑張れる子どもだった。学級委員や代表委員、部活では部長を務めたり、成績も比較的優秀であった。
大きな転機があったのは、高校時代。ダンス部で同級生からいじめにあったのだ。『解離性健忘』のためか、あまり記憶は定かではない。ぼんやりと覚えているのは、「キモい」「クサい」「役立たず」などの暴言。急所を蹴り上げられるなどの暴力。それを携帯電話で撮影し、他の生徒に見せびらかされたこともあった。持ち物への落書き、破壊はよくあることだった。他の生徒も見て見ぬ振り、教員もいじめには1年以上気づかず、気づいた後にも大した対応はしてくれなかった。
これらは正直、あまり精神的にこたえるものではなかった。いじりの延長で、なんとなく周囲が笑っていたからかもしれない。『解離』をうまく使って、感覚を麻痺させていたからかもしれない。それでも強烈に記憶に残っているのは、2つの出来事。トラウマの言語化は難しいので、うまく伝わるかはわからない。
1つは、部活の練習の休憩中、口にカマキリを入れられたこと。今ではめっきり見なくなったが、当時はある芸人が鼻にザリガニをはさませて笑いを取っていたが、その延長である。身体を押さえられ、口にカマキリを近づけられると、唇に鎌状の前足がかかるヒンヤリとした感覚があった。肉食昆虫の本能だろう。ボリボリというグロテスクな音と共に、唇の肉を喰い始めたことがわかった。慌ててカマキリを引き離すと、カマキリのその口元が自分の血で真っ赤に染まっていた。
もう1つは、3年生の頃。自分もダンス部の同級生も、すでに全員部活を引退しており、いじめからはもう解放されていた時期だった。文化祭のアフターパーティーのような舞台で、有志でパフォーマンスをする生徒もいた。自分は国立大学の受験勉強に集中するため、参加は見送り。だが、いじめの加害生徒たちは舞台に立っていた。推薦で受験をする生徒が多かったため、余裕があったのだろう。パフォーマンス自体は正直覚えていない。しかし、それを観ていた生徒が、加害生徒に黄色い声援を飛ばしていたことが、やけに記憶に残っている。いじめの出来事を知っていた元ダンス部の同級生も、浮かれた声援を送っていた。いじめを受けていた自分には、気遣う言葉を送ってくれさえもしなかったのに。世界から自分だけが切り離されたかのような、圧倒的な孤独感が襲ってきたことを覚えている。その日を過ぎて少しして、自分は不登校になった。
これらの記憶は、なぜか最近までほとんど忘れていた。忘れることで困難を乗り越えられるように、脳がそうさせたのだと思う。
不登校のまま卒業してひきこもり、1年間の自宅浪人期間を経て、志望していた国立大学に受かり、その大学も無事卒業した。サークルでは会長も務められた。成人式では卒業した中学校の代表として、新成人の主張を発表できるほどに回復した。いや、回復したと思い込ませていたのだろう。結果、過去に蓋をして生きる方法は失敗に終わった。
いじめのない学級をつくろうと教員を目指し、実際に教職に就いたが、2年目で多忙さと重なるストレスで『抑うつ状態』を発症し、失職した。6年ほど治療を続けたが良くならなかった。診断も『双極性障害』にいつの間にか変わっていた。
最近、それまで通っていた病院への不信感が募り、転院したところで診断名も変わった。『他に特定されない極度のストレス障害』(disorder of extreme stress not otherwise specified : DESNOS)と説明を受けた。やっと自分にあった診断名をもらえたと思った。治療をする内に、良いのか悪いのかわからないが、高校時代の辛い記憶も少しずつ思い出されるようになってきた。
加えて、いじめ以前の小中学生の頃から、6歳離れた姉から日常的に暴言を言われたり、散々な扱いを受けたことも思い出してきている。姉は怒りが強いときはよく大声で怒鳴ったり、壁を殴って穴を開けたりしたこともあった。両親もかなり手を焼くような姉だったので、両親が自分をかばったり助けてくれた記憶はない。動揺や恐怖心、怒りなどの感情を、自分の意識から切り離す『解離』という手段は、思えばこの時に手に入れたものだったのかもしれない。この時期の方が健忘がひどいので、自分のトラウマは、実はここから始まっているのかもしれない。
希望は以前より多少感じているが、生きづらさはまだ変わっていない。人に心は開けず、友人らしい友人もいない。悩みを相談できるような相手もいないので、ストレスは一人で抱え込んでしまう。何気ない出来事が過去のトラウマと重なってしまい、勝手に精神的に追い込まれることもある。たちの悪いことにトラウマは記憶の奥底にあるので、発作のきっかけになった出来事がどのトラウマと紐づいているのかは、かなり後になってから気づくことが大抵である。それどころか、全く気づけないままのことも少なくない。そんな不安定な状態なので、仕事はできてもフリーターが精一杯である。
今はトラウマ関連の本を読み漁っている。今まで精神疾患、精神障害の本はいくつか読んでいたが、なんだかしっくりこないものばかりであった。しかし、トラウマ関連の本を読むと、自分のことが書いてあるという実感がある。なぜこんなにも生きづらく感じるのだろうという、漠然とした疑問に対して、自分にとっての納得のできる回答が、まさにここに載っている。
トラウマから生き延びた人たち自身が中心となって研究を推し進め、心に寄り添いながら治療にあたってきたトラウマの歴史自体が、いつの間にか自分にとっての希望となっていた。トラウマと戦ってきた治療者と患者が確かにそこにいたという歴史が、自分は一人じゃないと感じさせてくれた。
まだ具体的には何も決まっていないが、いつかは自分もトラウマ治療に携われるようになりたいと思い始めている。それが何年、何十年先になるかはわからないが。自分で言うのも何だが、能力は人並み以上にあると思っている。ただ、出会った人が悪かった。人によって人生を滅茶苦茶にされてきた悔しさを胸に、生きづらさを抱える人の力になれる日がいつかきっと来ると信じて、今もまだ耐える生活を送っている。
感想1
このような度が過ぎる暴力・暴言を受けているにもかかわらず、なぜ大人は誰も助けてくれなかったのだろうか…と思いました。どうすれば助けられたのだろう…とも思います。
自分の生きづらさの正体を理解する手掛かりとなる知識が得られ、それは同じように経験してきた人や支えてきた人たちの歴史の上にあったことが分かりました。心身に深く刻み込まれるような大きな危険と恐怖に晒されるような経験は、しないほうが苦しまなくていいので、ないに越したことはないと思いますが、実際には軽減はできても、なくならないのではないかと思っています。だから、事態が起きる前の予防と、起きてしまったときにすぐに助けが来ること、それから長期的に回復できる安全な生活環境があること、どれも必要だろうと考えています。また、身近で理解のある人が多ければ多いほど、しんどさはマシかもしれないと考えました。これからも、あなたの感じる痛みも希望も共有していただけたらと思います。それはたとえ目立たなくても、誰かをそっと支える力になるかもしれないと思います。