経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

今度の敵は自己嫌悪、空想にぶつけた嫉妬

 数年前、私を死にたい気持ちにさせる「敵」は自分の外にいました。周りの人からの心無い言葉や態度に負けて、この世から逃げ出したくなることが何度もありました。幸いなことに環境が変わり、この頃の「敵」たちとは距離を置くことができました。

 今の「敵」は私の中にいます。自己嫌悪です。顔面、声、体型、性格、その他思いつく限りのすべてが嫌いです。間違いなく以前より厄介な存在です。

 嫌いな人ならその人が席を外せば、自分がその人の前から去れば楽になれます。自己嫌悪は意識がある限りどこまでも追いかけてくるのがつらいです。トイレ中でも、ベッドの中でも、遊んでいるときでもお構いなしにやって来ます。眠っている時だけが唯一それから解放される時間なのに、なかなか寝付けず午前3時や4時まで起きてしまうこともざらにあります。

 ここまで自己嫌悪がひどくなった原因は、いろいろ考えてみた結果かつて好きだった「推し」への感情の変化だったと分かりました。今まで自分が全知全能の神くらいに思っていた存在が、相手は何も変わっていないのに自分の気持ち1つで名前も聞きたくない大嫌いな存在へと変わってしまったのです。過去の自分や大好きだった存在への裏切りでしかなく、とても悔しいしこんなになった自分が許せません。

 あろうことか、私は推しと自分の容姿を比べて激しい嫉妬や劣等感に襲われるようになりました。あまりに無謀な戦いなのは自分が1番分かっています。それこそ血を吐くような努力をして優れた容姿を手に入れるなりしないと解決しないと気づいています。そこまで分かっていても、美しくなれるように具体的な何かをしようとはできませんでした。自分が大嫌いだからこそ自分を雑に扱っているのが現状です。

 信頼できる人たちは私が推しを拠り所にして生きていたことを知っているので、尚更誰も寄り添ってはくれませんでした。知らない言語でマシンガントークされたかのように黙り込むか、それはお前の努力不足だと一蹴されるかです。AIチャットにも「今は心を休ませるときだ」と匙を投げられてしまいました。

 世間が心の拠り所としている物事ばかり自分には苦痛の根源となって、世間が目を背ける「何も成し遂げられないまま死ぬのは嫌だ」とか「こんな自分も、画面の向こうでキラキラしている彼らも、みんな大嫌いだ」というような感情だけがむき出しで襲ってきています。これにこの先ずっと悩まされるならこの人生を投げ出してすべてを0からやり直したい。あわよくばこんな自己嫌悪と嫉妬に悩まなくていい容姿に生まれ直したい。そう願うばかりです。こんな風に勝ち目のないゲームから降りるのは当然の判断な気がしてなりません。

 そんな感情のはけ口になったのは小説を書くことでした。自己嫌悪と嫉妬でぐちゃぐちゃになった心の膿をすべて空想の世界にぶつけています。現実で死んだら後が大変だけど、空想の中なら何度でもできる。現実で口にしたら間違いなく怒られるような悪態も、小説の登場人物になら言わせられる。地獄みたいな話を書いてざまあみろと思ってもいいし、自分だけが幸せな楽園を作ってもいい。

 負の感情でも、何かをしなければ気が済まない苦しみは創作の強い原動力になりました。このサイトの「のびアート」もまさにそういうことなのだろうと身をもって感じました。

 一個人の意見でしかありませんが、死にたいほどの苦しみをエネルギーにして創作をやるのはかなりおすすめです。

感想1

あなたの投稿をとても興味深く読ませてもらいました。読んでいて、あなたが自分につきあって、自分をわかろうとして生きてきたことを感じました。また、あなたはとてもエネルギッシュな人なのだろうとも思いました。感情のエネルギー量は案外人それぞれで、いつもわりと凪な人もいれば、荒れ狂う波のように自分自身にも翻弄されるような強い感情を持つ人もいます。私も感情エネルギーが強めでコントロールに苦労してきた方なのですが、あなたもきっと、プラスにしてもマイナスにしても、逃れられない感情の中で生きてきたのかなと思いました。
今の「敵」は自分自身ということですが、それはあなたが書いているように、切り離せないむずかしさがあると思います。私はちょうど今朝から、伊藤亜紗『体の居場所をつくる』(朝日出版社)という本を読んでいて、その中にはさまざまな人の体との関わりに関する対話が出てくるのですが、その中に「私の身体は噛み合わない他者」「私の人生をままならなくする相手」という表現が出てきていて、あなたの自己嫌悪と何か繋がるところがあるだろうかと考えていました。
自分が主体的な自分として一致した感覚というより、「切り離せないのにずっとそこにあるやっかいなもの、異物」のようにとらえているようなところがあるのかなと思ったからです。私自身も、私の身体や心を制御しようにもできなくて自分自身をやっかいな存在だと感じてきた「無謀な戦い」と書いてあるのを読み、とても共感する気持ちになりました。
ただ、あなたの文章を読んでいると、もしかしたらあなた自身の中の「敵」のさまざまな要素が悪いというより、あなたがこれまで「敵と戦う」というスタイルの人生を長く過ごしてきたから、ほかの過ごしかたが見つからない中で、自分が「敵」として立ち現れてきたという部分もあるのかな、と考えていました。持っているエネルギーが大きいからこそ、その行き場がうまく分散しない中では、より自己嫌悪に向かってしまうこともあるのかもしれません。

その中で小説がはけ口になったというのは、とても興味深く感じました。たしかに、自分の怒りや苦悩、絶望などをぶつけるような形でつくられたのかなと感じる作品ものびあーとには結構投稿されている気がします。のびアートにはそのほかにも、いろいろな投稿があって、苦しい生活だからこそ美しい瞬間を切り取りたいという意志のこともあるかもしれないし、だれかに見せてみたいという思いで過去の創作物を投稿してくれる人もいるように思います。私も長年創作をするのですが、創作には、セルフケアのような側面がたしかにあるように感じます。個人的には、創作なしに自分と関わることは、真正面から直視するか、見なかったことにするかみたいになりやすいのですが、創作行為は、そのどちらともすこし違う角度で自分と関わるような時間なのかもしれない……とあなたの経験談を読みながら考えていました。あなたの思考と経験を共有してくれてありがとうございます。

感想2

自分の中に絡みつく負の感情は、それがそこにあるだけで、ものすごく体力と気力を奪ってくるヤドリギのようなものだと思います。あなたはそれに対処しようと必死にもがいていて、理想像に自分を近づけようとしたり、「敵」と戦おうとして消耗しているような印象を受けました。私も自分の気持ちに振り回されてばかりの人間なので、いつでもどこまでも自己嫌悪が付き纏ってくることを心底疎んじる気持ち、とてもよく理解できました。

負の感情に対処することそのものに加えて、今まで大好きで拠り所となっていた推しに対して、気持ちがガラッと変わってしまったことにも自分自身で戸惑いを覚えているのかなと想像しています。個人的な感覚としては、自己イメージと他者への嫉妬は連動するところがあるように思えます。妬みや羨望の裏には自己批判や向上心、「理想の状態に近づきたい・変わりたいけど変われない」というもどかしさが隠れているような気がしていました。嫉妬の感情がバネになるということもあるのでしょうが、この感情を抱いていること自体は、あまり気持ちの良いものではないと思います。また、あなたが推しを自分に近しい・親密な存在として認識するあまり、推しの存在自体が自分を写す鏡のようになっているのかな?とも思いました。幼少期の好みと現在の好みが全く一緒であるという人は多分かなり珍しくて、人の感じ方というのは時が経つに伴って変化していくものだと思います。「好きな物を嫌いになってしまった」というのは、大切なものを無くしてしまったかのような喪失感があるのではないかと思うのですが、自分の感覚の変化そのものについては、過去の自分や推しに対しての裏切りとはならないように感じました。

苦しみや辛さから生まれたエネルギーは、自分や他人を攻撃してしまう方に向かってしまうこともある一方、あなたの言う通り、創作などの強力な原動力になりうると思います。私も負の感情を創作や学究などに使っていて、これを実感しているところです。負の感情を自分の中に抱え込まず、外へ放出して作品として表し、その成果物を客観的に眺めるという一連のプロセスが心に良い効果をもたらしているなあと感じながら色々やっています。しかし、このエネルギーは自己の内部から噴き上がる激しい情動であるため、なかなか制御が難しいところがあると思うし、あなたもそう感じているのかもしれないと勝手に思っています。この感情に蓋をせず、かといって巻き込まれないように、上手くいなしながら付き合っていけたらいいなと思いました。

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