経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

ここにいる人を、見ない目。私の人生より

生きていくのがしんどい、そういった日々を送ったことがある人がどのくらいいるだろう。わたしは、生まれてから今までずっとだ。虚弱体質で生まれた私は、母にこう言われた。「病院と縁が切れない子、離乳食を食べるのすらマイペースな子だった。」と。今思えば母の心配症が加速したのはこのあたりかもしれない。物心ついたころには漢方薬がお友達だった。日焼けしないように日焼けクリームを塗ったり。アレルギーが見つかってからは、食事にも気を配ってくれた。母はいつも世話焼きだった。それが私の最初の幸せの記憶。しかし、この幸せは突然崩れる。

小学3,4年のころ、母親と外食することが増えた。それまでは三人で食事をすることが多かったのが、母と過ごす時間が増えた。居酒屋に私を連れて行って、そこでご飯を食べる。それがその日の夕飯になることが増えた。そんな日が続いたある日、母は酔っぱらうと父の愚痴を言うことが増えた。ちょっとしたものから「稼ぎが少ない」まで。私と居酒屋に行くと、「こんな手のかかる子を世話してるあたし偉いでしょ。」と言わんばかりの絡み酒。そんなのが毎回続いた。同時期に小学校ではいじめられた。小3と小5に一回ずつ。一回目は二人の男子から。二回目は、主犯格を除いて誰が味方で誰が敵かわからない状態だった。手口は「ばい菌扱い」。よくある手口だ。当事者としては心が死んでいくことにかわりなし。
ここに習い事も入ってくる。小4までは塾とバレエと日本舞踊、小5からは塾とお琴と日本舞踊だった。週6~7で休みなんてなかった。心はもっと死んでいった。そしていつしか解離のような状態になっていった。

小学校までで人生ハードモードなのがお判りいただけただろうか。当時の私は人権SOSレターに手紙を出していた。内容は親のことだ。返信は「こんなことは大人が解決することで、子供に悩ませてはいけないものです。」だった。当時の自分には全く分からなかった。今にして思えば、その返信を大人に見せなったのが悔やまれる。『ここで手紙を出していたなら児童相談所案件までいったろうに。』と後悔が尽きない。

ここからはもっとしんどい。中学生になってからは、今までの負担と環境変化に耐えきれなくて不登校になった。自殺企図は当たり前。リストカットする勇気はなかった。町の精神科に通院していた時、小5のいじめの主犯格が通院していたことを知った。彼は、「社会からフォローされている人」だった。やがて別の病院に転院して専門的な治療を受けることになった。そして自分から望んで【精神科隔離病棟へ入院した】。期間は三か月。人生で二番目の幸せの記憶だ。なんせ至れり尽くせり。食事は定時にやってくる。食べたことないキッシュやノリの佃煮は病院で初めて食べた。毎日のおやつは時々アイスが出た。バラエティーパックのような小さなカップではなく、一人用のカップだった。運動したり、輪になってお話したり。好きなテレビを見たり。勉強も自分で進められた。やがて、仲良くしてくれる友達に出会った。けれど時間が経つにつれて、自分と他人の違いを受け入れることも、母親がもう優しくないことも、帰りたくない現実に帰らなきゃいけない残酷さに直面した。受け入れられなくて、人生で初めて反抗した。受け入れてもらえなかったから、あきらめた。そこからは、みんなに合わせるためだけに【沢山あきらめた】。自分を受け入れてもらうこと、自分の意志を出すこと。周りの意見を優先することが至上になった。でもそれだけだとあまりにしんどかった。そんなときに出会ったのが数学だった。

数学に没頭している間だけは現実を忘れて、自分でいられた。この期間は約10年続いた。
高校、大学、大学院(修士課程)と数学と共に過ごしていた。アニメにはまったり、図書館に居場所ができたり、好きな人ができたと思ったら学校の先生だったり、その人が社会的制裁を受けたり。単位を落として再履修の嵐に追われたり。教職課程も同時並行で取った。アルバイトもした。休みなんてない。お金もたまらない。それでも、みんなと一緒だったからできたのだ。楽しかったのだ。それも、長くは続かない。崩壊の足音はすぐそこまで迫っていた。

大学院入学と同時にコロナ禍になった。完全オンラインの授業についていけない。どんどん理解のスピードが落ちていった。やがて日付の計算もろくにできなくなっていった。それが2020年7月。9月にはには発達障害(ASDとADHD)の診断が下りた。けれど、その頃には碌な判断もできないまま、日常を送っていた。そして指導教官から叱責されたことを機に、ベットから出られなくなって一年間休学した。この間に推しができた。俳優さんだ。彼の演技が素晴らしく、いつ見ても心が動いた。言葉がまっすぐで、真摯だった。彼の舞台を見に行くために調子を整えて、観劇しにいった。そうやっていくうちに気が付いた。バイトと観劇で十分心は満たされる。けれど、頭は満たされない。調子も整ってきたところで復学した。合理的配慮も指導教官に依頼して。でもそれは、私がボロボロになるまで頑張る人生の復活だった。

だって合理的配慮は、「これさえ配慮してくれたら、私は勉強ができます、社会で活躍できます。」ということと等しかったから。けれど復活したばかりの私に、指導教官は突然、就職活動の話を振ったのだ。その話を振った理由が、「博士課程には進めないから」というものだったから。修士に入る前に、それとなく話はされていた。けれど、私はこれを「ほかの先生なら博士課程まで指導してもらえる」と受け取ったのだ。私はショックで、この件についてメールで抗議した。指導教官は勿論対応してくれたが、もうその時点で精魂尽き果てていた。何とか回復して、現実を受け入れて就職活動について動き始めた矢先、数学を学ぶ意味を見失った。

数学は私にとって、精神的な親そのものだった。大木のように、ただそこにいることを許してくれた、私の居場所だった。けれど、考え事をするだけで頭痛がするほどになってしまった。これは、頭脳労働するためのリソースを使い切り、数学ができなくなってしまったのだ。指導教官は障害に対して理解を示してくれたものの、所詮は普通側の人。だからこそ、無理解が必ずやってくる。『普通側に合わせろ』という意図が透けて見える。もう、耐えきれなかった。

こうして、生きづらい人間ができあがった。
これからどうなるかはわからない。数学ができない以上は学校をやめざるを得ないだろう。だが、奨学金の返済は500万を超えている。実家にも居場所のない私に、何ができるだろう。何もしたくない。布団の中で寝ていたい。ずっと。しばらくは何も考えたくない。ただこの世界に浮かんでいることを許されたい。労働はその後だ。本当なら塾のアルバイトもやめたいのだ。人様の人生を支える前に、自分の人生を立て直さないといけないから。

こんな私に、社会福祉は何をしてくれた?いのちの電話は気休めにしかならない。その後の具体的なフォローがとても大切なのに欠けている。学生だから、実家住まいだからという理由で【社会福祉の恩恵を受けられない。】失業している人か、生活保護を受けている人か、独り身だと明確にわかる人以外は存在していないかのようだ。目の前にいるのに。声を上げているのに。

役所も学校も病院も企業も。こんな壊れた人間は、見ないと。
じゃあ、私はどこでなら、いつになったら、支援が必要な存在だと認められるんだ。

私にとってこの世の中は、【まるで醒めない夢のように、そこではみんなが幸せに暮らしてた、私を除いて。】という印象。普通の人むけに整備され、はみ出し者は見ない社会。当事者が常に頑張るそんな世界に、私はたった一人で取り残された。誰一人手を差し伸べることなく、『君は大丈夫だ!』と無責任な言葉しか言わない大人ばかりの、残酷な世界。

私はここにいる。息をしている。見ようとしないあなたたちの目は、何を見ているの?
良い子の私しか、見ないくせに。

こんな人生、死にたくならないわけがないと思うんだ。だから今、希死念慮と自殺企図に耐えている。いつか壊れる未来に向けて。

感想1

母親さんからの関わりは、世話というより支配になってしまっていたのだろうと思いました。でも、傍から見たら世話をしているように見えるから、助けが届きにくかったのだろうと思いました。あなたの言うように、小学生の時点で他者からの助けが得られるべきだったのだろうと思います。今更そう言っても遅い、と後悔を抱くのも頷けます。(本当はあなた自身が後悔しないといけないことでもないとは思います。)

ひたすらしんどさを感じて生き延びている自分と、それを一歩引いたところから解釈して認めている自分がいるような印象でした。後者は、数学と出会ってからの約10年間で築かれたのかなと想像しました。
社会から全く助けられた経験がないわけではない(入院や数学を通して満たされるものもあった)けれど、一番欲しかった時に、ニーズに合う助けはなかったのだと解釈しました。せっかく自分の意思を表して、入院先から親のいる家に帰りたくないと反抗したのに、そのことが、自分の意思を出すことをやめて沢山あきらめるきっかけになったのは、悲しくなりました。あきらめたことの重さは計り知れないと思います。
数学では、「みんなに合わせる」必要はないので、安全な領域になったのも納得しました。

また、この経験談を通して読むと、何かきっかけがあって急に、生活や心の状態が変化することが、度々あったのだと思いました。ところが、投稿者さんは、急な変化によって受けるダメージが大きい方なのではないかと思いました。そのことが、人生ずっとしんどい、という思いを増しているのかなと思ったのです。実際に、急な変化を多く経験してきたことで、またそのような変化が起きて状況が悪化するのではないか、という漠然とした感覚があるのかなとも想像しました。

私は、学業をしながら就職活動もするというのは、少なくとも今の学校や就職の仕組みでは、無理があると思います。それがスタンダードになっていることが問題だと思います。特に、何かを学ぶという作業は、そんな片手間にできるほど軽いものなのだろうかと思ってしまうのです。

“『普通側に合わせろ』という意図が透けて見える。”
この状況は、『普通側に合わせろ』と明確に言われるより、更に辛いかもしれないと思いました。表向きは協力的な姿勢を示されながら、実際は相手の意図や想定通りに動かないといけない、しかも相手はそうした自分の矛盾に気づいていない、という場合は、距離を置くことしかできなさそうだなと思います。

「社会福祉」についても終盤に書かれていました。私は、今のこの社会にある、生活を支える制度は、誰も全体像を把握できないくらいに複雑怪奇で使いにくくなっている気がします。もっとシンプルで、全ての人が同じ条件で使える制度になったらいいのではないかと思います。
今しばらくは何もしたくない、考えたくないという気持ちの一方で、自分の存在を主張したい、誰かとともに生きたいという気持ちもあるように伝わってきました。それら両方が、投稿者さんを含め全ての人に叶えられるような社会になればと思ったので、私なりにできることを探っていきたいです。

感想2

経験談の投稿ありがとうございます。
「当時の私は人権SOSレターに手紙を出していた」ということで、その当時から状況を変えたい、なにかきっかけが必要だと感じていたのだろうかと思い、でも実際には変わることのないままの状況があったようだと感じました。

数学や「推し」という打ち込めるものを見つけられることは投稿者さんにとって強い味方だと言えそうです。ただ、今は数学に没頭していられない調子の中で苦しいと感じるのも無理はないと思いました。個人的にも、なにかのきっかけで生活に疲れ果てるとなににも打ち込めないことがあり、フラストレーションが溜まるにも関わらず、なかなか事態を変えることができずに焦ってしまうことがあります。もしかするとどこか似た状況なのかなと想像しました。(違っていたらすみません)
自分の経験では、そういうときは思っているよりも随分疲れているので、気力や思考力が回復するまで休むこともひとつの手かもしれないと思いました。

世の中では絶えず続けることを過剰に肯定的に見る視線もあるように思います。でも十分に休めないこと、絶え間なくなにかを更新し続けなければならないことを強いるものがあってはいけないと、個人的には思います。

「まるで醒めない夢のように、そこではみんなが幸せに暮らしてた、私を除いて」と書かれていましたが、ここに書かれているほど「みんな」は幸せなのだろうかと、ふと気になりました。これは「みんなも頑張っているんだから…」というようなことが言いたいのではなく、ただ、多くの人が自分やまわりに「こうでなければ」「普通はこういうものだ」という眼差しを向け合うことで苦しんでいるようにも思えます。「普通」という言葉はともすると呪いのようだとも思います。
投稿者さんが書かれていた「普通の人むけに整備され、はみ出し者は見ない社会」という言葉は私にも覚えがあります。普通なんて本当は存在しないのに、それに合わせなければ生きづらいようになっている社会は、変わっていく必要があると思います。そのためになにかできることがあるのか…。まだわからないながら、改めて考え込んでいます。考えるきっかけをくださり、ありがとうございました。

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