経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

ふらっと「死」に立ち寄りたい

子どもの頃から、私は「ありのままでは誰にも愛してもらえない」ような気がしていた。
別に虐待とかネグレクトとか、そういう問題を抱えた家庭ではなかった。経済的余裕こそなく両親は共働きで、まともに顔を合わせることは少ない環境だったが、愛情をたくさん注がれて育ったと心から思っている。

だからこそ、どうして私の中に「愛してもらえない不安」が常にあるのか、わからない。
ただでさえ大変そうな両親を見て育ったから「迷惑かけないようにいい子でいなきゃ」そう思っていた節はある。
子どもの私にとっていい子でいるということは、優等生でいるということ。学校での評価はそのまま親にとっての安心につながるから、とてもわかりやすかったし取り組みやすかった。学校は、言われたままを素直にやれば評価される、簡単な世界だから。ありのままの自分でいるより、学校が求める生徒を体現すればよかった。
ただ心のどこかで「社会じゃこれは通用しないんだよね」ということもわかっていた。社会で通用するのは、言われたことをやる人ではなく、自分で動くパワーのある人だと。なんとなくそう思っていた。

高校から大学へと進学して、どんどん学校というものから社会というものへ身近な環境が変わり始めると、私の中の正体不明の不安がどんどん大きくなって。
20歳の頃からパニック発作が出るようになった。
そこからはもう生活への支障が出まくりで。大学を卒業してもなかなか就職が決まらず、決まっても長続きせず。引きこもったりパートをしたりしてなんとか生きている。
就職先が決まっても「私のままじゃ通用しない」という不安が常に張り付いて、一年も立たないうちに引きこもってしまうのだ。
今まで働いた会社の中には、私に手を差し伸べてくれた人もいた。私が引きこもってしまった時「私があなたを助けますから、守りますから」と言ってくれた上司がいた。でも私はその手を取れなかった。いつまでも甘えるわけにはいかない。今はこの人が助けてくれるかもしれないけど、いつまでも守られる立場ではない。それなのに、その覚悟もないまま私はこの差し伸べられた手に甘えてしまっていいのだろうか。そう思ってしまって。

他にもいろんな人が手を差し伸べてくれていた。それでも私は、自分の手を伸ばすことはなかった。手の伸ばし方がわからなかったし、その手を取った後、どうやって自分の足で歩んでいけばいいのかもわからなかったから。不安で不安でたまらなかったのだ。助けを反故にしたくせに。
たとえその先が不安でも、差し伸べられた手をとればよかったと、今は後悔している。

こんな頼りない生活をしている私でも、両親は見捨てない。将来お先真っ暗ないい歳の娘でも変わらず見守ってくれている。
にもかかわらず、私は未だにありのままの自分を知られる恐怖や、私は社会に通用する人間ではないという不安で頭がいっぱいになる。馬鹿なやつだとわかっている。わかっているのに、私はいつまでも自分というものを嫌ってしまうらしい。信用できないらしい。

歳を重ねれば重ねるほど、こんな不安定な生活しかできない自分に絶望して、ある真夜中にふと「あぁ、死んでしまおうかな」と思ったりする。
いつも死にたいと思っているわけではない。ただ、パニック発作や女性特有のホルモンバランス、自分のいまの状況など、いろんなものが重なってしまった時、それこそ発作的に「死ねば楽だろうな」と感じ、ふらっと「死」に立ち寄りたくなるのだ。理性が衝動に負ける時なんだと思う。

今まで立ち寄ってしまったことはないけれど、歳を重ねるとともに生きづらさというものが明確にわかってしまって、立ち寄りたいという気持ちが大きくなりやすいというのはある。
ときどき怖くなる。自分はいつか、自ら命を絶つんじゃないだろうかって。そして絶つ瞬間、後悔しながら死ぬんじゃないだろうかって。生きてればまだ何か楽しいことがあったかもしれないのにって。

ただ、そこまでわかっていても、立ち寄ってしまう日は来るかもしれない。正体不明の不安の原因は、複雑に私の中に絡んでしまっているものだろうから。
ここまで綴ってきたことだけが全ての原因ではないし、私が気づかないまま私の中に不安として掬っている過去もおそらくはたくさんあるのだろう。だからここまで言葉にできてるはずなのに、私は変わらず不安で足がすくむ。不安が私からなくなることはない。不安がなくならない限り、パニック発作もなくならない。ずっとずっと、生きづらいままだ。
少なくとも、不安と折り合いをつけなければ、私がありのままの私と折り合いをつけなければ、生きづらさはおそらく変わらないだろう。

この先どうなるかわからない。わかるのは、今この瞬間、ただ生きてるということだけなんだよな。

感想1

「ふらっと「死」に立ち寄りたい 」というタイトル、個人的にわかる感じがする…と思って読みました。あなたが「ふらっと」もしないように、体をぎゅっとすくめるようにして耐えてきたのかなぁと考えていました。
「ありのままで愛してもらえる」という感覚って、どうしたら、どんなふうにできあがっていくものなのでしょうね。私は「愛」という気持ちよりも「尊重」という行動の文化のほうがキーなのかなぁと思うことがあります。あなたの投稿を読んでいて、「愛情を注がれた」ということを否定する必要はないし、死にたいことや不安をそれらを根拠に否定したり疑問視したりする必要もないと思いました。ただ、両親が頑張っていることを理解するほどに我慢せざるを得ない状況があったのかなぁ、寄る辺ない感覚のままあなたもひっそりと耐えないといけなかったのかなと想像しています。
またその中で「優等生」として学校で評価されることは、それもまた「それ以外の面を隠す」方向であなたを頑張らせることにつながったのではないかと思ったのですが、どうでしょう。私は子どもが多くの時間を過ごす学校が多様な在り方でなく、モデル的な生徒の在り方を無自覚に押し付けるのは論外だと思っているのですが、残念ながらそういう風潮や圧力はとても多いと感じています。あなたは「いい子」を乗りこなす力や才能を持っていたのだと思うのですが、でも本当はあなた自身には、もっと自由な在り方があってもよかったのかもしれないと勝手に思ってしまうのでした。評価の種類の少ない「簡単な世界」は、「ありのまま」を肯定するものからは程遠く、それも人々の不安を育て続けているように思えてなりません。そのなかであなた自身がサバイブして生きてきたことを感じました。それはあなたのせいではなく、世の中の不合理な圧力の問題だと私は思います。

「社会に通用する」という言葉は慣用句のようによく使われるものですよね。職場によっても、環境によっても、どんな人が過ごしやすいか、どんな人が力を発揮しやすいかは違っていて、「社会」はそれほど一枚岩でもないと個人的には思います。ただ、不安は未来を先取りするような感覚があると思っていて、その中にいればいるほど、今の自分が身動き取れなくなってしまう部分もあるように思いました。
同年代の人たちのことがほとんど文章に出てこなかったように感じたのが個人的には印象的でした。あなたはどちらかというと上下関係の方がしっくりくるタイプということなのか、この経験談には必要ないだろうと単に書かなかっただけなのかわからないのですが、親や教員や上司などには言いづらくても、他の関係性にであれば言いやすいこともあったりするのかな……と思ったので、少し気になったのでした。ちなみに私も希死念慮はずっとある人生ですが、年代やコミュニティなどによっても、希死念慮の捉え方は違っているような気がすることがあります。

「今この瞬間、ただ生きてるということ」しかないと私も思います。こんなに死にたいと思ったり、苦しみつつも生きていること自体が、がんばってきたことだしよくやっていると言いたい気持ちにもなったりします。この文章はあなたの気持ちがとても率直に書かれているように思いました。書いたところで不安はそう簡単に消えてくれるわけでもないし、ままならないことはたくさんあるかもしれません。でもこれはあなたの「ありのまま」のかけらを送ってくれた文章のように感じています。この投稿にも勇気が必要だったのかもしれません。投稿してくれてありがとうございました。

感想2

不安の正体をずっと探し続けていて、けれどこれといって自分の中でしっくりとくるものが見つけられない焦燥感というのか…葛藤のようなものも感じながら読ませてもらいました。はっきりとした原因があるわけでもなく、でも確かにそこにある不安が消えないまま、環境が変わるたびに少しずつ形を変えて、より輪郭を持っていったのだろうと想像していました。愛情は注いでもらったはずなのに、愛してもらえないという不安や不信があって、こうした矛盾は、外からは見えにくくて、自分の中ではとても現実的なものとして覆いかぶさっているような感覚もあるのかなと感じます。家庭に大きな問題があったわけではないからこそ、その不安をどこに置けばいいのかわからなくしますし、理由が見つからないからこそ、自分の問題として引き受けやすくなってしまうのかもしれません。
「いい子でいること」を選んできたのも、限られた時間の中で親御さんに安心してもらうために、わかりやすい評価を積み上げていったことはあなたなりの生存戦略だったのだと感じます。ただ、環境が学校から社会へと移っていくにつれて、その基準が通用しなくなっていく不安は想像以上にあなたの負荷になっているように思いますが、あなたにとってその負荷よりも、誰かを頼ったり甘えたり、差し伸べてくれた手を取ることのほうが負荷を強く感じてしまいやすいことが伝わってきて、そこの壁を乗り越えるのには何が必要なのかもう少し掘り下げて考えてみたい気持ちになりました。
タイトルもそうですが文中でも、「死にたい」というよりも“ふらっと立ち寄りたくなる”という表現が印象的で、常に絶望しているというよりかは、いくつかの条件が重なったときに、急にその選択肢が近くに現れるようなイメージを抱きました。後悔するかもしれないとわかっているのに、それでも引き寄せられてしまう…その揺れ動きは私自身も長いこと死にたさを抱きながら生きている一人として勝手ながら強く共感できる部分ですし、今後もどう自分のその揺れ動き(感情)と付き合っていくか、折り合いをつけるか、不安を抱えながらも生き続けることは容易なことではないですが、一緒に考え続けたいテーマだなと私は感じています。
最後の「今この瞬間、ただ生きてる」という言葉も、諦めではなく、確認に近い意味合いを感じました。先が見通せなくても、過去を整理しきれなくても、“とりあえずここにいる”ということ、もしかしたら今はそれだけでも十分なのではないかと思う自分がいます。必要に感じた時はそのままのあなたの言葉をまたここに届けてもらえたらと思っています。経験談の投稿ありがとうございました。

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