経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
自分でも傲慢だとは思うが。
私は、20年以上に渡り孤独と歩み、孤独と戦っていた。もしかすると今でも。
子供の頃からずっと疑問だった。貴方たちには素晴らしい自我があるのに、何故それを自ら捨ててしまうのかと。
ルールだから、神様の言う事だから、上司命令だから、自分はこうだから、お金がないから、そんなことを言って。
それらが私にとって、『人間が世界を解釈するためのアタッチメント』であると答えを出したのは最近のことだ。
当時の私/俺にその自覚があったかはもう分からないが、私にとって美しいものは、そういうものから浮いた所にあった。
値段なんてついていない、何処の誰が作ったかもその時は分からない、特別な力を生み出すこともない、長く短い人生のほんのひと時の間の一瞬でしかない。
けれども、意味のないそんな感傷に、俺はいつも魅せられていた。
ある男はそれを「花火」と言った。
ある人はそれを「愛と希望の物語」とした。
ある男はそれを「人間讃歌」と語った。
ある2人はそれを「ロマン」と話した。
ある男はそれを「満足」と謳った。
それのために人生を使い続けたいと望んでいた。
だが、多くの人にとってそれは理解不能の侵略だった。
意味が無いことは原型ではなく虚しさだった。
損することは愛情ではなく痛いだけだった。
分からないことは可能性ではなく恐怖だった。
意に沿わないことは愉しみではなく怒りだった。
多くの人間が、形あるものに縋りながら、自分自身は形のないモノになり、その代償を別のなにかに求め続けていた。
その事を認識して、それに吐き気を覚えるようになったのはいつだったか。
その吐き気が、常に俺の傍らにあるものとなったのは、何処からだっただろうか。
「社会の人が求めるのは最強の力ではなく、自分に都合のいい力である」ことが私の結論だったことに絶望して、どれほど経ったか。
それをそんなはずはないと思いたくて進んだ先で、その結論が途方もなく圧倒的な重みでもって目の前に現れた時、自分は何を思っていたのか。
人が時折、顔のあるのっぺらぼうに見えることを気のせいと思いたかった頃は、いつ頃だったか。
この絶望に身を任せ、自分と世界を破壊していくことは簡単だと思った。
しかし、私はこの絶望と、それが生んだ孤独、或いは孤独と、それが生んだ絶望に、ひとりで向き合い続けることを選択した。
深い理由は無い。ただ、あのような『なにか』に成り果てるぐらいなら、自分の心でもってもがき苦しみたかっただけ。
もしかしたら、この絶望を誰かに委ねたくなかっただけでもあるかもしれない。
理解してもらうことは考えなかった。苦しみたいと願う人は少ないことを知っていたから。
話す気は起きなかった。こんな物を聞きたがる人は限られると察していたから。
探す力は出なかった。苦しむことに必死で、それで体力を使い果たしていたから。
苦しみ続けた成果かは分からないが、少しづつそれらは傷跡に、そして古傷に変わっている。
その絶望を、自分のものと思ってからだ。
絶対数は少なくとも、私の絶望と同じ形の懸念、或いは問いを、静かに、しかし確かに発し続ける人がいることも知った。
そして、それらを「数」「名無し」という不定形を用いて反らし続けるモノは、かつても、そして今なおいることも。
そんなものの為の絶望でなく、自分自身の絶望と、俺と私の痛みが歩みに変わる日を、今はただ目指している。
感想2
経験談の投稿ありがとうございます。
私もかなり自我がくっきりした(捨てようにも捨てられない)タイプなので、あなたの言いたいことはうんうんと自然に入ってきましたし、共感を抱く部分も少なくありませんでした。ただ、感覚的にはいくつか明確に自分とは異なると思う部分もありました。そして、その「異なる」を言葉にしようとすることで、私の自己理解が深まり、結果的にあなたとの対話にもなるように感じているので、言語化を頑張ってみたいと思っています。
最初から自分語りになってしまうのですが、周囲にはどうやらそこまでハッキリした自分の思いや考えがなく、いわゆる「流されて生きている」というような、周囲からの影響の中で周囲と混ざり合ったような自我で生きているらしい…私が知ったのは10代後半のことでした。
私は中学生のときに周りと興味関心がまったく合わない中、それでも自分なりに適応しようとし(適応の動機に主体的なものはあったのですが長くなるので省きます)、流行りのものを一生懸命勉強していました。対して、私のきょうだいは流行りのものを普通に楽しんでいたので、「どうやったら流行りのものに興味をもてるの?」と質問したら、「自然とそうなっちゃうだけだよ」といったことを言われました。すべてに自分なりの意図をもって意識的に生きている私にとって、そんなオートマモードみたいなのが存在するの?!と衝撃を受けました。
つまり、あなたの語りと私の感覚を対比させるなら、あなたが「人間が世界を解釈するためのアタッチメント」と表現した自我の弱さについて、私は「感覚が優位かつ感性が多数派である人に起こる自然な現象」と捉えている、と言えるかもしれません。
ただ、あなたの見てきた人・あなたが作ってきた関係性と、私のそれらとでは違うので、同じ話をしているかというと違うものを眺めて話をしている部分もあるだろうと思います。私は比較的自由というか、リベラルな環境で育ってきたので、全般に善性で捉えがちな傾向はたぶんあります。
あなたの言う「美しいもの」については、私も私の思う「美しさ」はありますが、これに関しては個々の感性が違うのは当たり前なので、異なるといっても異なるのが自然だよねという感想です。
自分の求めるもののためだけに人生を使い続けたい、というのは完全に同感です。他の生き方への軽視にもなってしまうので、あまり言わないようにしてますが、これは私にとっては無駄で無価値、というものさえはっきりあります。あなたと比べると自分なりの美しさへの惹かれは弱そうに感じていますが、興味や価値観の狭さ、それ以外のものへの無関心はかなり強いと思います。(死にトリの活動は価値のある側に属しているのでやっています)
人生は苦しみであり絶望である、というのが基本的な私の考え方です。
これは自分の人生観というよりは、人間の自我や感情が「自分なりの理想」または「自分の都合のいいもの」を求める性質をもっているのに対して、世界はその人のために回っていないからです。そこには確実にストレスや葛藤があります。それを絶望だとまで感じるかは個性や環境次第だと思いますが、私は自分なりの理想が強く、残念なことに今の社会は生きることの負担も大きいので、絶望がベースにありつつも、まあ今日もしょうもない世界でやっていきますか、とあがいています。
感想1
あなたにとって(もしかしたら完全にではなくても)選べる中でいちばん納得のいく言葉や認識でこの経験談は書かれている感じがしました。その中に、ひとつひとつ積み重ねていくような思考の流れを感じました。それを受けて、私自身はどんなふうに感じたか、考えているかを書いてみたいと思います。
「自我があるのに、何故それを自ら捨ててしまうのか」は私も私なりに考えてきた気がします。それに対する現時点での私の考えは、どうやら多くの人には、自分自身の感性に耳を傾けていくことや自分らしい選択に手を伸ばすことよりも、集団の中での評価や価値観のほうが大切で、それがその人たちにとっての自然な自我の形であることが多いようだ……ということです。ある意味では自我の変幻自在度が高いというか。道理でホモサピエンスが社会を作る生き物だとか言われるわけだ!と納得してしてもいるのですが、私はそんな中で多少マイノリティであるらしく、自我がまったく柔軟ではなく、自分の感性や認識の中で納得のいかないことはやれないタイプなので、なんとなく疎外感や違和感を持ちながら生活してきました。
あなたにとっての美しいものについての文章もなるほどと思いました。私の中には「それのために人生を使い続けたい」という感覚に惹かれる気持ちと、なにかのためと決めてしまうような、目的論的な生き方はしたくないという気持ちがあるようでした。多くの人にはわかられなくても、自分にとって大切に思うものに人生を使い続けたいという気持ちはとてもすてきでわかる気がしつつ、私自身は移り気すぎるから、決められる感じがしないのかもしれません。また、みんなではなくとも、だれかには理解されたいという気持ちがあるのもたしかな気がします。
私は無意味なものが好きです。世の中の意味を撹乱していくようなものも好きです。意味は人が見出すものですが、普遍的ではなく、移ろうものです。私たちは自分で意味づけていくことも、意味を撹乱させていくこともできます。過去の言葉を引き継ぎながら、言葉を作り出すこともできます。
あなたにとって「絶望に向き合う」ということは.あなたであることを大切にするということなのかなと思います。「絶望でよかった」からはじまる歌詞の曲があり、私はこの曲に10代の頃からすごく支えられてきたことを思い出しました。私も20代後半までは一日一日が苦しくて、一日ごとの延命に必死で、あまりまわりを見ることもできていなかったのですが、それをすこし越えた現在だから、見えるものや存在が増えてきた部分もある気がします。
ただ、私は絶望の中で、ふと、この世界は美しいものだ、世界は完璧なものだという根拠のない信仰のような気持ちを抱くようになりました。美の片鱗をかいま見たと感じる瞬間、なにか美しさのかけらの顕現に立ち会う瞬間に、完璧な幸福と思えるような感動の瞬間を容易に体験してしまいます。そのため、これについても、絶望の中だけにいるかのように書くのは、かなりおこがましいとも感じることを自己申告しておきます。
……そういうことを考えていて、あなたの感じる「美しいもの」と「絶望」はどこか結びついていたり、表裏一体のような関係にあるのかもしれない、とも思いました。全然違ったらすみません。あなたのそのあたりの感覚をもうすこし詳しく聞いてみたくなりました。