中学・高校と不登校で、高校は1年も経たずにやめてしまいました。今は年に2回高卒認定試験を受けながら引きこもり生活を送っています。
1日のほとんどをスマホで潰すという怠惰な生活をただ繰り返すばかりで、バイトはおろか外にも全く出ないのに、親や周りの人は
「大丈夫」
「自分のペースで頑張ればいいからね」
「あなたならできるよ!」
と励ましてくれます。
嬉しいと同時に、なぜここまでしてくれるのかと疑問もあります。
本来ならば
「こんな奴いらない」「なんでできないんだ」
と疎まれそうな存在です。
それでも日々私を支え、守り、ともに明るい人生への道を探してくれる家族や知人。
彼らは私に気を遣っているのか、本心なのか、確かめようがないので少し怖いのです。
プレッシャーになっているわけでも、うざったいわけでもありません。
ただ本当にそう思っているのかわからなくて怖い。また本心にしろ嘘にしろ、気を遣わせてしまって申し訳ない。
そして励ましや褒められることを嘘だ、お世辞だと決めつけて勝手に心を病んでいる私自身がとても嫌なのです。
不登校や高校中退、引きこもりというのは社会的地位が低く、疎まれやすいものです。
私はそれらに対するネットの低評価ばかりを信じ、身近な人の助言に耳を傾けようとしません。
これから出ていく社会での評価のほうが重要な気がしてならないんです。
これは応援してくれる家族や知人に対する侮辱にあたるのではないでしょうか。
人を簡単に信じられなくなってしまいました。昔は一言褒められるだけで舞い上がるほど嬉しかったのに、建前という概念と社会の底辺に対する評価を知ったことで、すべての褒め言葉が嘘に聞こえるようになってしまいました。
もっと昔みたいに人の言葉をまっすぐ受け取ることができたら…と悔やまれてなりません。
こんな選択をしなければ、こんな辛い感情を抱えることもなかったのでしょうか。
感想1
身近な人の言葉よりも、ネットを代表する世間の評価の方が気になってしまう…こんなにも分かっているのに、そちらが気になってしまうという強い葛藤を興味深く読みました。それだけ、ネット情報のある種の威力を思い知った気がします。あなたが表現する「社会での評価」と「身近な人たちの評価」は何がどう違うのか、いろいろと議論したい気持ちになりました。あなたのことを知っていて、これまでの姿を見ている身近な人たちにとっては、あなたのペースを尊重する意味で味方になっている側面が強いのかなと思います。逆に個人を知らない人は、一般論として不登校や高校中退について低い評価を安易にしてしまうのだろうと思います。顔の見える関係の中での評価と顔の見えない一般論では、顔の見える関係の方が役に立ちそうだと思う一方で、顔の見えない一般論が特別な力で不安をあおってくる感覚も分かる気がします。みんな、普通、当たり前…そんな呪縛がここまで強くなってしまう現状はどうしたらいいのか、とても悩ましいです。私は不登校や高校中退をして自分らしくのびのびと暮らしている人をたくさん知っているので、あなたの身近な人たちとはちょっと違った意味で、不登校や高校中退に対するテンプレ的な評価をあまり信用していません。そもそも、学校や社会に一人ひとりが無理をして適応しなければならない社会はとても息苦しいと思います。多様な生きかたやあり方を想定する社会の方が自然だし、もう少しましな社会になるはずだと、実際にいろいろな生き方をしている人と出会うと、実感としてわかります。
おそらく、今はあなた自身が不登校になったこと、高校を辞めてしまったことに対して不本意な気持ちがあり、その気持ちと折り合いをつけるための時間なのでしょう。そう思いながら、あなたが好きなことは何だろうと思ってみたり、勉強とか学校とかはさておき、何か今まで見たことのないものを見てみたらどうだろうなど勝手に想像をふくらませています。学校という集団は実は想像以上に特殊なところで馴染めない人、つらいと感じる人は少なくないと思っています。自分が苦しい、つらいと感じるところから離れることは本来は自分の気持ちに耳を傾けた結果であり、自分を守るための行動で、責められることでも低評価を受けることでもありません。また、何か悩むことがあれば、こうして言葉にしてもらえたらと思います。