私は小学校高学年ぐらいから高校3年生の現在まで特定の音に強い嫌悪感を感じる、ミソフォニアという障害に悩まされていて、毎日トリガー音(鼻すすり、咀嚼音、咳など)に怯え、耐えながら生活しています。
市販の精神安定剤を飲んでみたり、なるべくイヤホンを付けるようにしたり出来る限りの対策はしています。
授業中や人と話すときはイヤホンをするわけにはいかないので、1日1日をやりすごすことだけ考え、ひたすら耐えています。
その時間は本当に地獄で、「早くこの場から逃げ出したい」「これさえなければもっと楽しい人生だったんじゃないか」「こんなつらい思いをするなら死んでしまいたい」とまで思います。誰かに相談する勇気もないのでただずっと音に対するストレスを必死に抑え込んでいます。
実は小学生の頃、何度か家族に音が不快でたまらないと伝えたことがありました。私の伝え方が悪かったのもあり、家族をイライラさせてしまいました。
突然音に対して指摘されたら、イライラしてしまう気持ちもわかるので、理解してもらおう相手に改善してもらおうと考えることはやめました。
ですがこの生活にも限界を感じるようになり、これからもずっとこの苦しみが続くと考えると本当にしんどいです。
家でも家族の音が気になるので、イヤホンを付けているときかみんなが寝静まった夜だけは安心して過ごせますが、トリガー音が聞こえた途端に死にたいぐらいつらくなってしまいます。
ただ、好きなことをしているときは本当に楽しいので、この障害さえなければなとどうしても思ってしまいます。
少しでも苦しみから解放されたいです。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
音に耐える日々
感想2
読んでいてまず、あなた用カスタマイズのノイキャンイヤホンがあったらいいのにと思いました。だけど実際には、家庭環境でも学校でも不快な音から離れることがむずかしく、しかももし相手も気をつけたとしても無くし切れるものでもない点が「耐える」以外の選択肢を奪ってしまっているように感じました。
私はミソフォニアについては、数年前に死にトリに投稿された経験談を読んで知りました。そのときも、その言葉を読んで検索して、こういう苦痛があることがもっと知られ、誤解が減り、解決方法が見つかって、抱えている人たちのしんどさが減ったらいいのになと思いました。今は音声認識技術もノイキャン性能も向上してきているし、自分でカスタマイズできるミュート機能のついたイヤホンもできてくるかもしれません。授業などを直接あなたの耳で聞かなくても、自動文字起こし機能がもっと充実したら、十分に授業を聞いたり人と話したりできるようになるのかもしれない。他にもやりかたはあるはずだろうとも考えていました。素人考えでしかないですし、夢物語かもですが、あなたが「耐える」以外の方法で生活ができるために、どんなことがあればいいのだろうと色々と思い巡らせていました。
個人的には、あなたにとって好きな過ごし方や時間が増えること、それから家族や周囲の人にもミソフォニアやその苦痛への理解が深まっていくことを強く願っています。貴重な経験を投稿してくれてありがとうございます。こうやってサイトに掲載されることからも、世の中に知られていってもらえたらいいなと思っています。
感想1
読ませていただいて、初めて知った「ミソフォニア」「トリガー音」というものを調べました。私自身は(また別の音に対するストレスの感じ方となるのかもしれませんが)割と強いHSPでの音声過敏をずっと抱えたまま生きているので、全く同じとは言えなくとも、投稿者さんの苦しさを想像しながら考えていました。
特殊な環境や特別な物によって聞こえる音と違って、日常にありふれていて且つ選択的に耳に入ってくることを選べない音に強い不快感を感じることにはとても苦しさがあるように思えます。それこそ、イヤホンの機能のようにノイズキャンセルなどでもできれば話は違うのでしょうが、人体の構造上それはできないでしょうし、自身の工夫を以てして環境に適応するよう頑張っても解消できないことは、押し寄せる音の波に身も心も日々削られてしまいそうに感じます。
それは「自分だけの音」というわけではないことによって、さらにシチュエーションや頻度が自身が望まない形で増やされてしまうように思いますし、それこそこれからのことを考えると、ゴールのないマラソンのごとく「いつまでこの苦しみが続くんだろう」と途方もない気持ちを抱いてしまうのも無理のないことな気がします。
ただ、日常にそれだけの苦しみがあり自分にはどうすることもできない「音」という存在に振り回される中で、投稿者さんなりに工夫をしていることや、伝えるにしても時と場合を選んでいること、言ったとしても言われた側のことを考えて慮ろうしていることは、(わかってもらえたら楽だろうなという気持ちはもちろんあるのかもしれませんが)自身の抱える辛さを一方的に相手に押し付けないように、とてもしんどい中で相手の気持ちに立つことを忘れていないことのように私には思えました。また、それだけのしんどさが日常に慢性的にある中で、「好きなことをしているときは本当に楽しい」と思える瞬間が投稿者さんにあることに少しほっとしている私がいます。
どんな症状や障がいも、身体に起こる不調やその苦しさを相手に100%伝えたり共有することはとても難しいことなのかもしれません。ですが、日常の全ての場においてではなくても投稿者さんが安心して過ごすことのできる空間や理解のある人間関係が多くはなかったとしても見つかるこれからであってほしいなと勝手ながらに思いました。
投稿ありがとうございました。