経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

普通の人間が羨ましい

現在うつ病と社会不安障害を患い、辞職して生活保護を受けています。

ASD特性や発達性協調運動障害を持って生まれ、貧しく不仲な機能不全家庭で育ちました。

”普通のまともな人間像”と自分を比べて落ち込んでしまいます。

皆と同じ様に緊張せずに人と話せたら。
皆と同じ様に友人を作れたら。
皆と同じ様にスポーツやゲーム、趣味を楽しめたら。
皆と同じ様に清潔で規則正しい生活ができたら。
皆と同じ様にスキルやキャリアを身につけられたら。
皆と同じ様に安心できる家庭で育っていたら。

ストレスに耐える事以外にもエネルギーを使えていたら。
自分を高める努力ができていたら。

この国の大半の人間が当たり前に持っているモノ、少しの努力で手に入れられるはずのモノ。
人並みの幸せやそれらを手にするための土台が自分にもあったら、と
ぐるぐると毎日毎日同じ事を考えてしまいます。

いつまで耐えればいいんだろう。
いつになったら幸せになれるんだろう。

スモールステップ、自分を褒める、他人と比べない、自己受容…
現状から脱却する手段を調べるとその様な言葉が出てくるのは知っています。

頑張らないと幸せになれないのか?
他の人は最初から持っているモノを自分はわざわざ努力しないと手に入れられないのか?

でも自分にはそれすらできない。
もうこれ以上頑張れない、耐えられない。

全てが魔法の様に一瞬で解決して欲しい。
それが無理ならこれ以上生きていたくない。

感想1

自分の頑張りさえも、世の中の物差しを使って測られてしまうことが多いことにいつも悔しさを感じています。

「普通の人間が羨ましい」という言葉の中には、自分の意思だけではコントロールし切れない体や心の不自由さを感じてきたあなたの苦しさがつまっていて、脱却する手段を並べてきた検索エンジンにさえもやきもきする気持ちです。話せたら、作れたら、楽しめたら、できたら、身につけられたら、育っていたら、あなたのやるせなさを想像すると共に、なぜ社会は代替案を用意してこなかったのかと学校教育や地域福祉に憤りを覚え、申し訳なさも持ちました。きっと、もしかしたらこれはあなた一人の問題では無く、少数派と呼ばれる立場に置かれている人たちにとっても同じ辛さを経験している社会の問題のように思いました。

どれだけAIが発達し答えをすぐに教えてくれるようになったって、やっぱり困ってる時に手を差し伸べてくれるリアルな助っ人に出会いたいと思うのは私だけでしょうか。自分だけの頑張りは一旦休憩し、社会よ頑張れ考えよと一緒に叫んでもらいたいような気持になりました。投稿いただき、ありがとうございました。

感想2

経験談の投稿ありがとうございます。文章を読みながら、足りないものを責められ続けてきた時間の長さが感じられ、その疲労がどれほど深いものなのかが伝わってきました。生まれつきの特性、育った環境、経済的な苦しさ…どれも本人の努力で選べるものではないのに、それらが積み重なって「普通」という基準から遠ざけられ、その距離を自分のせいにしてしまう構図がより苦しさを際立たせているように感じました。
あなたが並べた「皆と同じ様に」という願いは、欲張りでも甘えでもなく、社会が“当たり前”としているものに触れる機会が少なかったがゆえの、ごく自然な渇きのようなものだと私は思いました。本来なら、家庭や学校や地域の大人たちが、子どもが安心して成長できる土台をつくるべきなのに、そこが崩れていたとき、個人の努力だけで追いつけというのはあまりに残酷な話だよなと改めて思うことです…。
「スモールステップ」「自己受容」といった言葉が、今のあなたにはさらに重荷としてのしかかってしまうのも、言葉としては“正論”のように見えても、土台が削られたままの人にとって、その正論はむしろ“できない自分”を突きつける刃になってしまうことを考えると、あなたが抱く感覚も無理もないことだと私は思いました。
“頑張らないと幸せになれないのか”“他の人が最初から持っているものをなぜ自分は努力しないといけないのか”という問いは、あなたが怠けているから生じたものではなく、社会の不公平さに気づいてしまったからこそ出てくるものだったりするのかなと考えていました。生まれた時点で配られるカードが違うのに、同じゴールを求められることへの理不尽さを、あなたは正直に言語化している、そう私は感じます。そして、ここまで何年も耐えてきたあなたにとって「もうこれ以上は無理だ」という感覚が湧くのは、決して弱さではないと伝えたくなりました。魔法のように一瞬で解決してほしいという願いは、逃げではなく、長い長い消耗の末に出てくる、当たり前の叫びなのではないかなと。(私も同じように思うことがあります)
読み進めながら、“気休めの励まし”なんかではなく、“抱えているものの重さは一人の責任ではない”という感覚が当たり前に存在する世界だったらな…なんてことを綺麗事かもしれませんが思ってしまいました。あなたが正直に綴ってくれた思いや心の叫びは、同じように感じている人も少なくはないと私は思いますし、もっとこうした声が届きやすい社会にしていくために何ができるのか考え続けたいと思えました。またあなたにとって死にトリが必要に感じられたらいつでも訪れてください。

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