経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

どうでもよく、なりたい

期待をされること。それこそが、私の一番恐いこと。ろうの親の通訳をすること。いい成績を取ること。高校に推薦合格すること。部活で褒められること。バイトでうまくやること。
そういうとき、「怒られないように」「誰かの期待を裏切らないように」という恐れが、私の一挙手一投足に必ずついて回る。

ろう者の子であるということは、想像以上に、他者からの期待と親への責任が伴う。私が聞きたくないことばも、私が、私の言葉で、私の口から通訳をする。関係のない他者からも、もちろん親からも、そうであるべきだというふうに、小さな頃から育てられた。
きっと、そんな育ち方をしたから、どんなところに行っても何かを任されそうになるのかもしれない。そうして、失敗しない道を選択し続けてきたけど、高校生の時、大きな挫折をした。自分でもどんな挫折だったか今でも分からない。あまり、記憶がない。私の脳は、それをなかったことにしたがっているから、それに従う。たしか、いつの間にか人間関係が上手くいかなくなって、好きだった音楽も本も読めなくなった。いつしか電車に乗ると、息苦しくなるようになった。
あるとき、通学中にあまりにも息が苦しくなって、電車を降りて母にそれを伝えてみたことがある。返ってきた答えは「そう、メッセージできるくらいなら大丈夫。学校は行ってね」だった。精神科に行きたいと父に伝えると、ヤブ医者だと否定された。そこから、学校をサボるようになった。親が子の苦しみを理解しようとすることはないし、むしろわたしの死にたさを怖がっているようにも見えた。そうして、ギブアンドテイクの関係を自然に求める自分に気がついた。虚しくなった。親子関係にギブアンドテイク。わたしはなんて浅慮で冷たい人間なのだろうかと、自分自身に絶望した。
あの時はコロナ禍だったので、その時の事情もありなんとか高校を卒業させてもらえた。大学受験は失敗した。お金がなく塾に通うことができなかった。最も、あんな状態での塾なんて焼け石に水だろうが。
その後からはずっとフリーターをしている。そう、打って変わって親の期待を裏切り続けているのだ。もしかしたら期待に応え続けてきたあの頃の分を裏切っているのかもしれない。

それはそれで別の種類の死にたさがある。「あの時はしっかりしてたのに」
「就職はしないの?」
親でもない誰かが、私が歩むはずだったレールと私の今の立ち位置の差を、求めてもいないのに教えてくれる。ありがたいことだ。
だから、通信制の大学に通い始めた。何かに属して、孤立感をなんとか和らげたかった。結果として、和らぎは得られなかったけど、私の未来を少しだけ変えることのできる可能性がある切符を手に入れることはできた。
それでも、死にたさは、私の震える右手の中にずっとある。死ぬことは簡単なようで、簡単ではなかった。「死にたい」というよりは、「この世から楽にいなくなりたい」「生まれてこなければよかった」という言葉こそがわたしの死にたさの本質なのかもしれない。感じていた自分への期待を裏切った結果、人から求められなくなったこと、認められなくなったこと、その積み重ねと疲弊がそんな感情を生み出している。そして、それと向き合わずに逃げる方法も探し続けている。死にたさから逃避するために。答えはいつも見つからない。

今日もAIを言葉で殴る。
「おまえの紹介するホットラインをわたしは求めていない」
「わたしは自分を慰めるために死をみつめるの」
馬鹿で、矮小な行為。それでも、実体がなくたっていいから、どうしても誰かに自分を理解してもらいたくて、続けてしまう。誰かの期待に応えようとすることも、まだやめられない。

感想1

書いている内容よりもまずは文章全体からにじみ出る深い哀しみを感じずにはいられませんでした。生まれながらにして知らないうちに背負っていた役割は重く、あなたの中にあり続けてきたのだろうと思います。それは、ある意味で誰のせいでもなく、そこにあったのかもしれませんが、一人の子どもとして自分の人生を生きる権利を持つあなたにとって、あまりにも自然にあったため、気づいたときに拒否することも受け入れることも難しくなり、動けなくなってしまっているような印象を受けました。
「期待」という言葉で表現されていますが、あなたの生活や日常には常に期待がそこにあったのだろうと思います。それは、私たちが普段何気なく使っている期待という言葉とは違うような気がしています。ただ、自分の中に住みついている当たり前に対して、こうして疑問を持ち、苦しいと思えることは紛れもなくあなたの本音であり、自分を知らないうちに縛ってきた期待から解放されたい叫び声であると私は感じ取りました。死にたさを自覚することも息苦しくなることも、あなたが自分として生きたいと願う気持ちの表れであると私は思いました。
印象的だったのは、「親子関係にギブアンドテイク」を求めることに浅はかさを感じていることです。私は相手がだれであってもギブアンドテイクを求めることに何のためらいも要らないだろうと思いますし、子どもから親に対してはテイクだけを求めても構わないと思うのですが、あなたは常に自分が何を与える存在としてあることが前提になっているように感じたのです。それに関連して、そのあとの「もしかしたら期待に応え続けてきたあの頃の分を裏切っているのかもしれない」にも目が留まりました。そう考えることで自分の気持ちに折り合いがつくのなら、そう考えるのも全然ありだと思いつつも、私はそんな合理化をしなくても、今のあなたはあなた自身のために必要な時間を過ごしているのだから、問題はないよと伝えたくなりました。親の期待という軸で過ごしてきたこれまでから、あなた自身の望みや気持ちを軸にしようとする合間で立ち止まっているのだろうとも思えました。とても大切な時期だとも感じました。
それを知らない外野は「就職しないの?」と安易に言葉をかけることもあるのでしょう。「ありがたいことだ」という言葉はその言葉をかけてきた個人に対する皮肉を通り越して、今の社会全体に対する無理解や無頓着、家族内へケアの責任を押し付けていることへの痛烈な指摘のように思えます。少し私自身のことを伝えると、自分も長い間家族のケア役割を引き受ける生活をしていて、この先もおそらくまだしばらくその役割から解放される見通しが立たないこともあり、あなたが書いてくれた想像以上の責任の重さにシンパシーを感じてしまっているのかもしれません。
親から物理的に離れることができたらあなたの苦しみは少しは和らぐのだろうか?と自分の立場とも重ねながら考えを巡らせています。おそらく、そんなに単純なことではないと思います。ただ、少なくとも投稿してくれた経験談にはあなたが背負わされた責任や期待という呪縛から解放されたいという願いは確かにあると感じました。単純でも簡単なことでもないと思いますが、私は内在化された呪縛を少し緩めることは可能だと思いますし、あなたにはその力があると感じました。こうして気持ちを書いて届けてくれたことが緩めるための第一歩だと感じるからです。もしも、これからも気持ちを届けたいときには訪れてください。待っています。

感想2

経験談への投稿ありがとうございます。
何もかも投げ出して、すべてどうでもいいと思いたいのに、癖のように身に染みついた「期待に応えよう」としてしまう自分自身への葛藤を感じました。

冒頭の「ろう者の子であるということは・・」と書かれた部分を読み、期待されることへの「恐れ」の根源を垣間見たような気持ちでした。
「私が聞きたくないことばも、私が、私の言葉で、私の口から通訳する」との部分が、特に印象に残っています。そう簡単には想像しきれない、あなたの複雑な思いがぎゅっと詰まった表現だと感じました。
親のサポートをするのが当たり前の環境で、それがあなたの日常であったこと・・ともすれば「障害がある親を支える子ども」という美談に変換され、周囲から向けられる期待とプレッシャーは相当だったことを感じています。
当時はどんな気持ちで通訳をしていたのだろうかと、何度も考えました。親のサポートをすることや、しっかり者でいること、そこから派生する数々の「期待」に応えることが、いつしかあなたのアイデンティティの一部にもなっていったのでしょうか。一方で、「そうあるべき」「当たり前」に隠れてしまった、あなたのしんどさ、誰にも言えない本音があったようにも感じました。
心も身体も、いつもどこかで緊張していたのではないかと思います。心身の不調は、人知れず積み重ねていた我慢や重圧が、一気に溢れたとも言えるのではないかと感じました。

SOSを出しても受け止めてもらえなかった経験は、「言ってもどうせ分かってもらえない」という悲しみや不信感をより強化する出来事になってしまったことを感じました。
「むしろ私の死にたさを怖がっているようにも見えた」との部分は、相手にとって都合のよい自分は受け入れてもらえるけれど、そうではない自分は取り残されてしまうといった、怒りも込められているように感じました。
ギブアンドテイクの関係を求めたことは、あなたが冷淡ということではなく、「そうでも思わなければ、自分の心がもたない」という切実な防衛反応でもあったのではないかと考えました。
周囲は勝手に褒めて、勝手に失望して、本当に理不尽だなと、思わず怒りが込み上げてきてしまいました。そう考えると、「期待に応える」とは一体何なのだろうかと、あらためて考え込んでしまうような気持ちです。

このお返事が届く頃も、死にたい気持ちを握り締めながら、やってくる日々を凌いでいることを想像しています。
実態を持たないAIに強い言葉を向けることは、どこにもやり場のない怒りや虚しさをただただぶつけるしかない瞬間でもあるのかなと想像しました。
誰かに理解してもらいたいと願う気持ちは、何もおかしいことではないと私は思っています。
あなたが自分自身の言葉で語った苦しさや葛藤には、置かれている状況こそ違えど、思わず自分を重ねたり、共感を覚える人が、私を含めてたくさんいるのではないかと思います。
またよかったらお話を聞かせて下さい。

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