経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

壁と偽り。

もう、疲れたんです。

私は大好きな祖母がいた。でも、
難病や他の病気で中一の頃に星になった。
星になる前の日、家を出る時に交わした、
“またね”が、最期の言葉になってしまった。
私にとって、ショックが大きかった。
優しく接してくれていた祖母がいないと想うと、心が苦しくなった。
同じ中一の時、学校の帰り道で結んでいた髪をほどき、メガネを少し外していた時
他学年の先輩に”うわー、かみほどいてる、”と少し煽られて、自分の容姿を否定された気がした。他にも様々な事が重なり、
いつしか死にたい。そう考えるようになった。腕に無数の線を引いた、深く眠りに落ちようとした。でも、叶わなかった。

中二の時、部活動で県大会出場することができたと喜んでいた頃、頭を打った。
“大会は難しい”顧問にそう言われた時、何も言えなくなった。悔しかった。結局出ることは出来たが、その頃の記憶は無い。
その頭痛はそのまま今も残っている。
宿題の日記に、死にたいと書くようになり、
ある授業後、カウンセリングを担任に提案され、受けることになった。
しかし、カウンセリングを受ける時、今でもそうだが、素直に自分の気持ちを伝えることが出来なかった。にこにこしている自分が嫌いだった、作った笑顔がきらいだった。

中3のころ、今までやっていた学級委員に初めてなることが出来なかった。初めての子に負けてしまった。泣いた。悔しくて泣いた。
担任には気にするなと言われたが、気にした。受け止めることが出来ない現実が、そこにはあった。それから、自分の中の死にたいが強くなっていった。身体は前に進むが、心だけはまだあの頃にいるような気がしていた。

性格的に気にしすぎな部分もあると思う、それでウザがられる事も多々ある。自分の思いが今でも伝えられない。助けてのたった4文字が言えない。周りの視線が怖い。
今は精神科に通いながらの生活。
担当医の先生にも、思いを伝えられない、
そんな自分が大嫌いだ。

もう、いいのかな。疲れたよ、ぜーんぶ。

まだ、心も体も顔も、壁を、偽りを作って過ごしている。

感想1

中学3年間の出来事が、ぽつりぽつりと語られているのが印象的でした。ここに書かれていない部分も含めて、きっと多くの細かな傷つきがあなたを襲い、今も未消化のまま心に残っているのではないかなと感じました。それらを抱えて進む生活は、からだもこころも重く、休むに休まらない日々なのではないかと想像しています。

出来事の1つ1つ、形は違えど、どれもあなたに「人から否定された」という感覚を生じさせるエピソードに思えました。そこには自分のやったことや考えが報われなかったというショックもありそうですが、それ以上に「人を信じる」ということを難しくさせるものだと感じました。自分の気持ちを伝えても大丈夫だと思えたり、気にしなくても何とかなる(ならなくてもいい)と思えたり…それらは大枠で「信じる」気持ちだと思います。それがいろんな出来事、時には他者の存在や反応によってじわじわ削られてしまったのではないでしょうか。
偽ること自体は、悪いことだと私は思いません。正直になって傷つくよりマシなときもあると感じるからです。ずっとやっていたら疲れることではあると思いますが…。偽ること自体というより、そこに「本当は偽りたくない」という気持ちがあるから、苦しいのだと思います。カウンセリングや受診といったプロの第三者(どう思われても良いと少しでも思えそうなところから)に話すことは、偽りを緩める練習になるのではと思いました。死にトリもある意味、信じる・信じないを抜きにして、どう思われるかをあまり考えず声を外に出せる機会じゃないかと思うので、よければまた訪れてみてください。

感想2

投稿読みました。最初の「もう、疲れたんです」という一言の中に、長い年月をかけて積み重なった痛みが重くあなたの中に沈んでいるようなイメージを抱きました。ただの疲労ではなくて、“ずっと頑張ってきたけれど、これ以上どうやって頑張ればいいのかわからない”という、心の奥底からの疲弊を感じました。
大切な祖母さんを亡くしたことはうまく言葉で表現しきれないですが、あなたにとって“世界の優しさがひとつ消えた瞬間”だったのではないかなと想像しています。「またね」という言葉が最期になってしまったこと、時間をいくら重ねても残り続けるでしょうし、生きていく中で起きる些細な出来事や誰かの何気ない言葉や、自分の容姿への否定、努力の果てに訪れた挫折…それらが、悲しみの余韻と結びついて、あなたの心を削っていったのではないかなと私は思いました。
あなの死にたさは、ただ“死”を望む声ではなく、“このままの自分ではもう耐えられない”という、限界のサインでもあるのかもしれないなと感じました。“腕に無数の線を引いた”という行為も、自分を壊したいからというより、“まだここにある痛み”をどうにか形にしたかったのかなと…。見えない心の傷を、身体に可視化しないと自分でも実感を持てなかったところもあるのかななんてことも考えたりしていました。作り笑顔の自分を「嫌い」と書かれていますが、その笑顔は、生き延びるための仮面でもあったと私は思います。学校、家庭、社会という場では、悲しみや不安をそのまま見せることが許されにくいところがあるよなと私は感じていて、「笑っていなきゃ」「頑張らなきゃ」と無言の期待を背負わされることも多いなと。そうした社会の中で、“普通でいること”をきっとあなたは続けてきたのでしょうし、その消耗がどれほどのものかを考えずにはいられませんでした。
恐らく、「助けて」が言えないことや担当医にすら自分の思いを伝えられないのは「人に迷惑をかけてはいけない、我慢しなきゃ」といった考えがあなたの中にどうしても出てきてしまうからなのかなと感じました。それはあなたの「弱さ」では決してなくて、社会が“安心して本音を出せる場”を与えてこなかった(つくってこなかった)ことの結果でもあると私は伝えたい気持ちです。
タイトルにある「壁と、偽り。」という表現に、“生きるために必要な仮面をまといながらも、本当はそれを脱ぎたい”という矛盾の中で揺れる葛藤が込められているように感じつつ、あなたは諦めや絶望を静かに感じながらも、それでも“自分の思いや痛みを見つめる力”を手放していないように私は思いました。直接誰かに自分の心の内を言葉にして伝えられなくても、こうして経験談を投稿してくれたように文字で表現することが苦ではないのであれば、またいつでも死にトリに声を届けてもらえたらなと思っています。そんな簡単なことじゃないかもしれませんが、この先あなたの疲れ切った心が、ほんの少しでも休められたらな…と、偽っても偽らなくてもそのままのあなたでいられる場所や人に出会えることを願って感想とさせていただきます。経験談の投稿、ありがとうございました。

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