経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
Instagramの中の私は、子どもがいないことを除いて、充実した人生を送っているように見える。子どもがいないことについても、あえてそれを選択したかのように思えるかもしれない。実際には、ここに経験談を投稿しようと思うような心持ちで、毎日を過ごしている。
私はこれまで、複数回休職を繰り返してきた。そのことは両親や親族にはバレていないし、友人(と言えるのかも分からない)で知っている人も少ない。全て知っているのは夫だけだ。
広場恐怖の症状があり、何をするにも頓服薬が手放せない。それでも今は、一応働いているし、意外と対人折衝のような仕事も多い。
休職した時はいつも、昨日まであんなにニコニコしていたのに…と言われた。パワハラというか、セクハラ?モラハラ?のようなことをしてきた上司にも、そう言われてきた。週末は出かけることもあるし、趣味でスポーツや音楽もやっている。そういうキラキラした自分が、Instagramの中にいる。
でも、どこへ行くにも、趣味をするにも、仕事をするにも、ドーピングは必須。実際には、ぐるぐる考えごとをして終わる日も多い。何も心配せずに物事を楽しめたのって、もう何年前だろう。そして、次は何十年後になるのだろう。
大学を卒業する頃の計画では、仕事もプライベートもバリバリ楽しんで、30代前半には子どもを2人産んでいるはずだった。マイホームも買って、時々家族旅行に行ったりなんかして、のんびり穏やかな『普通』の生活を送るはずだった。普通にしては理想が高いかな。自覚はある。
今では家族と会う度に、子どもがいないこと、マイホームを持っていないこと、NISAをやっていないことなど、とにかくチクチク言われる。本当に余計なお世話だが、長生きする自分を想像できないのに、長期投資する気になんてなれない。
医療者からは、弱い自分、ダメな自分を受け入れろと何度言われてきただろう。
休職を繰り返した私は、多分干されている感じの部署にいると思う。人手不足で意外と忙しいけれど、頑張って働いても同期より昇進は遅れているし、今後も普通のキャリアは望めないだろう。お給料があがる訳でもないのに、いざ仕事を目の前にすると頑張ってしまう。そういうところを真面目だとバカにされる。
どんな仕事も大切だと思って、私は向き合っているけれど、いわゆるキラキラした人気の部署ではない。同世代の同僚からは、明らかにバカにされているな、もしくはかわいそうだと思われているな、と感じることがある。人を見下さなきゃいられないくらい、みんな何をそんなに必死になっているんだろう。会社で偉くなる人なんて、嫌なやつばっかじゃないか。必死で頑張ったって、会社に使い捨てされるのがオチだ。
…これは多分、負け惜しみ。
会社は、『変わった人』を特定の部署に集めようとする。私は休職を繰り返す問題社員。つまり、異動する度に対人関係の難易度は上がる。自分もコミュニケーションが取れていないのに失礼な言いぶりかな。
でも、話がすれ違っている人たちの間に入ったり、上司と部下の板挟みになったり、毎日気を遣いすぎてもう疲れた。
いつまた休職してしまうだろうかと、常に怯えながら過ごしている。体調が悪くなったら、あれがダメだったかな、これがダメだったかな、と考える。もし再発したら、再発予防できていないことや、コーピングを身につけられていないことを医療者にも責められるだろう。きっと会社の人たちだって、早く辞めろと思っているに違いない。
これは、認知の歪みだろうか。
仮に順調に働けたとしても、子どもがいない女は、社会において『欠陥品』のままだ。夫もこんなことになると分かっていたら、結婚していなかっただろう。
女性活躍推進というのは、女性を社会にとって都合の良い存在に変えていくことだし、多様性の時代には、見えにくい形で分断が蔓延る。アメリカでは隠しきれなくなっている。政治のことはよく分からないけれど、政権が変わったり、総理大臣が変わったりしたら、孤独•孤立対策だって、簡単に隅に追いやられるんだろう。
私より世の中の方が、理想と現実のギャップが大きい。
…話がそれた。
そもそも私は、保育士になりたいと思ったことがあるくらい、子どもと過ごすことが好きだ。でも、妊活なんてする余裕はない。結婚してるんだし、仕事を辞めればいいじゃんって言われそう。私が頑張ってきた仕事ってそんなもん。
子どもを産めるかどうか、タイムリミットはどんどん迫ってくる。こんなメンタルの人が親になること自体、ダメなことなのかもしれない。ただでさえ、さっさと消えたいと思っているのに、子どももいないとなったら、いったい何のために働いてお金を稼いでいるんだろう。
私の姉は数年前に自殺した。『この先1人で生きていくなんて、耐えられない』と言っていた。30代後半に差し掛かる頃で、未婚だった。みんな30代になってからの焦りは半端ないのだ。子孫を残そうとする本能なのか、社会からのプレッシャーなのか、どちらなんだろう。
そんなこともあり、自殺したらどうなるかをリアルに知ってしまった。死んだ人間にプライバシーなんてものはないから、気をつけた方が良い。色々知りすぎてしまったがゆえに、私の中でそういう選択肢はあまり強くないと思う。つまり、客観的にそこまで切羽詰まってはいない。
切羽詰まっている人の相談枠を奪ってはいけない、と思うことがある。中途半端に働けているから、いろいろな福祉の対象からも外れている。何だか、マジョリティにもマイノリティにも入れないような気分だ。
結局何を言いたいのかわからなくなってきた。今の生活に満足できるようになるのが、一番良いんだと思う。
どこへ行くのも、何をするのも不安でいっぱいで、この不安がなくなれば良いのにと思うけれど、そう思うことはダメなことなんだと思う。頭では分かっているけれど、なかなか気持ちがついてこない。
ここ数年は、自分の気持ちを表す言葉を、本や映画の中から探してきた。貯蓄してきた言葉を使って、長文で自分の気持ちを表現したのは、これが初めてかもしれない。
相変わらずNISAはしてないけど。
この経験談を一つ一つ読んで、返事をする人たちはとても大変だと思う。大した悩みじゃないのに、長々とごめんなさい。
でも1回だけ、この話を誰かに読んで欲しかった。できれば返事も欲しいと思った。
いつか、自分が話を聞いてあげられる側の人間になりたい。
明日はまた、学生時代の同級生とランチに行く。普通にニコニコ振る舞えるかな。頓服薬を携えて頑張ろう。
感想1
経験談への投稿ありがとうございます。
心の中で交差するさまざまな感情や声を丁寧に拾い上げながら、率直に語られた文章だと感じました。端々には自分自身の状況や経験と重なる部分もあり、ところどころ他人事とは思えない気持ちで読ませていただきました。
SNSを通じて他者の人生がいとも簡単に見えるようになった世界で、「普通の人生って一体何なのだろう・・」とあらためて考えています。
Instagramは、それぞれが「一番良い」と思える瞬間や、どこか演出された自己像が切り取られて並んでいる場所だと、私は感じています。不思議なもので、並んだ投稿を見ているうちに、いつの間にかその人の人生すべてがキラキラと輝いているように思えてしまいます。
「自分もキラキラした人生を送っているように見られたい」と思うことは、ある意味で自然な心理なのかもしれませんが、そういった感情はどこか不安や恐怖を動機にして芽生えるようにも思います。
自分だけが取り残されたような感覚や、眩しさにあてられて「他人が知らない自分」にますます暗い影を落とすようにも感じています。
複数回の休職は、あなたにとって極力周囲に知られたくないことだと理解しましたが、そう思うに至るには、人知れず傷ついてきた数々の言葉や態度があったように想像しています。
「何をするにも頓服薬が手放せない」と書かれていましたが、玄関を一歩出れば、常に緊張と不安に晒される日々を送っていることを感じています。
「こんな状態がいつまで続くのだろう」といった、深い疲労感も滲んでいるように感じています。
家族と会うにも、「ない」ことを話題の中心に置いて「とにかくチクチク」指摘をされるとのことでしたが、ただでさえ弱っているところに、さらに心を削られる時間になっていることを感じています。
医療機関でも、「再発してはいけない」というプレッシャーを感じながら、安心して関われるような状況とはいえない雰囲気を感じています。
総じて思ったのは、あなたに向けられる言葉やまなざしが、いかに社会的な規範に縛られているかということでした。他者の基準で一方的に測られることに抗いながらも、自己否定に帰結するしかないような、そんな苦しい状況をイメージしています。
あなたが語ってくれた違和感や迷い、葛藤は、どれも真っ当なことだと、私は感じています。
そんな中、苦しさの対比として「普通の人生」という表現が用いられているようにも思いました。
お姉さんが急逝されたことも、家族を失った悲しみとともに、さまざまな思いや考えが頭を駆け巡ったのではないかと想像しています。
悩み苦しんでいることも、何かしらの枠に該当するかしないかとまたもや測られることは、どこにも行き場のない孤独感だけを残していくように感じました。
「マジョリティにもマイノリティにも入れないような気分」との言葉が、残像のように印象に残っています。
社会の中には、至るところに人々の不安を煽る価値観や考え方があるように感じています。不安を不安のまま放っておけない、あるいは放っておいてはいけない、そんな「何か」に追い立てられながら、やってくる毎日を何とかやり過ごしているように思います。
自分を内省し、気持ちを言葉にすることはなかなかの労力を必要とすることでもあると私は思っています。今回、あなたがこうしてご自身の思いを言葉を尽くして綴ってくれたことは、お返事を書いている私も勇気を分けてもらったような思いでいます。
一回と言わず、よかったらまたお話を聞かせてください。あらためて、投稿ありがとうございました。
感想2
投稿ありがとうございます。読んでいて、まず自分の中でぐるぐる考えてしまったのが、「普通の人生」と「充実した人生」というものがどのくらい重なるものなのか…ということでした。
そんなことを考えるのは、私が「普通」がいまいちわからないままいい年になってしまった人間だからかもしれません。私はたぶん、世の中のさまざまな「普通」に乗れなすぎてすごく早い段階で目指すのを諦めてしまっていたように思います。だから、私がなにかいうのも、あなたにとってすごくしょうもないことのような気がしつつ……読んでいて感じたことを書いてみたいと思います。
翻って考えると、あなたは難しいと感じながらも「普通」をずっと目指してきたということなのかなぁと思いました。あなたにとって「普通」というのはどういう要素を指しているのかなぁと思いました。結婚している、仕事をしている、趣味がある、友好的な人間関係、子どもがいる、持ち家がある……さまざまな要素が重なっているのかなと文章からは想像しています。「普通にしては理想が高いかな。」と書いてありましたが、どちらかというと、「とにかくチクチク」いろいろなことを言ってくる家族のほうに問題があるような気もしてしまいました。「余計なお世話」というのも本当で、人のことに口出しをする権利は家族であってもだれであってもないはずだと私は思っています。
でも世の中の風潮的にも、さまざまな「こうあるべき」が押し付けられている中で、なかなかそういうものから距離をおくのもむずかしいと思いました。
私は結婚をしておらず(だいぶ昔に離婚しました)、子どもは持つ気はまったくなく、パートナーもいないし、たいして働いてもおらず、メンクリには定期的に通っていて、体力もだいぶ低いので、社会的に見て「普通」からは遠いんだと思います。ただ、どんな人間であろうと「欠陥品」扱いする社会があるなら、社会が今すぐにでも変わるべきであるだけで、私が変わる必要はないと、私自身はけっこう思っていたりもします。(そう思うまでにはだいぶ時間がかかりましたし、いまも調子が悪いときにはすべて自分が間違っている……という気持ちになることはたくさんあるのですが……。)
社会というのはすべての人間をサポートするための概念であって、社会の方が人間のなにかを決めつけるなら、それ自体が社会に欠陥がある証明でしかないと思うからです。これは障害学などで考えられてきた「個人モデル」ではない「社会モデル」の考え方でもあります。
そういう意味でだれかを、あなたを苦しめる「普通」ならばぶち壊してしまえばいいと、私は半ば本気で思ってもいます。
とはいえ、あなたにとって子どもを持つことは「普通」かどうかということをまるっきり除いても、あなた自身が子どもが好きだと思う気持ちや、これまでの人生の中での願いのような思いもあって、かんたんには片付けられないものなのだろうと思います。
私は子育てってすごく大変そうだと思うので、もっとたくさんの大人で分業して子育てができたらいいのになぁとずっと思っています。親として子育てをしたいという人が、孤立するような状況のほうが間違っていると思います。私は子どもを持ちたいとは思っていないけれど、孤立せずにさまざまな人の中で子育てが行われるなら、その中に参加したいのになぁ……と思います。
「見えにくい形で分断が蔓延る」ということについては、権利獲得の歴史には、バックラッシュの流れもずっとあったことを感じています。それでも、人類の歴史は確実に多様なあり方を許容する方向に進んできてもいると思います。たしかに私たちが生きている間に、完璧な公平さや平等を見ることはむずかしいかもしれませんが、無意味であったこともないと、いくつかの歴史から私は信じています。
あなたの文章からは切実な苦しさと同時に、読み手を気遣うようなやわらかさやユーモアを感じました。それもあなたが人間関係の中で人を気遣いながら身につけてきたものなのかなぁとも思いますが、それだけではない、なにか心地よい軽やかさのようなものも感じています。もちろん、しんどい思いを否定するつもりはまったくありません。ただ、こういう文章はだれにでも書けるものではなく(どんな文章でもそうではありますが)、こういうふうに率直に自分をみつめながら自分の言葉を書くことは、あなたの力と言えるのではないかと思ったのでした。
「頑張ろう」でしめくくられていますが、「頑張らなくていいよ!!」と大声で届けたい気持ちになっています。頑張る以外にどうしたら?という問いに答えを出すこともできないのに、無責任とは思うのですが、あなたが頑張らなくていい、のんびり過ごしていられる時間がすこしでもあることを願っています。
感想1
経験談への投稿ありがとうございます。
心の中で交差するさまざまな感情や声を丁寧に拾い上げながら、率直に語られた文章だと感じました。端々には自分自身の状況や経験と重なる部分もあり、ところどころ他人事とは思えない気持ちで読ませていただきました。
SNSを通じて他者の人生がいとも簡単に見えるようになった世界で、「普通の人生って一体何なのだろう・・」とあらためて考えています。
Instagramは、それぞれが「一番良い」と思える瞬間や、どこか演出された自己像が切り取られて並んでいる場所だと、私は感じています。不思議なもので、並んだ投稿を見ているうちに、いつの間にかその人の人生すべてがキラキラと輝いているように思えてしまいます。
「自分もキラキラした人生を送っているように見られたい」と思うことは、ある意味で自然な心理なのかもしれませんが、そういった感情はどこか不安や恐怖を動機にして芽生えるようにも思います。
自分だけが取り残されたような感覚や、眩しさにあてられて「他人が知らない自分」にますます暗い影を落とすようにも感じています。
複数回の休職は、あなたにとって極力周囲に知られたくないことだと理解しましたが、そう思うに至るには、人知れず傷ついてきた数々の言葉や態度があったように想像しています。
「何をするにも頓服薬が手放せない」と書かれていましたが、玄関を一歩出れば、常に緊張と不安に晒される日々を送っていることを感じています。
「こんな状態がいつまで続くのだろう」といった、深い疲労感も滲んでいるように感じています。
家族と会うにも、「ない」ことを話題の中心に置いて「とにかくチクチク」指摘をされるとのことでしたが、ただでさえ弱っているところに、さらに心を削られる時間になっていることを感じています。
医療機関でも、「再発してはいけない」というプレッシャーを感じながら、安心して関われるような状況とはいえない雰囲気を感じています。
総じて思ったのは、あなたに向けられる言葉やまなざしが、いかに社会的な規範に縛られているかということでした。他者の基準で一方的に測られることに抗いながらも、自己否定に帰結するしかないような、そんな苦しい状況をイメージしています。
あなたが語ってくれた違和感や迷い、葛藤は、どれも真っ当なことだと、私は感じています。
そんな中、苦しさの対比として「普通の人生」という表現が用いられているようにも思いました。
お姉さんが急逝されたことも、家族を失った悲しみとともに、さまざまな思いや考えが頭を駆け巡ったのではないかと想像しています。
悩み苦しんでいることも、何かしらの枠に該当するかしないかとまたもや測られることは、どこにも行き場のない孤独感だけを残していくように感じました。
「マジョリティにもマイノリティにも入れないような気分」との言葉が、残像のように印象に残っています。
社会の中には、至るところに人々の不安を煽る価値観や考え方があるように感じています。不安を不安のまま放っておけない、あるいは放っておいてはいけない、そんな「何か」に追い立てられながら、やってくる毎日を何とかやり過ごしているように思います。
自分を内省し、気持ちを言葉にすることはなかなかの労力を必要とすることでもあると私は思っています。今回、あなたがこうしてご自身の思いを言葉を尽くして綴ってくれたことは、お返事を書いている私も勇気を分けてもらったような思いでいます。
一回と言わず、よかったらまたお話を聞かせてください。あらためて、投稿ありがとうございました。