経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

私の人生

物心ついた時、私には母親がいなかった。離婚したらしく、父親に引き取られた。祖母が私をのびのびと、わがまま娘に育ててくれたが、いつも心にぽっかり穴があいていた。

父親が再婚した。新しい母親と妹ができた。自分の感情にかまっている暇はなかった。とにかくこの状況に適応しなければ生きていけないと思った。義母は厳しい人だった。お行儀、門限、口の利き方、色々注意された。人格否定もあったのかもしれない。怖くて怖くていつもビクビクしていた。怒られるのが怖くて仕方がなかった。

そんな生活をしていたら、小6で摂食障害になって半年入院した。ご飯を食べなくなったから。ガリガリにやせ細って、主治医に怒られた。どうして、もっと早くこなかったのかって。私は自分が、やせすぎているだなんて気が付かなかった。

中学生になって、なぜか興味もないバレーボール部に入った。今思えば、あの時吹奏楽部とか美術部に入った方が楽しかったのかなとか思う。ブラックな部活で、ここでも私はつらい思いをした。向いてないことを頑張りすぎた。暴力やパワハラ、セクハラを受けた。

高校生。この頃になってやっと自我に目覚める。自分が生きるのがしんどいこと、両親への反抗心そういうものが芽生えた。不登校になった。精神科にも行った。やっとの思いで志望高校に入ったのに、苦しいことばかりだった。でも、助けてくれる人たちに出会えた。それは救いだった。何度も死のうとした。両親は理解しようという姿勢を見せてくれなかった。それが何より悲しくて、家出して、また祖父母宅で暮らすことにした。

大学生になった。祖父母宅から通える、BFの大学に通わせてもらった。学費は負担してくれたけど、そこしか受験させてもらえなかった。精神的なつらさは、変わらずで、毎年単位はギリギリだった。アルバイトもなかなか続かなくて、お金がなかったからあまり遊びに行けなかった。でも、自分のやりたかった学問をやって、少し自由に生きて、楽しかった。

営業職で内定をもらって、知名度もそこそこな会社だったから、喜んで入社した。自分が病気であることを半分忘れて。周りからは、営業なんてやめとけ、あなたには無理だと言われた。それに従っていればよかったのか、今仕事が辛くて、かなり追い詰められている。しんじゃいたいとか思う。でも、チャレンジさせてくれた会社には本当に感謝している。一人暮らしができているのも会社のおかげなんだ。

私の人生こんな感じ。どうしてこんなに生きづらいのかなと、社会に出て半年経つけど、思うのだ。発達障害(ASD)からの二次障害でうつ病、トラウマ障害、社交不安なのか。今のところの診断はそんな感じだ。これから、社会人として生きていく自信が喪失されていく。

それでも、死ねない私は生きていくしかない。どうせ生きていくなら、こんな人生でも楽しんでやりたい。どうやって楽しもうか。まずは、休職か、退職かに向けて動かないとまじで死んじゃう笑。今は自分を守るために行動しよう。そのあとのことは、その時考えよう。頼れる人には、勇気を出して頼ろう。私が私の一番の味方でいてあげなくちゃいけない。私は私を愛しています。

感想1

経験談の投稿ありがとうございます。あなたがこれまで過ごしてきた人生を淡々と綴られているようで、それでもその中に積み重なってきた苦しみや孤独感の重さが確かに存在している印象を抱きました。なんというか、何度も嵐に巻き込まれながら、それでも自分という舟を見失わずにここまで漕いできたのだろうな…というイメージです。
物心ついた頃にはお母さんの存在はなく、祖母さんにのびのび育てられるものの心には穴がぽっかり空いていたという描写に、幼い頃に抱えるにはあまりにも大きすぎた不安や緊張があっただろうなと想像しています。本来なら、子どもが安心して過ごせたり、素直に甘えられる場所であるはずの家庭が、常に気を張らざるを得なかったことは大人になってからもあらゆる場面で支障をきたすものだよな…と自分自身のことも振り返りながら思うところでした。それでもあなたは、恐怖心を抱えながら生き延びるために「適応」という形の生存戦略を身につけてきたのだろうと思います。怒られないように、嫌われないように、自分を抑え込みながら…それがどれほどの消耗だったか、想像すると勝手ながら胸が詰まる思いになりました。摂食障がいになった時にやせすぎていることに気づけなかったのはもしかしたら、“感じる力”を奪われていたのではないかなとも思いました。このことだけに限らず、感じ取ることがあまりにつらすぎるゆえに、心が自分を守るために感覚を鈍らせているところもあるのかななんてことも考えていました。
周囲に合わせ、期待に応え、向いていない場所で頑張りすぎてしまう行動も一見“努力”として見られることもあるとは思いますが、実際には“生きるために身につけざるを得なかった防衛反応”でもあるのかなと私は感じました。高校時代にようやく芽生えた自我と反抗は、“生きようとする力”の裏返しでもあるのかなと…。
社会に出てからも、営業職という「人とのやりとり」が求められる職に就いたことは、あなたなりの“挑戦”でもあったのかなと思いました。ASDやトラウマを抱える人にとって、営業という仕事環境は、過剰な刺激と負荷をもたらす場でもあるのかなと私は感じています。ただ、感謝の気持ちと死にたい気持ちが同時に存在しているという複雑さこそ、“働くこと”の苦しみを切実なものにしているようにも感じました。社会の側も、こうした“頑張ることが前提”の構造を変えない限り、同じように消耗していく人を生み続けるのだな…と改めて思わされています。
自分の特性を責めずに働ける場所、安心して休める環境、そして「頑張らなくてもいい」と言ってくれる社会のまなざしが広がっていってほしいと強く思います。
あなたの文章は生きることに対して投げやりになるのではなく、「生き抜く」ことを選び取る理性的な意志があるように私は受け取りました。“生きづらさ”は個人の問題ではなく、社会が個人に押しつける“適応の形”の問題でもあるのだと改めて考えています。あなたが自分を責めず、自分を守る方向に舵を切ろうとしていることも、あなたの中にある地力の強さを感じました。どうかこの先少しでもあなたが頑張りすぎなくてもあなたらしく過ごせる場所や人に出会えることをささやかながら願っています。また死にトリがあなたにとって何か役に立つようなら、いつでも訪れてください。

感想2

まさにタイトルの「私の人生」について、確かに受け取りました。自分の人生でありながらも、それを上の方から見ている自分もいて、歩んだ自分と見ていた自分が暗黙の共同作業で綴ったような感じがしました。幼少期からあなたの力の及ばない大人の事情によって、過酷な生活環境におかれ、その中で自分なりに生き抜いてきたことが伝わってきました。おそらく子どもの頃のあなたは「自分がやりたくてやった」とか「こうした方がいいと思ってやった」などという、自分の意思や考えで行動するのではなく、常に「そうするしかなかった」「気づいたらこうなっていた」というサバイバルな時期だったのではないかと思いました。高校生の時にようやく自我が芽生えたと書いてありましたが、それ以前の生活の中で、尊重されることが少なく、自分で自分に意識を向けたり、自分の気持ちに気づいたりする機会も余力もなかったのだろうと想像します。ただ、そのような状況でも高校生で自我が出てきて、自分の理不尽さや不当な扱いに気づいて、反抗したのはあなたの底力であると私は感じました。
あなたの底力と書いてみて、ふと気づいたのですが、あなたの人生はずっと底力を発揮し続けてきたように思いました。常にギリギリでも持てる力を振り絞り、過酷な道を乗り越えてきたようなイメージです。それは見方を変えるととても孤独な戦いをしてきたのだろうと思いました。自分の力で乗り越えていく気概があなたの中には強くあるように感じています。その気概は最後の今後への宣言にも強く表れているように思いました。自分に言い聞かせるように、鼓舞するように「今は自分を守るために行動しよう。そのあとのことは、その時考えよう。」と綴っています。私が注目したのはその次の「頼れる人には、勇気を出して頼ろう。」です。今回の経験談を書いて送るというプロセスも「頼る」第一歩だと私は感じました。もう、孤独に戦わなくてもいいですよと伝えたい気持ちです。
そう考えると、今まで何とか一人で乗り切ってきたところから、他の人たちの力や知恵を借りる道をひらくことは、可能性がたくさん広がることでもあると思います。なかには頼りにならずに邪魔をしてくる人、傷つけてくる人もいるかもしれません。誰に頼ればいいのか見極めるためにはこれまで培ってきたあなたの力が役に立つと感じます。
大学時代の「少し自由に生きて、楽しかった。」という一文からあなたが自分の権利と幸せをいかに求めてきたかを感じています。その感触を信じて自分の道を歩むことを願っています。何か必要な時にはまた、訪れてください。いつでも待っています。

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