経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

回避型思考

社会人になり7年経つが、ずっと悩んでいることがある
人から注意や指摘をされるのがとても苦手で、自分を全否定されたように感じられてとても気分が落ち込み消えてなくなりたいと思う。言われた直後は思考が停止する感覚があり、それと同時にどんな嘘や言い訳をしたらこの場を切り抜けられるかと考える自分がいる。前に教えてもらっていたことなのに知らなかったフリをして切り抜けて、「今回の注意は小さい出来事にすることができた」と安心感を覚える。家に帰ってから言われた言葉を反芻して苦しまなくていいからだ。大きな失敗をしたと思ったまま家に帰ると、そこから数日間は毎日それを思い出しては苦しむことになる。失敗は誰でもすること!大事なのは失敗した後どうするかだ!と前向きな言葉を思い浮かべてもすぐにネガティブな思考に上塗りされて何もできずぐったりしてしまう。
家ではどんなに苦しんでも、職場に行けば取り繕って「この前の失敗は全然引きずってません」感を出して、前向きで言われたことをすぐ直すヘコヘコした人間になろうとする自分がいる。

なぜ自分はこうなのかと考えた時に、自己肯定感が低いのに変にプライドが高くて完璧主義な所があるからなのかなと思う。
同期や年下とは普通に話せるが、上司や年上となると極端に構えて怯え、全ての指示に二つ返事で答えて決して逆らわないようにしようとする自分がいる。普段からヘコヘコして低姿勢でいれば、注意を受ける時に優しく注意をしてもらえるのではないかという考えがあるのだと思う。でもそんな姿勢でいるから自身の心の弱さは見抜かれているし、舐められるし、普通の人なら「やっちゃったねー、まあそんな時もあるよ」と軽く言われるようなことも「ちょっとを気を付けてほしかったな、うん」としっかりと注意を受けているような気がする。
普通の人を観察すると、注意を受けたら素直にすみません!気をつけます!とハッキリした声で謝り、普段からも発声がしっかりしていて自分の意見を上司にも伝えられている。そういった姿勢が私にはない。
私は注意を受けたら全力で顔を歪ませてすみませんでしたを連発する。小さな失敗なら軽く流せばいいのに、極端に謝りすぎるから注意する側に壁を感じさせて余計にしっかり指摘させてしまっているのだと思う。
「あー!自分やっちゃってますね!気をつけますー!」で軽く受け流せてる人の気がしれない。そのあとに「もっと重く受け止めなさい」と怒られたらと思うととてもじゃないがそんな軽口が叩けない。
これは私なりの心を守る防御姿勢なのだろう。でもそれが重くて、辛くて、嘘つきな自分が嫌で、回避しようとするズルい自分が嫌い。
過去に人前で何か指摘されたトラウマがあったのだと思うが、数年かけてようやく忘れ去った事なので思い出せない。今のこの苦しい状況は何年経ったら忘れ去れるのだろうか。

感想1

経験談への投稿ありがとうございます。
文章を読んで、あらゆる角度から自分を点検しているような、そんなイメージが浮かびました。
現在の状態が防衛反応の一つであるという気づきも含めて、ご自身を客観的に捉えようとする力はどこで育まれたのだろうかと興味が湧き、聞いてみたい気持ちになりました。

置かれている状況は違いますが、注意や指摘に対する強い恐れは、なんだか他人事とは思えない気持ちで読ませていただきました。
「相手は自分を否定しようとして言ったわけじゃない・・」「時間が経てばいい経験だったと思えるはず・・」などなど、押し寄せる恐怖や不安を打ち消すようにたくさんの言葉を並べてみても、心が追いつかない葛藤があるように感じています。
自分を守るための小さな嘘に罪悪感を抱いている姿には、あなたの真面目さが垣間見えたように感じました。
「上司や年上となると極端に構えて怯え、全ての指示に二つ返事で答えて決して逆らわないようにしようとする自分がいる」と書かれていましたが、過去の経験が影響しているのか、あるいは職場自体が「そうしなければならない」という空気感を漂わせているのだろうかと想像しました。
あるいは、「注意や指摘を真摯に受け入れ、気持ちを切り替えて仕事に取り組む」ことがあるべき姿であるといった、社会の規範的な風潮によって生み出される苦しみなのでしょうか。
私自身も何かにつけて「すみません」が真っ先に口をついて出てしまいます。「軽く受け流せている人の気がしれない」との部分は、勝手ながら共感してしまうところでした。
あなたの「すみません」と、私の「すみません」は少し意味合いが違うかもしれませんが、「自分は下手に出るから、攻撃しないでほしい」と言い換えることもできるのかな、と考えたりしています。

文末に「これは私なりの心を守る防御姿勢なのだろう」と書かれていましたが、あなたが自分の力で身につけた処世術であることを、私も感じました。
自分のことがよく分かっているからこその苦しさのように感じています。
嘘をついたり、回避しようとすることはある意味で人間らしいことのようにも思ったりしますが、そうは思えない状況や人間関係の中に身を置かれていることも感じています。
苦しさは簡単に拭えないものかもしれませんが、ここでは取り繕わずに気持ちを吐き出していってもらえたらと思っています。またよかったらお話を聞かせて下さい。

感想2

投稿を読ませてもらいました。少し私の経験と重なるところがあったので感想を書かせてもらいます。
私が幼少期の頃、母は自分が思う通りにならないことが起こると激情しているのを見てきました。「見てきました」というのは、私ではなく兄が母の激情に被弾していたからです。私はその流れ弾に当たらないように、そして直接被弾しないように自分が母が求めるように答えていたのを覚えています。例えそれが嘘であってもあんな激しい弾に当たるくらいならと、自分を守るために嘘をつくのが精いっぱいでした。
あなたが言うように “言われた直後は思考が停止する感覚”や“嘘や言い訳をしたらこの場を切り抜けられるかと考える自分がいる”というのはとてもわかる気がします。だから回避したり取り繕ったりすることで社会の大半は成り立っているのかもしれない…そんな風に私は思うくらいです。
私は、嘘をつかなくてもいいとか、○○でなくてはならないという価値観が固まっていない社会になったらいいなっていつも思っています。もっと自由だったらいいのにって。社会がいつまでもかりそめなら、とりあえず今は自己防衛を働かせておくくらいがいいのかなって私は思いますがどうですか?
投稿ありがとうございました。

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