経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

与えることができない。

私は大学4年生の男です。
これから社会人になる未来に希望が持てません。
私は今から10年以上前、小学5年生から人間関係に悩むようになりました。
誰かから好かれるためには何かに秀でていなければならないと。
金、愛嬌、地位等といった社会的魅力が欠如していれば他者からの承認は受けられない。
誰かと仲良くなるためには与えるものがなければならない。そのプレッシャーに耐えられません。
社会を残酷に捉えすぎてるのだと思いますが、人間はステータスを意識せずにはいられない生き物だとも思うのです。
私は愛されたいです。
でも好かれるためのものを持っていない。
幼い頃は周りの評価なんて気にせず自分のしたいことを気が済むまで出来た。
大人になればなるほど自由がなくなる、そう感じます。
1日8時間労働したら残り16時間、移動と睡眠で8時間削れるとすれば仕事は人生の半分以上をしめるわけです。
そこまでしても大して苦ではない、あるいは楽しいこともあると思える世間が羨ましい。
死にたいって思わないのかな。
何が違うんだろう。
10年の間、メンタルの浮き沈みを繰り返してきた。自分なりにいろいろ試してみたけれど変わらなかった。
いや、変わらなかったわけじゃないと思う。
ただ、ずっと自分の思い描く普通に手が届かない。
何かを諦めれば生きやすくなるんだろうか?
他人と比較するなと言う。
比較しない人間なんているのか。
比較してそれなりの人生送ってるから気にしないだけじゃないのか。
自分の元同級生らは人生の階段を上っていく。
取り残された。
辛い。寂しい。苦しい。
私には何が足りないのか。
それは後天的に補えるものなのか。
薬も飲んでるけれど効いてんだか効いてないんだか。
カウンセラーさんにもここまで醜い自己開示は恥ずかしいしくてできない。
カウンセラーさん相手でも顔色伺ってしまう。
死にたいという話題で人間関係が築けるならなんの苦労もいらないのに。
その場しのぎを10年続けてるとこの先もこんな感じなんだろうなとしか想像できなくなる。
誰かこの死にたいを摘出してください。

感想1

書き込みありがとうございます。赤裸々に綴ってくれた文章を読みながら、将来を考えるためにこれまでをふりかえられているあなたの文章のようにも感じました。

とりわけ人間関係にずっと悩まされてきていることを冒頭にも書いてくださいましたが、愛されたくて好かれたくて、ずっと一生懸命だったのではないかなあと感じています。うまく行ったり、空回ったりとされてきたのかな、と想像したりするのですが「好かれるためには何かに秀でていないと」という考えに至るのに、どんなことがあったのか気になりました。

家族や友達の中で色々な経験があった上か、あるいは元々の性質か、どちらにせよ「とても人の気持ちに敏感なあなた」がいるのではないかなと思います。敏感に感じてしまうからこそ、気を使い過ぎてしまったり、疲れやすかったり・・。そして「自分の言葉ややりたいこと」を二の次にしてしまうほど人の目や評価を気にしてしまうというのは、楽しさや元気を失ってしまうのは容易いように感じます。

しかしながら近年どちらかといえば人の目や評価を気にして他人軸で生きる、そうなるのも簡単な世の中だと思います。むしろそうならないほうが難しいのでは、とさえ思います。それは「おかしくならないほうがおかしい世の中」という言葉と同じ意味なのかも知れないなと書きながら考えています。

カウンセラーさんには言えなかったけれど、ここに書き込んでみようと思ったこと、言葉にしたこと、そのプロセスが何より大切なことだと私は思います。よく勇気を出して書き込みに来てくれました。きっと、これまでも苦しい思いをしながらも、あなたが一生懸命やってきたこともそこに結果があろうがなかろうが抱きしめたい思いです。もし叶うなら、あなたも「結果じゃなくて、頑張った自分」を抱きしめていてほしいと思います。

私もついつい、結果に目がいってしまうこともあるけれど、頑張った自分を褒めていたいな。死にたい気持ちも含めて、そのままのあなたでいていいところでいられるように、そんな場所でありたいと願っています。

感想2

投稿読みました。“生きることの意味”や“自分という存在の価値”を、長い時間をかけて見つめ続けてきたことによる切実な痛みが伝わってきました。あなたの綴った言葉の一つひとつからは、ただ落ち込んでいるというよりも、「自分が社会という仕組みの中でどう位置づけられているのか」をあまりにも鋭く見抜いてしまうがゆえの苦しさがあるように私には感じられました。
「誰かから好かれるためには何かに秀でていなければならない」という考えは、決して思い込みとかではなく、現代社会の構造そのものがあなたにそう思わせているのかもしれないなとも感じます。例えばSNSではいいねの数が可視化されていて、職場では成果が数字で示されることも多いですし、否応なしに他者との比較が存在していて、常にそれと隣り合わせな生き方をせざるを得ないのが現実だと私も思います。そんな中で承認されるためには“何かを与えなければならない”と学んでしまったのも、無理のないことだなと。でも、それは本来、人間関係を築くための前提ではなく、社会が作った“競争の形”の中で、あなたが生き延びようとしてきた結果なのだとも思いました。
「愛されたい」という言葉も見返りを求めての言葉ではなく、誰かとただ対等に繋がりたい、存在をそのまま受け止めてほしいという、根源的な願いのように私は捉えました。
あなたが感じている「取り残されていく感覚」や「比較してしまう苦しさ」はそのように抱いている人も少なくはない、普遍的な痛みでもあるように思います。特に日本では、“自己責任”という言葉が独り歩きして、社会的構造による格差や環境要因の影響が軽視されがちで、努力しても報われない人は“努力が足りない”とされ、他者と比べること自体が“悪いこと”とされてしまう…でも、比べずにはいられないのが人間だと私は思うし、それを「するな」と言う社会のほうに無理があるのだとつくづくあなたの文章を読んで思ったところです。
「何かを諦めれば生きやすくなるんだろうか」という問いの奥には“自分を偽ってまで生きることはしたくない”という思いもどこかあったりするのかなと想像していました。
“普通”という幻想がどれほど多くの人を傷つけてきたかということをあなたは自分の体で感じ取ってしまったのだと思いました。
カウンセラーにさえ自己開示できなくとも、死にたい気持ちは消えないままでも、こうして、自分の思いを綴ったことは“死にたい”という痛みを社会の中に可視化しようとしている行為でもあると私は感じます。
世界の残酷さを知っていてもなお、それを“見て見ぬふり”せずに向き合っているのだと思いますし、それは決して弱さではなく、あなたの中にある強さの一つだと私は思います。ただ、その強さを生きるための力に変えるには、もう少し“安全に疲れてもいい場所”が必要なのかもしれないなとも思ったりしました。頑張らなくても、分析しなくても、誰かの顔色を見ずに存在できる時間がどうかこの先あなたに少しでも訪れてほしいと勝手ながら願ってしまう自分がいます。
「誰かこの死にたいを摘出してください」という最後の言葉も、“生きたいけれど、この痛みを抱えたままではもう生きられない”という切実さが滲んでいるように感じました。
このあなたの願いが叶うとしたら、それは“死にたい気持ちを取り除く”ことではなく、“死にたいと思わなくても済むような社会”に変わることなのではないかと…あなたの抱える痛みは、その必要性を訴えているようにも私は感じました。あなたにとって死にトリが何か役に立つようならまた訪れてほしいです。投稿、ありがとうございました。

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