私は昔から恵まれた人でした。
やろうと思えば何でも出来るし、元々地頭も良く、いわゆる「天才型」というものだったんです。
ただ、努力がとても苦手でプレッシャーにも弱かったんです。
私が一番最初に「死にたい」「消えたい」と思ったのは小3の頃。
結構早かったんですかね
実際これも原因としてはプレッシャーで。
担任がすぐ怒鳴ったり人によって態度を変える方だったので私は好きではありませんでした。
なんなら私が怒られ、嫌われていたので…
当時の私は「やらなきゃ怒られる」「明日までに終わらせないと」というプレッシャーに追われ、最終的には「明日を生きたくない」「消えたい」と考える様になったんです。
なんとも小学生らしい理由にはなるかもしれませんが、結局私ってそんなもんなんだなぁ、と。
その後、4年になってからは減っていきました。
担任が原因ということがすぐ分かりますねー…
そして現在に至ります。
なので最後に「死にたい」と思ったのは小3の頃。自殺について考えたのも小3の頃です。
久し振りの感情でした。
私は努力をせずとも上手くいく…そんな才能だったのかもしれません。
私にとってはデメリットでしたが…
私には合わなかったんでしょうね。
まるで使いこなせていないのです。
私は親にこんな気持ちを伝えたことはありません。
伝える方法が分からなかったのです。
今、学生の身として言っておくべきなんでしょうけど…
私の親は「否定」が多く、
まあ勿論肯定もあるのですが
「好きなものを否定」してくるんです。
なので前々から私は好きなものを伝えるのが誰に対しても苦手でした。
それは感情も同じで、自分を語るのが出来ませんでした。
体調が悪いくらいは言ったことがあるのですが、精神となるともう分からなくなってしまいます。
私には姉がいるのですが、姉は伝えるのが得意です。
私の分も取っていったんですかね…
正直羨ましいとは思います。
そして私はこういうサイト等を見て思うことがあるんです。
よく「相談出来る人に〜」とありますよね。
私の場合いないのです。
出来ないのです。
相談をしたことが無く、相談を受けるのも苦手で…
相談が出来ていたのなら、こうはなってないんじゃないか…なんて、思います。
相談が出来ていないから「死にたい」「消えたい」と思うんじゃないかな、なんて。
私は人生の良さが分かりません。
分かろうと思うほどの気力もありません。
どうにか改善でも出来ると良いんでしょうけどね
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
もっと上手く生きたかった
感想2
経験談の投稿ありがとうございます。読みながら、早い段階で「他者の期待」と「自分の本音」の間に挟まれてきたことによる疲れと戸惑いというのか葛藤する心の揺れ動きが感じられました。小学校3年生という、まだきっと世界の仕組みも言葉の限界もよく分からない時期に、「明日を生きたくない」とまで思ってしまうほどの重圧を受けたということは、それだけ周囲の環境が子どもながらに過酷だったということだと私は思いました。「やらなきゃ怒られる」「明日までに終わらせないと」など、その“怒られる前提の世界”の中で生きるというのは、常に息を止めて暮らすようなものだったのではないでしょうか…。
あなたが「天才型」「努力が苦手」と語る背景には、単に“才能のせい”だけではなく、“失敗を恐れるようにならざるを得なかった環境”があったように私には映りました。本来、才能は自由に試行錯誤しながら磨かれていくものでもあると思いますが、“完璧でなければ叱られる”、“少しの躓きも許されない”といった空気の中では、努力そのものが苦しみや恐怖と直結してしまうと思います。だからおそらく“努力が苦手”なのではなく、“努力を安全にできる場がなかった”というほうがどちらかというと正確なのではないかなと思ったりもします。そして、“親に気持ちを伝えられない”という部分も、その流れの延長線上にあるように私は思えました。「好きなものを否定される」ことが積み重なると、自分の内側を見せること自体が“危険な行為”のように感じてしまうものだよな…と自分も経験して思うことです。何を言っても受け止めてもらえない経験が続けば、「言葉を飲み込む」ことが当たり前になるのも無理はないと思います。感情や好きなものを封じて生きることは、自分を守るために“沈黙を選んできた”結果でもあるように私は感じます。
日本の教育現場や家庭内の文化の中には、「我慢」「努力」「謙遜」などが美徳とされる風潮が根強く残っているなと感じますし、子どもが不満や不安を口にすると、「そんなこと言うのは甘えだ」「頑張ればできる」といったように押し返されてしまうことも多いです。その中で、“相談”という行為自体が、「迷惑をかけること」「弱さを見せること」としてあなたの中に強く刷り込まれてしまったのではないかなと想像していました。あなたが「相談できない」と感じているのは、そうした文化の中で自然と身につけてしまったある種の“生き残りの方法”なのかなと…。
「人生の良さが分からない」という言葉には、強く頷いている(共感している)自分がいます。人は誰かに安全に受け止められ、安心して自分の気持ちを出せたときに初めて、自分の人生というものに何かしらプラスの要素を見出せるところがあると思っています。でも、その「安全な場所」が与えられなかった(見つけてこられなかった)人にとっては、“生きる実感”そのものが遠いものになってしまうものなのかもしれませんね…。
ただ、こうしてうまく相談できないことや誰にも頼れないという自覚を言葉にして、誰かに届く形で自分について綴っている行為自体、それは“助けを求める練習”の一つであり、同時に“自分を取り戻す”一歩のようにも私は感じています。そもそも上手に生きるってどういう生き方なのだろうな…と私も正直分からないしあれこれ考えつつ、あなたの抱く感覚はあなたのもので、誰かに否定される筋合いはないし、まずはあなたの気持ちをそっと受け止めたいと思ったということをお伝えさせてください。また死にトリが必要に感じられた時はいつでも声を届けてほしいです。
感想1
経験談への投稿、ありがとうございます。
投稿者さんの「何でもできてしまう」というのは、「一段ずつ階段を上がるところを何段も飛ばして上がっていける」ようなものかなと感じました。一段ずつ上がる側、段飛ばしで上がっていける側双方の抱く感情の差に、お互い悩みに共感を得られずにつらい、苦しい思いが募っていくような、そんなイメージが頭に浮かびました。
まず、「すぐ怒鳴ったり、人によって態度を変える先生」という教師像が、小学三年生という精神的にも成長途中の子どもにとっては容易に恐怖になりえるものだと感じ、また、それがトラウマになる可能性も十二分にあると私は感じました。そう感じるからこそ、投稿者さんのその一年間が苛烈な環境であったことがうかがえますし、投稿者さんにとって耐えることがやっとで、休まらない一年だったのではないかと感じました。教師という立場からすると生徒の方々には守ってもらいたいもの(期限やルールなど)がある事は理解しますが、その伝え方や普段のかかわり方は平等であってほしいし、制圧的な振る舞いであってほしくはないなぁと、個人的にはそう感じます。
そして、それら一年を通しての経験は投稿者さんに「死にたい」「消えたい」と思わせるには十分すぎるほどのものだと思いますし、この経験を含め投稿者さんの気持ちを伝える場所・方法がわからないことは、受けるつらさや苦しみをただひたすらに心の内に抱え込み続けなければならない状況を作りあげているように感じ、だけれどそれはどうやって避けようにも避けられなかったものなんじゃないかと感じます。そういった点では、死にトリを見つけ、こうやって悩みを投稿してくださったことをとても有難く感じています。
否定ばかりではないにしろ、好きなこと(=自身が熱量をもっていること)を否定されるとどうしても話しづらくなるよなぁって思います。話しても否定されるし…と自分の中で諦めのような感情が湧いてくる感覚、私も身に覚えがあるなぁと感じたところです。
人生の良さに関しては私もよくわからないまま日々を消費しております。これを見つけることが人生の課題なのでしょうか。…すこしスケールが大きすぎる気もしますね…。
「自分を語ることができない」とおっしゃっていましたが、私はこの投稿から投稿者さんの小学生時代の出来事、母親との関係性、姉さんを羨ましく思っていること、相談できなかったことなど、投稿者さんのことを知ることができ、有難く思っています。
またなにか思い詰めてしまったり、はたまた愚痴を吐きたかったりしたときは書きに来てもらえたらと思います。
投稿ありがとうございました。