早く、永遠に眠りたいと思う今日この頃。やり残したことや後悔していることについて考えてみた。やり残したことは、あるかないか、わからない。というのも、やりたいこと、できること、が浮かばないから。後悔していることは、離婚により、育児を日常的にすることができなかったこと。元夫から、だめな人認定されたり、子どもにはできるだけ近づけたくない人認定されてる、ことが、悔しい。私は、そんなに、ひどいひとではないよ?子ども達から母親を奪い取るようなことをしているあなたこそ、どうなのだろうね。
まあ、いい。とにかく、いわゆる、一般的な母親、をできないことが、後悔かなぁ…
勉強も仕事もそれなりに頑張ってきたし、感情の波が激しく恐ろしくもあった亡き母との闘いも頑張った。
なにかできること?したいこと?は見つけようと思えば見つかるかもしれないが、そんなもの見つけたいとも思わないし、見つけたところで、自分が負の感情から解放され、生きることに対し前向きになったり、楽しいと感じるようになるとは思えない。
永遠に眠っていたい。
胃カメラや大腸内視鏡検査のとき、痛みを感じないように、鎮静剤?麻酔?をするのだが、あれが気持ちよくてたまらない。全然眠れそうにないけど?って思うのだが、10秒ぐらいで、スッと意識が遠のく。ああやって、逝けたらなあ。
我が子の成長や将来は見たい。また、母親が自死したという思い出を彼らに残したくはないが…
ん…もう、生きていたくはないかなぁ。
夢や希望が持てないとかではなく、
これからもまた山あり谷ありの人生が待っていると思うとしんどい。
もう、やるだけやってきた。
思い残すことはあるちゃあるが、そんなこともどうでもいい、いまさら、どうこうする気力も意志もない。
私の最期はどんな風なのかな
感想1
経験談の投稿ありがとうございます。一つひとつの言葉に、長い年月の中で積み重ねられてきた疲労や悔しさ、そして“もう十分頑張ってきた”という諦めのような感情が滲んでいるように私は感じました。あなたの文章からは「生きるのがつらい」という言葉よりもむしろ「もう戦い続けることに疲れた」「これ以上エネルギーを使いたくない」という静かな思いが表現されている気がします。ただの弱さや怠けではなく、長く困難な状況を生き抜いてきたあなたが抱く重い疲弊のように映りました。
離婚によって子どもと日常的に関われなかったこと、元夫さんから「だめな人」「近づけたくない人」というレッテルを貼られてしまったことは、あなたにとって深い悔しさや自責感の源になっているのではないかなと…。「私はそんなにひどい人じゃないよ?」という言葉には、ただの反論ではなく、「私の中にもちゃんと母親としての愛情や努力があった」という叫びのようなものを私は感じます。日本では、離婚後に子どもと一緒に暮らせない親(特に母親)の声は制度や文化の中でしばしばかき消されがちだよなと私は感じていて、単独親権制度(今はそれも法改正により変わりつつありますが)や“良い母親像”に縛られた社会の視線は、当事者を不必要に罪深いものに見せてしまうことがあって、この社会の構造的な部分で色々と考えさせられてしまいます。
文章全体を通して、“生きたい/死にたい”という二択のどちらかに揺れているというより、「もうこれ以上頑張れない」という疲れの奥に、「本当は大切にしたいし、大切に思われたい」という感覚がまだ微かに残っているようなそんな感覚にもなりました。(全然違っていたらすみません)あなたが感じている「悔しさ」や「後悔」は、ネガティブな感情だけではなく、「本当はこうでありたかった」というあなた自身の願いの裏返しでもあるのではないでしょうか。
この経験談を通してでしか、あなたの人となりを掴むことはできないし想像することしかできないですが、あなたは決して「ひどい人」ではなく、むしろ長い間いくつもの役割と期待を背負い、努力し続けてきた人なのではないかと私は伝えたくなりました。こうして文章として綴ってくれた、あなたの言葉の奥にある感情は今のあなたにとっての「声」として受け止めたいです。どうかこの先少しでも、あなたが少しでも心休まる時間が訪れることを願っています。また死にトリがあなたにとって何か役に立つようであればいつでも訪れてほしいです。