経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

何もかもあやふやで中途半端

明確な診断も、わかりやすい症状や挫折もなく、中途半端に死にたい気持ちがある30代です。
死にたい気持ちを解決することも、実行することもできず20年が過ぎました。

小さい頃からやってみたいと思うことがあっても、人前でやろうとすると顔が真っ赤になって汗が止まらず、間違えたら恥ずかしいという気持ちが勝って何にも挑戦しませんでした。

人と関わりたい、友だちを作りたいと思っても、話そうとすると汗は止まらずうまく喋れません。
そもそもに相手が何か言っているのは聞こえるのですが、内容が聞き取れないのです。
何度も聞き返すのも申し訳なく、笑って誤魔化したりその場を離れてやり過ごしました。

努力や継続ができず不器用で、いつもがんばりたいのに空回りというか、知識や技術が自分に身についているという感じがしないのです。

学校ではただただ誤魔化してやり過ごしてきました。

うまくいかなさを相談したくても両親はいつも喧嘩をしていて、お酒を飲んで暴れていたので
学校に行きたくないのも死にたいのも言えないまま小中高をなんとか卒業しました。

人の視線が気になって汗が止まらなくても、頭の中がパニックになっても、うまく人と関われなくても、学校に行かないと周りからなんと言われるか怖くてとにかく行きました。

自分ではしんどくても死にたくても、他人の目にもわかるレベルで体調を崩すことはなく、ただ甘えているんだと自分を責めることになりました。

社会人になると今までの誤魔化しがきかず、ミスを連発し休職をしたり、心療内科に通うようになり今に至ります。

ミスや忘れ物が多すぎるので発達障害を疑って検査を受けましたが、傾向はあるけどはっきりと診断はつかず。
解決策が見つからないまま、自分なりに工夫しましたがミスは減らずもう嫌になってしまいました。

死にたい気持ちは日に日に増していきますが、寝つきが悪いなりにも眠れはするし、仕事も行くことができています。

大変な人からすれば大したことないはずなのにずっと苦しい。
好きなものも夢中になれるものも見つからず、生きるためのふんばりが効かないのです。

自分のこれまでした失敗や嫌な思い出ばかりが頭の中で延々とリピート再生されたり、本や映画を観ていてもふとした時に自分の過去のことを思い出し集中できない。

何か一つでも、負のサイクルの一部分を改善できればと思うのですが、なかなかうまくいかず失望する日々です。
もう何が嫌だとかどうすればを考える元気もなくただただ死にたいと考えながらボーッとしてしまいます。

なにもかもどっちつかずの中途半端。
この中途半端が一生続くのかと思うと途方もなく疲れてやるべきことができなくなります。

今の職場は派遣なのですが、来月から直雇用のお話を頂いてありがたいはずなのに、ちゃんとしなくてはいけないのにあれこれ考える余裕がありません。

いつ限界が来るかわからず、休みの日は何もできないまま過ぎていきます。

感想1

経験談を読ませていただきました。読んでいて投稿者さんの長年にわたって積み重なった
死にたい気持ちがとても伝わってきました。20年と仰っていましたが、20年間そのような気持ちを抱えて生きてきたのは文章にもあるとおり、とても苦しいことだと思います。
まず、ご自身で自分のことを「甘えている」と仰っていましたが、周囲やそして自分でも気が付かない言語化できない辛さって私はあると思っています。
また、社会人になって誤魔化しがきかなくなったと、ありましたが、確かに社会人は学生時代より、正解のないいろんなものを求められるから、より生きるのって大変だよなと私は思いました。(私はいわゆる社会が求める社会人になれなくて、仕事に馴染めず、心を壊し、働けなかった期間があります。)文章からはどこかギリギリの状態がずっと続いている投稿者さんの様子が思わず浮かびました。「大変な人からすれば大したことないはずなのにずっと苦しい」と書いてありましたが、大変って人と比べて、判断するのではなく、自分が大変だと思ったらそれを素直に受け止めていいんだよ、と読んでいて投稿者さんに勝手ながら伝えたくなる自分がいました。(でも人と自分を比べてしまうことも私にはあります。)
そして家庭環境のことを書かれていましたが、そのような家庭環境におり、そして両親に相談が出来ない環境にいたことは、より投稿者さんを追い詰めたのではないかと想像しました。本来、心のよりどころの存在であってほしい家という場所が、心安らげる場所ではなかったのは、投稿者さんの心を作りあげていく上でなにかしらの影響を及ぼしていると私は感じました。
一つ私の中で引っかかったのが文章の中で「そもそも相手が何か言っているのは聞こえるのですが、内容が聞き取れないのです」という部分です。
私もそのような苦手さがあると聞いたことがあります。もしかしたら専門家に相談してみると何か分かるかもしれないと思います。(でもそもそも自分の悩みを誰かに打ち明けるのにすごくすごく勇気がいるのも分かる私もいます。)
読んでいて、今の投稿者さんは、先の見えない真っ暗なトンネルの中をずっと歩き続けて疲れ切っている、そんな感じのように思えました。そんな先が見えない毎日が続くと、途方にくれ、エネルギーも奪われてしまうよなと、共感している私がいます。また投稿者さんの声をきいてみたいと思っています。投稿ありがとうございました。

感想2

これまでの人生で感じてきたもやもやとした違和感、居心地の悪さ、安心感の薄さや足元がおぼつかない不安感のようなもの…いろんなしんどさが散りばめられた文章だと感じました。1つ1つのつまづき感がその場で解消されず、あなたなりの対処をするしかない中で、それらが次第に「死にたい」という言葉に紐づき、年月をかけて揺るがない気持ちへと形作られていったようなイメージを思い浮かべています。大人になった今だから言葉にできるものが多いのではと思うと、幼い頃のあなたはただただ目の前のストレスに耐えるしかなかったのだろうなと想像しています。その間に弱められてしまった、本来持つことができていたはずの力がたくさんあるように感じました。身近な大人があなたの様子に気がつき、「甘え」や「自己責任」ではなく「困り感」や「不安感」として子どものあなたのしんどさを受け止めることが出来ていたら…と悔しい気持ちにもなりました。

あなたの中には(私自身もですが)、自分の苦しみを苦しみだと名づけることへの抵抗があるのかなと推測しています。幼い頃に周りにしんどさをキャッチしてもらえなかったことで、周りに気づいて納得してもらえるようなわかりやすいフック(診断や症状など)が未だに無いことへのコンプレックスのようなもの、そして「わかってもらえないけどしんどい」状態に折り合いをつけるための自己否定感が積み重なってきたのでしょうか。今もずっと自分の苦しみを解明しようともがき、でもしんどい、何もわからない(あやふや)で…というループに囚われて疲れ切っているあなたの姿を想像していました。

「周りから気づかれないしんどさ」という点には個人的にとても共感しました。冒頭の一文はまさしく私自身の10~20代の価値観の中心にあることで、診断も不調も危機的状況もないのに死にたいという状態に対して、「自分を責める」しか折り合いの付けようがない感覚を今もずっと抱いています。~があるから大変、~がないからしんどい、とわかりやすく説明できるものが無いと、自分を納得させることも、社会から許してもらうことも難しいような気がしてしまいます。本当はただ「しんどい」「疲れた」「生きていたくない」は言葉通りそれだけなのに…あれこれ理由をつけざるを得ないのは、今の社会のプレッシャーや説明文化がそうさせるのか、自分が本当にそれを望んでいるのか、もう分からなくなってしまっているなと感じています。あなたが感じている徒労に似たものを(勝手にですが)自分の中にも見つけたような気持ちになりました。

社会には「自分のしんどさを自分で取り扱い、適切に対処をし、動きを止めないこと」が良しとされている風潮があると思うのですが、そこには自分以外の他者の存在(他者との比較や進まなければという圧力など)が必ず付きまとい、知らず知らずのうちに「自分」を捉えることが難しくなっているように思います。そんな中で何かに対処したり、休んだりすることはすごく難しいと感じます。明瞭で、自分ではない誰かにとってわかりやすい「しんどさ」を表現するコミュニケーションも1つの在り方なのかもしれませんが、あやふやで曖昧で、でも確かにそこにある「しんどさ」を(解釈違いも多々あるかとは思いますが…)こういった形で言葉としてじっくりと交わすことを、私は大切にしたいと感じました。
投稿いただき、ありがとうございました。

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