僕は小さいときから親に殴られたり、風呂に沈められたりしてました。
幼稚園生の頃はそこまでトラウマになっておらず、むしろ人生が幸せだったのを今でも覚えています。
そのまま卒園して、小学生になって大親友ができました。 親に殴られる頻度は減っていて、なおかつ、
大親友と毎週ゲームで遊んだりしていたので、その時も本当に幸せでした。
しかし、僕が小学3年生の時、大親友は引っ越してしまいました。
僕は大親友に匹敵するような仲の良さの友達がいませんでした。
心にぽっかり穴が開いたような気分でした。 しかし、大親友は消えても親からの暴力は消えませんでした。
それで、気を病み、友達にネガティブなことばかり言ってしまったりしてしまい、ウザがられるようになりました。
そして小学5年生の時スクールカーストの1軍ばかりしかいないクラスになってしまったのですが、なんとか仲良くしようとし、サッカーをやっていたのですが、民度が低すぎてそれを指摘したりしすぎてしまって、その人たちから避けられるようになってしまいました。 その時に初めて人に拒絶されることを知りました。 それから、人に嫌われるのが怖くなりました。 その時はすでに死にたくなっていて、何も楽しいと感じませんでした。
しかし、小学校6年生ではかつて仲の良かった友達グループの2人がいたので何とか、楽しくやっていけました。 僕らのグループは2軍だったので、修学旅行の部屋班(ホテルで一緒に行動するメンバ-)も一緒になって幸せでした。 しかし、行動班では元カノ(1カ月前に別れたばかり)がいたので修学旅行で行くところなどを決める時によく大げんかをしていました。 今もよく嫌味を言われたり僕だけ不自然な態度を取られます。
それから小学校を卒業して、今年、中学校に入りました。 そのころにはすっかり親の暴力はなくなっていました。 僕の中学は、自分たちの小学校を含めて2つの小学校の卒業生が入学する学校でした。新しいクラスで、人気になるために、学級委員長になったり、お馬鹿キャラとして生きてきました。 そして、僕は吹奏楽部に入りました。 でも、クラスのほとんどの男子はサッカー部に入りました。 それから、サッカー部がスクールカーストの1軍になってしまって。 僕は必死になりすぎてしまい、体育祭がって1カ月する頃には、拒絶されるようになってしましました。 僕には仲間がいません。 休み時間もグループの人は他の人と話すようになりました。 好きな子がいるんですが、僕を呼ぶときに最近は名前すら呼んでくれないので、もうほぼあきらめています。 しかし、僕と結構似ている男の子がいるのですが、その子は僕よりもめっちゃイケメン運動系男子って感じで行動も似てるんですよ。 同じ行動をしても、僕は気持ち悪がられます。 で、イケメン運動系男子は凄くウケたりモテます。 しかし、少し口が悪かったりします。 僕の同級生は結構顔を重視している人が多いのでブサイクな僕は結構引かれたり拒絶されます。イケメンな人はキャーキャー言われて、モテます。 それを見て僕は苦しくなりました。 夏休みに入ってからではメッセージアプリで僕は質問にちゃんと答えますが、僕が質問した時は相手は既読無視をします。 個人でもグループでも同じです。
いいように使用されてるだけなんですよね….結局。
みんな友達と青春をしているのに僕は誰かを誘っても既読無視。 誘われる頻度も3週間に1回。 しまいには、女子にメールでうるさいと言われ。 なぜ、僕はこんなに嫌われてしまっているのだろうと感じます。
自慢ではないですが、僕の親(両方)は結構イケメンで学生の頃はめっちゃモテていたそうです。
妹はなんか、顔とかはちゃんとかわいいんです。
最近では僕は性格や自分の努力も無意識に否定してしまうようになりました。
母親は学力の偏差値が62だったのに なぜ僕は勉強ができない? なぜ努力しても成績が上がらない?
僕は本当に親が生んだのかってくらい、似ていないし、親から生まれるはずのないくらい親とは違うんです。似てると言ったら… 背が高いのと、ネガティブ思考ってところぐらいですね。
他の人と比べたら、自分はブサイクで、勉強もできず、友達もできず、拒絶され… 最近ではたまにご飯を食べられないほどつらくなる日もあります。 あぁ、死にたいなぁって思うと、食べても意味がないと感じます。
僕は自分を背が高いだけが取り柄のただの動く負のエネルギーと肉の塊といか思えなくなってきています。
僕は褒められたり慰められたりすると、すぐ他人と比べて、「いや、Aくんはこうやってできた」「いや、Dさんは、自分からできた。」 など、少しでも他人の方がよかったところを見て反論してしまいます。
僕は安楽死の方法を学校のパソコンで調べてます。
辛いのを「つらい」って言えないのがとてもつらいです。 僕は人生のどん底に叩き落されている気分です。
僕に残されているのはプレッシャーと逃げられない苦しみ。
将来みんなはきっといい会社に勤めたり、大富豪になって高級車を乗り回すんだろうな。
そのころ僕は部屋の中で引きこもってるんですよ。
もう、僕の未来に希望がないように思える。
すでにみんな充実している。 僕はなじめない。
親も食べ物が腐ったら捨てるように腐敗した僕をすぐに養子や施設に出せばいいのにって思います。
その方がもっと後悔なく死ねるのに。
僕は死ぬ勇気も生きる気力もない、人ではないような肉の塊にしか思えません。
もう何をすぐ気力もない、生きていて申し訳ない、僕は自分がただお金だけを吸い取ってる寄生虫にしか思えない。
僕の命を重さ重さで例えると、みんな100gだったら僕は-100g
休みが明けるのが怖い。 またみんなとなじめないって実感がわくんだ。
他人と比べたらちっぽけな話なんですけどね。
感想1
タイトルから文末の言葉まで一貫して、自分と他者のつらさや立ち位置、能力などを比較することが癖づいている様子が伝わってきました。その「癖」はあなたがひとりでに発動したものではもちろん無く、あなたが過ごしてきた環境による影響がすごく大きいと感じました。
特に私が強い影響力だと感じたのは、学校という空間、ひいては社会そのものの狭さ・極端さでした。学校は勉強や部活動、行事などいろんな場面で自主的な行動であったり、より高い成績や能力値を求められる(表向きに強要されずとも構造として)場だと思います。1つの空間で、一元的な指標で人が評価されるということは、どうあがいても「人より高いか低いか」や「人と同じか違うか」という比較が起きてしまいます。それがいわゆるスクールカーストを生むのだと私は考えていて、同時にそこで「選ばれない自分」を感じるともう生きていくことすら難しいように感じてしまう気がします(自分の学生時代を振り返ってもそう思っています)。あなた自身が「辛い」と口にすることの難しさや、褒められたときに反論せずにいられないこと、自分を人として認められないような気持ちになっていることについて、どれもあなたが今の状況を捉える術であるように思うからこそ、「そんなことないよ」と言ってしまうのはなんだか軽率なように思えて、ためらう私がいます。
一方でそれでも伝えたくなってしまうのは、社会には本当にいろんな生き方をしている人が居て、カーストやスペックを出来る限りスルーして生きられる世界も確かに存在しているということです。SNSの発達なども相まって、生き方の多様さは前より目に入りやすくなったような気がする反面、「生き方レール」みたいなものがあるようにも見えやすくなっていると私は感じます。でもいざやってみると、やり方も道も全然定まっていないし、ころころ変わるなあと思います。カーストやスペックで人を比べて下げたり上げたりしている人を絶対的な悪とは思いませんが、その人たちもまた、今いる狭い空間の価値観に取り込まれてしまっているのだなと私は思っています。今回は経験談という形で声を届けてもらいましたが、こういった「言葉」を使って、0か100か、意味が有るか無いかなどと二分できない「あなた」や「わたし」の思いが1つずつ立ち現れていくことが、今の社会の息苦しさに風穴を開けるんじゃないかなと、ひそかに思っています。