経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
残されたブレーキで走っていく
診断され精神科病棟に入院していた頃はまだ生きてやんよと意気込んでいた。運動したり、ノートに自己分析を書いたり、相談したり。自分の強みで精神病と戦う血の気の多い休学中の生徒だった。様々な要因でで自殺を思い浮かべていたが、まだ自分で強力なブレーキをかけることが出来ていた。
初めてアームカットとODをしたのは登校中に過呼吸で救急車のお世話になった頃だった気がする。自殺目的で自傷行為をしてしまったことでブレーキをひとつ失くした。学業を続けられない自分に酷く嫌気が差していた。
だいぶ間が空いて、次に私を病院に運んでくれたのは家族だった。私は死ぬために絶食し続けて気を失い頭から倒れた。病院で目を覚ますと正気に戻った。「まるで別人の様だった」と母は言っていた。あれほど本気で死ぬつもりでいた自分、というよりも精神病に取り憑かれていたような状態に私は恐れた。衝動のままうごいていたそれは自分ではどうしようのないものだった。
家族の干渉がほとんどない家庭だから止められなさそうだしいけると思ったけど、生命のチカラも侮れない。というか、気が付けば自分のからだぐらいしかブレーキが残っていなかった。一方で頭の中では、好きなものも、没頭できる趣味もブレーキの役目をなせなくなっていて、いつ死んでもよくなっていた。よくないけど。死にたい思いも、生きたい思いも、どちらも心の底で本気で思っている。
久しぶりの過呼吸は自分の現状がしんどくて悲しくなった時だった。できないことばかりが増えていってもあの頃の自分には戻れない、自分だけでは何も出来なくなったヤツの生きがいって何?つらくて苦しいのを現実逃避で誤魔化す人生なのに「生きて欲しい」?逃げる先を奪われた気分で生き地獄を耐えろと?そんな言葉が頭の中を飛び交うので悲しくなるのも仕方がない。
最近は家族がストレスになって、部屋に引き籠もるようになった。引き籠もるとさらにブレーキになる存在に関わることが減った。
こんなにブレーキが効かなくなってきた車じゃいつ事故が起きても不思議じゃないのに、それでも無事故無違反で運転せねばならないのが正しい在り方だから、とてもつらいんすよね。
感想1
「残されたブレーキで走っていく」というタイトルが、すごく印象的でした。
全体を通して軽妙な語り口だと感じ、いや、軽いというよりも、動的ということだろうか…と考えています。読みやすい文章の中に、あなた自身の苦痛や衝動を俯瞰するようなまなざしがあるような気がしています。なんだか不思議な読み応えでした。
私も自分自身をとても扱いづらくて厄介な車だと感じることがあります。あなたはもともと、強くアクセルを踏んだ状態を、同時に強いブレーキで制御することでなんとか車の動きをコントロールするような感じのところがあったのかなぁと思いました。
「逃げる先を奪われた気分で」という表現から、死ぬことは、あなたにとっては、唯一最大の逃げ場所として存在するものなのだろうか……とも考えています。
私は自分について、逃げてばかりの人生だなと思うことがあります。自分の「死にたい」という気持ちも、このすべての苦痛から逃げたいという要素が多いと思っています。
あなたは、ともすれば、もしブレーキがなければ、全力疾走、アクセルベタ踏みのようなエネルギーが放出され続けているような状態なのだろうか…と想像しました。それにさらにブレーキに力を使っていたら、とても消耗してしまいそうです。それだけの思考や感情などのエネルギーがあなたの中に渦巻いているのに「できない」ことが増えていく感覚の中では、八方塞がりのように感じるかもしれないし、窮屈で仕方なくもなるように感じました。
アクセルをゆるめる方法がそもそもわからない……ということもあるのかもしれません。それはずっと戦い続けてきたということでもあるように思いました。戦いは本来非常事態であって、野生の動物でも、人間でも、どんな生き物も戦い続けることはできないと思います。あなたの幼少期のことはわかりませんが、幼い頃から、安全ではない状況の中で生き延びてきたのだとしたら、たとえ物理的に安全な瞬間があったとしても、安全という感覚の中ですごすことはとてもむずかしくなってしまうかもしれないと思います。その中で、それでも周囲の動きに合わせて無事故無違反で暮らすのは、とても強い制御エネルギーが必要になってしまうのも無理はないと感じました。(いろいろと推測で書いてしまいましたが、ずれていたらすみません。)
あなたの表現や思考のかけらを教えてくれてありがとうございました。それらはあなたがあなたを知るために、あなたをとらえるために必要とされ、みがかれてきたものなのかもしれないと思いました。死にトリはさまざまな人の、さまざまな実感にもとづくたくさんの言葉によって成り立つサイトだと思っています。もしよかったら、またあなたの言葉を聞かせてください。
感想1
「残されたブレーキで走っていく」というタイトルが、すごく印象的でした。
全体を通して軽妙な語り口だと感じ、いや、軽いというよりも、動的ということだろうか…と考えています。読みやすい文章の中に、あなた自身の苦痛や衝動を俯瞰するようなまなざしがあるような気がしています。なんだか不思議な読み応えでした。
私も自分自身をとても扱いづらくて厄介な車だと感じることがあります。あなたはもともと、強くアクセルを踏んだ状態を、同時に強いブレーキで制御することでなんとか車の動きをコントロールするような感じのところがあったのかなぁと思いました。
「逃げる先を奪われた気分で」という表現から、死ぬことは、あなたにとっては、唯一最大の逃げ場所として存在するものなのだろうか……とも考えています。
私は自分について、逃げてばかりの人生だなと思うことがあります。自分の「死にたい」という気持ちも、このすべての苦痛から逃げたいという要素が多いと思っています。
あなたは、ともすれば、もしブレーキがなければ、全力疾走、アクセルベタ踏みのようなエネルギーが放出され続けているような状態なのだろうか…と想像しました。それにさらにブレーキに力を使っていたら、とても消耗してしまいそうです。それだけの思考や感情などのエネルギーがあなたの中に渦巻いているのに「できない」ことが増えていく感覚の中では、八方塞がりのように感じるかもしれないし、窮屈で仕方なくもなるように感じました。
アクセルをゆるめる方法がそもそもわからない……ということもあるのかもしれません。それはずっと戦い続けてきたということでもあるように思いました。戦いは本来非常事態であって、野生の動物でも、人間でも、どんな生き物も戦い続けることはできないと思います。あなたの幼少期のことはわかりませんが、幼い頃から、安全ではない状況の中で生き延びてきたのだとしたら、たとえ物理的に安全な瞬間があったとしても、安全という感覚の中ですごすことはとてもむずかしくなってしまうかもしれないと思います。その中で、それでも周囲の動きに合わせて無事故無違反で暮らすのは、とても強い制御エネルギーが必要になってしまうのも無理はないと感じました。(いろいろと推測で書いてしまいましたが、ずれていたらすみません。)
あなたの表現や思考のかけらを教えてくれてありがとうございました。それらはあなたがあなたを知るために、あなたをとらえるために必要とされ、みがかれてきたものなのかもしれないと思いました。死にトリはさまざまな人の、さまざまな実感にもとづくたくさんの言葉によって成り立つサイトだと思っています。もしよかったら、またあなたの言葉を聞かせてください。