経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

壊れゆく自分

自分は「巣から落ちた雀の雛」みたいだと思う。ちょうど鳥たちも子育ての時期。もうすぐ巣立ちというところで、巣からうまく飛び立つことができずに落ちてしまった。通勤途中にみた小学校の景色。小学1年生も頑張って登校しているから、自分も「社会人1年生」を頑張ってやろうと思ってなんとかやっていた。
 オフィスは「無駄がない場所」だった。帰宅時には机の上に何も置いてちゃだめで、ロッカーにあるノートパソコンを持ってくる感じ。だから、自分の席に自分の私物はない。まるで自分がいた形跡がない。交換可能で、誰でもいいと言われているような気分だった。明日からそこに別の人がいつでも座れる状態のデスク。席に座って左をみると、少し遠くに自分が出た大学が見える。自分が勉強したのは?自分が心を奪われたものは?自分の4年間は、、、ここに座って仕事をするため?常に窓の外から問いかけられている、見張られている。笑顔でいたい自分と笑顔でいられない自分が、ギシギシと音を立てる。笑顔でいようとすると心に嘘をつくことになる。笑顔をやめると過去の自分に嘘をつくことになる。数字と作業内容を詰め込んだ脳が焼き切れるような感覚がする。
 マニュアルの日本語をわかりやすくしろと上司に言われる。言葉に対して誠実だった自分はもういない、上司に従ったほうがはやいからそうする。無駄も余白もないマニュアルをつくる。余計なひとことを足すと上司の顔が曇る。「あそび」がない。本音を話せる人もいない。理想もない。大義もない。上司との面談も心を拾えない、拾われない。ただ数字を追う、入力する、上司に、パソコン作業きついよねと言われる。クッション持ってきてもいいよと言われる。社会に出たら学歴なんか関係ないよと言われる。じゃあなぜ現場志望の私が、現場ではなく本社の仕事に?と思う。人柄を見ているというのが建前か、学歴を見ているというのが建前か。建前しかないのではないか、この人たちに本音なんかない。
 焼ける。裂ける。砕ける。それでもまだ、そのままのあなたでいてという声が聞こえる。朝、目が覚める。覚めなかったらいいと思うが覚める。動かない身体を動かす。自分の身体が動かないことなんかありえないのだから。シャワーを浴びる。スーツを着る。出かける。出かけてしまったと思う。画面上の数値が流れる。忙しそうな上司の横でただ数値が流れてくる。電話がくる。他部署の電話だった。怖くなってくる。次はもううまく受け答えできないかもしれない。電話応対のやり方のメモが増える。マニュアルを印刷する。ペーパーレスを推奨してるんだよねと言われる。昼ご飯の時間がくる。転職サイトを見る。帰りたいと思う。また戻って数字が流れていくのを見る。間違えてるところを指摘される。さっきも言ったと思うんですけど、と言われる。奥歯に力が入る。週報を書けと言われる。何も感じないのに感じたことを書いてと言われる。面談で困ったことはないかときかれる。困ったこと自体はないなと思う。帰る。1人。話す人もいない。部屋が散らかっている。風呂に入る。飯を作る。寝る。朝が来る。目が覚める。目が覚めなかったらいいのにと思うが目が覚める。動かない身体を動かす。動かない。動かない身体を動かす。動かない。動かないはずはないから動かそうとする。動いた。シャワーを浴びた。下を向くと何か息が苦しくなるから下は向かない。正面だけ見る。電車に乗る。ぐらぐらする。度が強いめがねをかけているみたい。また数値が流れる。上司が何かいう。何も読めない。計算が合わない。数字もただの記号、線。頭が眉間に向かって締め付けられる。上司にかこまれている。トイレにいく。また戻ってすわる。トイレにいく。また戻ってすわる。もう帰りたい。あと3時間、あと1時間、あと30分、あと15、、帰る。明日、仕事に行けないと思う。病院に行く。病気じゃないと言われ帰される。そんなはずはない、そんなはずない、、、これが社会。これが社会人。だとしたら社会人=死。慣れたら自分はもうどこにもいなくなる。
 年間休日120日、9時から17時半、実働7.5時間。パワハラもない。ホワイト企業に今日も出社する。朝、目が覚める。覚めなかったらいいのにと思う。動かない身体を動かす。動かない。動かない身体を動かす。動かない。動かない。動けない。まずいと思う。全力でアクセルペダルを踏み込む。誰かが全力でブレーキを踏んでいる。焼ける。焼ける。動いた。シャワーを浴びる。スーツを着る。例のぐらぐらとする頭痛が起こる。笑顔。笑顔。そのままの自分でいなければ。隣にいる上司にバレないようにしなければ。数字が読めない。計算が合わない。やっとできた。苦戦してるね、と上司がいう。胸の辺りが痛む。呼吸が浅くなる。上司にバレたくないからトイレで深呼吸する。あと5時間。長い。あと4時間。3.5時間。3時間。帰りたい。もう休みたい。数値が流れる。わからない。バラバラに見える。上司が何かいう。はい、そうですねと返事をする。計算が合わない。帰りたい、帰りたい。胸をマッサージする。やっと帰れる。すぐ病院にいく。適応障害だから休まないとうつになると言われる。やっと。やっとだ。診断書が入った封筒をお守りのように両手で持って、人波を泳ぐ。駅のホーム、どこ?どこ?はやく帰りたい。はやく帰って寝たいのに。わからない。どこ。こんなところまできてしまった。だけどいい、帰れるから。電車にのる。目を瞑るーー。目を開けたら知らない駅。逆方向の電車に乗ってしまったようだ。力が抜ける。乗り換えて帰る。もう帰りたい。もう休みたい。もう…
「そのままのあなたでいて」
バイト先の仲間からかけられてきた言葉。それってどんなに難しいことだろう。
 精神科の先生は薬をくれなかった。親は自分に復職を勧めた。僕の体調はみるみる悪くなっていった。うつ病だって言われたとき、どこかで、やっとか。と思った。社会人になって、たった1ヶ月で起こった出来事だった。休職して数ヶ月、ADHDと診断された。普通になりたかった。普通になれなかった。発想を、生き方を、根本的に変える必要があると思った。

感想1

仕事に対する根本的なしんどさが細やかに分解され、一言一言が進むたびにあなたが「壊れゆく」さまがリアルに表現されている文章だと感じました。感情や感覚を言語化している表現がどれも身体的で個別的、体感を伴って伝わってくる読後感で、描写の精度を感じたところです。特に「心が拾われない」という言葉が印象的で、定型的な仕事をただただこなすことや、言外の意図や思惑に消耗し何も補給されないことのストレスを想像しました。平気な人もいるのだと思いますが、圧倒的ダメージになる人もいると思います(私は後者です)。社会人としての生活や様式に適応すべく身体を動かし続けていく反面、心は動く度に傷つきどんどん強張っていく…そんな1か月だったのではないでしょうか。

「困ったこと自体はないな」という言葉、文末に続く診断まで読んでいく中で(自分の経験も踏まえながらではありますが)「困っている」という感覚はある種の「自我」の上に成り立つものなのかもしれない、と感じました。私自身、新卒の会社に1.5か月出社、3か月休職してから発達傾向の診断を受けるまで、職場でのいろんな上手くいかなさを「困っている」と解釈したことはなく「自分が変化(変形)すべき」だと捉えていました。それを繰り返していけば自然に「自分がなくなっていく」ことになったので、あなたが書いていたことと通ずるような気がしていました。「そのままの自分」でいたいと思いますし、人に対しては「そのままのあなたでいて」と思うことがありますが、「そのまま」で居ることは生身すぎてどうやっても傷ついてしまうから、人は「そのまま」では居られないのかもしれないと感じました。
「普通らしきもの」を基準にしないといろいろなことを捉えるのが難しい社会で、そもそも「そのまま」ってどういう状態なのか、ということを一番考え、一緒に話してみたくなりました。投稿ありがとうございました。

感想2

あなたの精神の動きを追いかけるように、カメラも一緒に走ってゆくように、描かれた臨場感のある経験談だと思いました。独特な表現が随所に散りばめられていて、それらはあなた自身の実感に沿ってあなたが拾いあげた言葉であるように感じました。

私も20代前半に働いていた会社が、オフィス移転に伴ってフリーアドレス制に移行して、ロッカーから物を出して、帰りにはすべて片づけるスタイルでした。フリーアドレスという言葉通り席も決まっていなかったので、私がいなくてもしばらく気づかれないというところがあり、居場所ではないのと同時にどこか気楽さもありました。でもあなたの場合は、毎日自分の痕跡をなくしていく寄る辺なさをつよく感じているのかなと想像しています。
「無駄がない場所」「「あそび」がない」という言葉は、いまの世の中が向かう方向性として、私も感じているところです。ただ無駄だけあればいいということでもないし、過去に戻ればいいとも思わないですが、余白が失われていく中で、軋んでいるものもたくさんあるように感じています。その中で、無理をし続けても無理になっていく感じはすごくわかるし、それって自然な反応なんじゃないのかなとすら思っています。

「発想を、生き方を、根本的に変える必要があると思った。」という最後の一文にもとても共感すると同時に、あなたの中でどれほどの葛藤があっただろうかと思いました。私自身もADHDだと診断されて10年くらいになりますが、周囲の人と同じ動きをすることを前提にするのではなく、自分にとってやりやすい生活や、仕事、毎日の過ごし方を見つけていくまでにも時間がかかりましたし、そもそも自分ベースで考える発想の転換までにも何年もかかったなぁと思います。

「そのままのあなたでいて」というリフレインがあなたの脳裏を何度もよぎってきたのですね。それはあなた自身を肯定するものでもあると感じる言葉ですが、会社という制約の中では、不可能なほど遠いなにかとしてのしかかる部分もあったのかもしれません。会社を休んでからも、簡単に疲労やしんどさがなくなるわけではないと思いますが、すこしはあなた自身でいられる瞬間が増えたりはしたのかなと気になりました。

言葉遊びでしかないかもしれませんが、私は社会を生きるすべての人は社会の一員なのだから、赤ちゃんも小学生も定年退職しても、働いてなくても、障害があっても、学生でも、だれでも、社会人って言われるべきじゃないかと思っています。
労働で対価を得る=社会人というのは、あまりにも、資本主義的すぎるというか……。そんなに社会は狭くるしいものではないはずだと、私が、ただ信じていたいということなのかもしれません。

私はかなりいろんな仕事を試してみて、そもそもフルタイムで一つの場所で働くのに向いていないことに気づいてきました。ADHDという枠組みでは同じだとしても、私とあなたでは、きっとやりやすい方法や取り組みやすい事柄がすべて同じということもないと思います。あなたにとって、あなたらしくあれる生活が見つかっていくことを願っています。

いまのあなたはどんなふうに一日をすごしているのでしょうか。私は今日は好きな音楽を聴いていたら、なぜだか鳥肌がたって、涙が出てきました。それからチーズを食べました。そして、この経験談を読ませてもらって、感想を書いています。
あなたのことを教えてくれてありがとうございます。この経験談には、もちろんすべてではない、断片的なものであるにしても、あなたの存在があると感じました。

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