経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

死にたいという煩わしさ

いつからだろう?生きるという事に対して、意欲的になれない。ずっと頭がふわふわして、物事をはっきりと捉えられない。毎日淡く、時に濃く『死にたい』という感情が私を襲う。それでも元気なふりをして外へ出る。私を見た知人や会社上司は私が鬱だと気付けないらしい。
人は見た目だけでその人の内側に持つ感情、思想など分かりはしないのだ。死にたいなんて言葉は口に出しても無かった事にされる。親ですら自分を理解してくれない。一生死にたい気持ちと付き合っていくしかないみたいで絶望している。死にたい人が死ねて、生きたい人が生きられますように。心からそう思う。今日もまた瞼を閉じ、一日が終わる。何の変哲の無い、代り映えのない、ただ希死念慮が浮かび悶えている。こんな人生がとても退屈で惨めだ。早く死にたい。
同じ気持ちを持つ人に出会いたい。傷の舐め合いがしたい。もう頑張らなくていいよね、と慰め合いたい。
こんな思いが叶う日が来るのかそれだけが唯一の願い。

感想1

まったく同じ気持ちかわかりませんが、似たような気持ちでいる人は本当にたくさんいることは経験談を毎日読みながら、痛感しています。
そして、「死にたい気持ち」は周囲に伝えることができず、伝えたとしても、否定されたり、腫れもの扱いをされたりと、まともに受け止められることは少ないのだろうと思います。でも、確かに「死にたい」はたくさんの人たちの中にいろいろな形で住みついているように思います。
あなたが心から望む「死にたい人が死ねて、生きたい人が生きられる」ということについて、もう少し考えてみたいと感じました。私は今の社会だからこそ、死にたいという気持ちを抱く人がたくさんいると思っています。だから、死にたい人がもう少し楽に生きられるようになるためにはどうしたらいいか考えたいです。積極的に「生きたい」と思えなくても、何となく生きているけど、それでもいいかと思えるぐらいでいいかもしれないと思いました。

感想2

経験談の投稿ありがとうございます。「死にたい」という思いが日常に染み込んでしまい、常に付きまとっているような感覚なのではないかと想像しています。ふわふわと現実感を失う感覚や、心が重く沈んでいるにもかかわらず、外では元気に振る舞わなければならないという二重の苦しさは、すごくエネルギーを消耗するものだと思います。外側の姿と内側の苦悩があまりにかけ離れていると、誰にも気づかれない孤独感も抱いてしまいそうだなと…。特に、「死にたいなんて言葉は口に出しても無かった事にされる」という一文には、身近な人にすら届かない思いのやり場のなさが込められているように感じました。家族や親しい人であっても、死にたい気持ちを真正面から受け止めることは人によるかもですが簡単なことではないと思いますし、社会の中でも「見なかったこと」にされてしまう傾向があるなと思います。その結果、言葉を飲み込むしかなくなるものだよなと私も長いこと死にたさを抱えながら生きてきて感じることです。
「死にたい人が死ねて、生きたい人が生きられますように」という願いも、深い心の疲弊から出てきた素直な感覚なのだと私は思いました。生を望んでも叶わない人々と、自分のように生に意味を見出せない人との落差に気づくと、やるせなさや矛盾を強く感じざるを得ないのかもしれません。
また、「同じ気持ちを持つ人に出会いたい」「傷の舐め合いがしたい」という思いには、生きることに対して“ただ耐える”のではなく、“分かち合える関係”が必要なのだということが切実さが感じました。社会の中で孤独や絶望を抱えた人が安心して言葉を交わせる場が十分に用意されていない現実を改めて痛感しています。恐らくあなたの「死にたい」にはここには書ききれなかった出来事や社会や周囲の人たちのまなざしから感じ取ってきたことも多く含まれているのではないかなと感じました。死にトリはあなたの「死にたい」を否定しないし、そう思わされるこの社会の在り方について一緒に考え続けられたらと思うので、また良ければ声を届けてほしいです。

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