私は憧れの高校に入学してから1年間、優しいクラスメイトや先輩に囲まれ、楽しい学校生活を送っていた。部活は2年生の先輩2人と私の3人。毎日雑談しながら活動できて、中学よりもずっと楽しかった。
2年生になると、同学年の部員が1人入ってきた。以前クラスが一緒だったけど、あまり話したことのない、どこか無口で警戒してしまうような子。でも入ってくれたからには、一緒に部活を頑張りたいと思い歓迎した。
先輩が引退すると、私が自然な流れで部長になった。ちょうどその頃、委員会でも委員長を任されることになった。2年目の委員が私しかいなかったため、半ば強制的に委員長になった。不安でしたが、やるしかなかった。
秋の大会が近づくと、部長と委員長の仕事が重なり、毎日が本当に大変だった。部活では、舞台に関わる脚本や音響、ポスター、道具づくり等、多くの作業があったが、部員は私ともう一人だけ。しかもその子は生徒会の仕事でいつも疲れていて、頼んでもなかなか手伝ってもらえなかった。いつもほかの部活の子に慰められていた。結果、私は全ての作業を一人で抱え込むことになった。毎日昼休みに一人で舞台の位置を測り、朝まで作業して徹夜で本番に臨んだ。
やっと大会が終わったと思ったら、今度は修学旅行の準備。じゃんけんで負けて班長になった。不安もあったけれど、班員は真面目な子が多くて安心していた。しかし、実際は違った。ほとんどの仕事を私が引き受けることになり、他の子たちは班長にならなかったことに安堵して仕事を押し付けてくるようになった。
特に困ったのは、仲の良い班員Aの存在。極度の方向音痴でマイペースで、どこに行くにも誰かが常に付き添う必要があった。学年全体の計画が崩れてしまうのが怖くて、私は駅の何番線に何時の電車に乗るかまで細かくまとめた資料を作って配り、前日の深夜3時までチェックをしていた。限界までリスクとその対処を考えた。
でも、それらは無駄に終わった。誰も行き先を覚えておらず、集合時間も守られず、私は常に誰かを探して走っていた。自分たちで決めた行き先さえ自分以外把握していなかった。新幹線発車30秒前にAを探しホームを走ることもあった。最終日、計画の乱れの影響で急遽タクシーを手配したものの班員の二人が集合時間になっても来ず、運転手の方に謝罪して探しに行くとスタンプラリーに夢中だった。呆れと失望でいっぱいになった。クラスでの観光中、バスで隣だったAはきれいな景色の前でもずっとゲームをしていた。話しかけてもそうだね。の一言だけだった。私が一番楽しみにしていた博物館の滞在時間は、Aの失踪のせいでわずか30分。帰宅後は泣いてしまい、その後2日間何もできなかった。
それでも休む暇はなく、委員会の仕事が続き、泣きながらなんとかこなした。そして冬、演劇部では春の大会が控えていたが、私は体調を崩し過敏性腸症候群と診断され、活動を続けることが難しくなった。泣く泣く大会辞退を部員に相談すると、部員の子から「私も大会めんどくさかったから」と言われ、とても悲しくなった。私は一緒に頑張ってきたつもりだったのに、そうではなかったのか。
ようやく引退できたことで少し肩の荷が下りた。演劇は嫌いではなかったし、大好きな先輩に出会えたこの部活を嫌いになんかなりたくなかったけどもう限界だった。
春から本格的に受験勉強に取り組んでいた。大学へのあこがれをバネに気合を入れて勉強しようと改めて決心した5月中旬、体調がさらに悪化。起立性調節障害を発症し、学校にも行けなくなった。字も読めず、起き上がるのも辛く、不安で夜も眠れず、ご飯も食べられなくなってダイエットしてないのに1ヶ月で体重が大幅に減った。
自分が不登校になったことが信じられず、親に申し訳なくて、周りは勉強しているのに自分は何もできないという無力感で頭が一杯になる。
6月、先生から「このままだと卒業に必要な単位が取れない」と言われ、さらに不安になった。1・2年生の頃はうまくやれていたのに、なぜ今こんなことになってしまったのか。通信制に転校するにももう高3でタイミングが悪い。
部活や委員会、修学旅行の班長も、もっと適当にやればよかったのかもしれない。他人にどう見られるかを常に気にして、自分の行動を評価してもらわないと不安になる、そんな性格が、最初から間違っていたのかもしれない。自己肯定感を高めようとしても、染みついた考えはなかなか変わらない。スクールカウンセラーにも言われたけどこのままじゃ将来、社畜のように壊れていくかもしれない。大学に行きたいけどもう現役じゃ無理そう。研究したいこともあったけどもうやる気がでなくてどうでも良い。結局、どれだけ頑張っても体を壊せば全部意味がなくなる。1日寝ていることしかできない私が生きている意味ってあるのだろうか。このままどこか遠くに消えてしまいたい。
感想1
あなたのことを時系列で一緒に追わせてもらっているようになりながら、理不尽さ・やるせなさを感じたり、共感したりして読ませてもらいました。
部長と委員長が重なったのは、とてもしんどかったことを想像しています。私も学生時代、半強制的になった委員会の活動がとてもつらかった経験があり、正直なところそれ一つだけでしんどかったので、重なってしまうことは心も身体も、そして時間的にも相当な負担だと思いました。また、不安を感じながらも、『やるしかない…。』に追われてしまうことには、恐怖もあったんじゃないだろうかと思いました。この後書かれていた、班長になった時の話でも思ったのですが、先生や周りの人が誰か、あなたが委員長と部長(班長も)をしていることに気付いてくれて、何か対応してくれても良かったんじゃないか…人数や人員的にやるしかなかった立場だとしても、学校側がそこをどうにかできなかっただろうかと、学校に対して少しモヤモヤしてしまった私がいます。
先程、私も委員会の活動をした…と書かせてもらいましたが、実はその時の自分と少し境遇が似ていて、ほかの人にちゃんとやってもらえない中で、結局一人でやることになってしまったので、あなたのやった作業の大変さや、その時の大きな不安や心配、そしてストレスを、勝手にですが想像して、共感しています。徹夜までして作業した過程とその結果を、誰か見ていてくれただろうか、先生や周りの人が、何かかけてくれた言葉はあっただろうか…とつい考えてしまい、どうしてもまた理不尽に感じてしまった部分でした。
「〇〇長」と名前のつく立場になるのは、勿論やりたい人もいるし、やりたくないのになってしまった人もいると思います。でもどちらにしても、"その人だけがやらなきゃいけないことはない"と私は思うし、その人が絶対に仕切らなければいけない・一人だけ負担になることをしなきゃいけない、ということはないと思います。役職が決定した途端に『じゃあよろしく』な流れがある気が当時の私はしていて、そうじゃなくて、"みんなで考える・やる"な形にしたいし、基本がそういった流れであってほしい…と思ってしまいます。
修学旅行のところで、班員に対しての不安が先にわかっていた分、資料を作ったり、徹底的に調べるところがとても印象的で、そしてまた共感した部分です。
やらなくてもいいことなのはわかっているけど自分が納得できない・やらないとむしろ不安になる・もしも…を考えていないと怖かったり、完璧にしたい気持ちがあなたの中にあるのかなと想像しました。(経験談の最後にも、もっと適当にやればよかったのかもしれないと書いてありましたね。)
これまでのことも含めてですが、『みんながやってくれないなら私もやらない・まあいいか適当で』のようなことがどうしてもできなかったり、苦手だったりするのかなと思いました。むしろ、『じゃあ自分がどうにかしなきゃ!』と一人追い詰められてしまい、でも悔しいことに、それを"やってのけてしまう"あなたがいるんだよなぁ…と、自分の経験も振り返りながら、そして改めて読みながら、そう感じています。(勿論そこには苦しさや、心も身体もしんどくなりながら必死に…の背景があることも考えています。)
こういった事前準備以外にも、班行動の時にもあなたは修学旅行を楽しむ気持ちより、周りを見なければ…これは大丈夫だろうか?と常に気を配り、神経をすり減らしていたんじゃないかと思いました。帰宅後に涙が出たことも自然な反応だと思いましたし、体力や気力含めてかなり消耗していて、それが一気に来た様子も感じました。
蓄積されていったストレスや疲れが、診断名の形で現れてしまい、きっと集大成の一つであるように感じていたのかなと思う大会を辞退しなければいけなくなって、『ここまで頑張ってきたのにどうして…。』の想いがあったことが伝わってきました。部員との温度差がそれを更に増幅させ、引退のタイミングもあり、とっくに迎えていたであろう限界を、はっきりとここで自覚した感覚があったのかなと思いました。
単位が取れない可能性も、これもまた私の勝手な気持ちですが、卒業に必要な単位はもう十分に、様々な形で取ってきたのではないかと思ってしまいました。そして学校に行く・行かない(行けない)というのも、まず安心してその選択ができるような社会じゃないといけないよな…と今感じたのもあります。
計画が崩れてしまうことへの恐怖だったり力が抜けないこと、書かれていたように、自分の行動の評価がないと不安になる気持ち…。ここにはあなたがこれまで経験してきたものからくる、そう感じるようになったキッカケや、過去で何か思い当たるようなことはあるのかなと気になりました。
ここまでずっと全速力で走り抜けてきて、大変で、苦しかったと思います。ほんとうにお疲れ様、と、一方的な想いですが、声をかけたくなりました。
よかったらまたいつでも、あなたの不安や苦しさ、どんなことも自由に書いてみてください。