私が経験談を書かないのは、いじめられたことや裏切られたことは事象として把握していますがその詳細を思い出せないからです。ここは経験談投稿の場だというのに、何とも申し訳ないことです。
就活をしています。
私にとって自分の長所、短所を晒すこと、自分を売り込むこと、話すこと、全部が怖くて意味わかんないです。どうしてみんな自分の心臓を晒して平気なんでしょう。どうしてみんな、自分が売り込むほどの価値ある人間だと思えるのでしょう。どうしてみんながさらりと当然のように入っていくフェーズに、私は入っていけないのでしょう。つくづく向いていないと思ってしまいます。
私は幸運にも「コネ」を持っています。安定した、取得予定の資格も生かせる、素晴らしいコネです。
使いたくないんです。
みんな無いままに頑張ってるんです。無いままに頑張って同じ職場に入った人と、こんな私が並んで働いても、絶対に彼らに比べて私は劣るのです。親類にも恥をかかせます。ミスの責任は私だけでなく、私を入れた親類にもあると見られてしまうかもしれません。そんなことになったら死ぬしかないじゃないですか。
親に言わないようなことさえ、ほぼ何でも話せる友人がいます。この間も私のことをたくさん褒めてくれて、ありえないくらい泣いたのですが、この相談はできません。誰がどう見ても恵まれている私が、その恵みで悩んでいるなどとどうして言えるでしょうか。
父も母も、そんないいご縁があるのにどうして、と言います。本当にそうだと思います。私がそのご縁に相応しい、出来のいい人間だったら良かったのです。堂々とコネを使ってさすがは誰々さんのご親戚と言われる働きをできるなら、それで良かったのです。残念ながら私はそんなふうには言われません。
使いたくない理由がもうひとつあります。
こんな私にも夢があるからです。言葉、物語、に携わることです。書く人でも、書く人を支えるでも、届ける人でも、なんでもいい。こんなにも美しい言語だから、一生使って生きていきたい。
残念ながらそのコネは、言葉や物語には関わりありません。近いところに位置していますが、それでも私からするとなにか違います。
夢の終わらせ方には二通りあって、多くの人々からの無視や罵倒で華々しく殺すか、自分の手でそっと手折るか、です。私はまだそのどちらも選択していません。罵倒を恐れ、手折るに惜しく、何も知らずに存在価値があると思ってきらきらしている夢を震えながら守り続けているのが、私です。小学校のときに言った「小説家になりたい」を、今でも怯えながら呟いている。こんな無様があるでしょうか。
言葉が好きです。それさえあるなら、誰かと愛し合えなくても自分の遺伝子を継げなくても(継ぎたくないのですが)、何十年かして悲惨な孤独死をしても本望です。肉体を持って生まれたせいで、後から掃除してくださる方には申し訳ないのですが。
そして私にはそれだけです。言葉や物語への愛だけが本当です。人の話を聞くこと、人を手助けすること、人に感謝されること、笑い合うこと、そのすべてが上辺です。まともに生きていくことが向いていないのに、まともにならず周囲から浮くことが何よりも怖い。「それ」だけが全てと言えるものがあるのに、「それ」のために逸脱することはできない。でも全てと言えるものを捨てたら私じゃなくなる。上辺だけの人間になってしまって、それはそれで怖い。自分の無価値さを嘆く時代が過ぎ、自分の空虚さに怯える時代が来たような気がします。
生きててもいいって言える自分でないと、ふとした拍子に死んでしまう。だけど自分で認められる自分ていうものは、社会のはぐれ者だ。そんなの、怖くてならない。
名のついた病気になることを何年も望んでいます。
だけど私はせいぜい髪の毛抜くくらいのことしかできなくて、自傷も過食拒食もODも、今よりずっと辛かったときにやらなかったことを考えるとちょっとその頃の私に失礼で、いま私は苦しいんだと思っても、それを言葉に書き起こしてしまえば苦しさが形になってくれてしまうから、私にとって感情はそのまま言葉になってくれなくて、必ず飾りがついて綺麗なものになって、それは言葉を愛しているからなのですが、飾りがついたらそれは傷にはもう見えないじゃないですか。飾りがついたら、そこから血が流れているようには見えないじゃないですか。ひとりで苦しんでいつの間にかひとりで解決して日常に戻ってしまって、何でもないことで泣いてもバイト終わりに立ち上がれなくてもお風呂に入ってご飯を食べて歯を磨いて、生きてるうちに苦しんでいる場合じゃなくなって、苦しいのに、ぽっきり折れてしまいたいのに、折れて倒れて立ち上がらなければそれで名のある病気になれるのに、ただ「病人」のレッテルを貼られる恐怖だけで、私は今日も一歩家を出れば外用の自分になって電車に乗って大学へ行ってバイトして帰ってきて、家に入った瞬間に意味がわからないくらい疲れるんですよ。
抜毛が止まらなくなって行ったのは皮膚科だけでした。心療内科に行って、自分の苦しみの浅はかさや悩みの軽さなどに直面したらいよいよどうすればいいか分からないからです。いじめられましたが、詳細には覚えていません。親が離婚しかけましたが、なぜだかは覚えていません。幼稚園のころからの友人に裏切られましたが、理由は分かりません。ただ自分が「そういう目にあうだけの問題を抱えている」ということだけが分かっているような、そんなんで病院行っても相手が困るだけだと思って、行ってません。そもそも私にとっては、言葉がある限り不安も傷も絶対に消えないんです。これのせいなんです。言葉にせずに流してしまえば忘れられるだろうに、言葉にしたいと思ってしまったら抗えなくて、これが悪いのにこれを愛している。私が作り出すものの、する行為の中で価値があるの言葉だけなんですよ。
言葉が憎いです。傷を傷として見せてくれない言葉が憎いです。でも愛してます。なによりも愛しています。愛してるから美しく見せたいのです。愛してるから、傷を代表させたくないのです。何よりも煌めいていてほしい。きらきらの言葉を吐き続けるだけの機械になりたい。けど傷がなければ輝かないとおもう。ラフダイヤモンドはただの透明な石だ。切り刻まれてようやく輝く。そうして生まれた言葉で褒めてもらえるのが1番すき。言葉を認めてもらえるのが1番好きです。それは傷つく過程、カスの人生、無価値の中から生み出されたものを認めてもらえることと同じだから。いい言葉だと言ってもらえるたび、震えるほど思います。人間でよかった。傷つく生き物でよかった。傷つく生き物が吐く言葉だからダイヤモンドになる。宝石を吐けるのは人間だけだ。人間でよかった。このクソみたいな社会に生まれてよかった。切り刻まれてよかった。よかった。よかったんだ。
だけど、ただの透明な石を吐くだけの機械のほうが絶対幸せです。
認めてください。
生まれてきたことも、こんなんが生きてきたことも、全部謝るから、言葉だけ認めてください。私はただの言葉吐く機械になれませんでした。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。本当に生きててごめんなさい。迷惑ばっかりかけてごめんなさい。困らせるだけ困らせて死んじまおうなんて虫のいいこと考えてごめんなさい。死ねないくせに死にたがってごめんなさい。
でも言葉だけ褒めてください。
これは絶対綺麗なはずなんです。削って削ってキラキラになっているはずなんです。誰も、私自身も、私に価値を見出すことはしませんが、私の言葉にだけは価値があるはずなんです。だってこれは絶対に綺麗だから。これ以外何もないと思って黙って何年も何年も、涙と血で以て磨き続けたこれは、絶対に綺麗だから。
綺麗じゃないと、私って、なんなんだよって話じゃないですか。
感想1
言葉と、あなたの人生、そしてその中であなたが感じてきた違和感や抵抗感が絡み合いながら書かれている経験談だと思いました。私も、自分はにんげんの中でもわりと言葉が好きなほうだと思っています。そんなこともあって、あなたの思いを読ませてもらいながら、どこかわかると思う部分もあり、一方では違いを感じることもあり……自分についても振り返りながら読ませてもらいました。
まず、就職活動と「コネ」についてですが、私はコネ以外の多くのものにしても、「恵まれているかどうか」の要素は人によってとても異なり、かなり不均衡が強い、不平等な世の中だと思っています。その人の地位や権力や資産に、その人が懸命に努力したことが関わっていたとしても、その前提には、多くの生活リソース、環境が混然と存在しています。
「出来のいい人間だったら」と書いてありましたが、「出来がいい」ということですら、偶然の産物であって、その人の価値とは本来無縁だと私は感じます。というか、価値を勝手に判断する基準が恐ろしいものであるだけで、本来人はそれぞれがそれぞれの異なる価値を持っていて、判断しようのないものだと私は思います。
ただ、あなたの書いてあることを読むと、「コネ」があることや使うこと自体の問題というよりも、それが「素晴らしい」場所に接続するコネであるからこそ、あなたにとってそれで職場に入った後のことを考えると、耐えがたい気持ちになるのかなと思いました。
仕事の価値も、能力のあり方も、本来とても多様で複雑なものですが、就職活動の仕組みや、世の中での言説の中では、画一的な基準で判断されてしまうことも多いと思います。
「コネ」を使って就職して、そこで働いていくことは、あなたやあなたの親族や、同じ職場の人から、画一的な基準の中であなたを決められてしまうという恐れもあるのかもしれないと感じました。
「言葉、物語、に携わること」という夢について、あなたがずっとあなたの心に抱えてきた思いを感じました。そして前後の文脈から、それらを「仕事として」行いたい気持ちが強いのだろうか……とも想像しました。
この資本主義社会において、「仕事」「職業」は人生にべったりとくっついたもののように考えられていることが多いように思いますから、その中で、自分が人生でやりたいこと=仕事にすべきこと、という意識があるのだろうか…とも気になりました。
私も言葉がとても好きで、自分で詩歌や物語を書くことも好きだし、読むこともとても好きです。文芸と呼ばれるようなもの以外にも、私は言葉とともに思考し、自分をとりまくさまざまなことを考えるために言葉を使っています。
ただ、それで収入を得ることには、実は私の場合はあまり興味がありません。
結果的には、言葉を用いることが収入につながっている側面もあると思いますが(多くの仕事には、さまざまな局面で言語的なコミュニケーションが前提となるように思います)、仕事は私にとっては生活の一部でしかないような気がしていて、それと言葉が必ずしもリンクしなければいけないとは感じていません。
だから、あなたの「コネ」ではない「夢」について、あなたの思いをもっと聞いてみたくなりました。
また、「名のついた病気」についても、興味深く感じました。にんげんの認識において、名前がつくこと、つかないことにはとても大きな違いがあるように思います。
「認識的不正義」という言葉がありますが、そもそも、この世の中では、言葉すらとても不平等なものです。力のあるもののためには多くの言葉が生み出されてきましたが、弱いもの、不可しかされてきたものの名前はまだとても不足していますし、強いものから見た一方的な言葉ばかりが存在してきたということもあります。(「強い」「弱い」というのも様々な側面から言えることですので、一つのヒエラルキーで表せるわけでもないとは思いますが……)
たとえば「産後うつ」という言葉が生まれる前、産後で苦しむ人たちは、それが自分のせいだと責められたり、自分でもなにが起きているのかわからなかったり、苦しさ自体に気づけなかったりしました。でも、この言葉が生まれたことによって、自分の苦しみがなぜあるのか、他の人はどうしているのかに気づきやすくもなりました。もちろん、それだけでは解決にはなりませんが、言葉によって、解決すべき課題だとわかったり、それをどのように捉えるべきか考えはじめることができたりすると思います。
一方ではあなたが書いているように「病人」というレッテルも、また、言葉です。ただそれは、本当であれば、もっと別の(適切な、社会的に開けた、差別的ではない…)言葉が必要なのに、まだ生まれていなかったり、広がっていなかったり、探し出せていなかったりするということなのかもしれないと思いました。
それは最後の方の「言葉だけ認めてください。」というあなたの言葉にもつながる、一連の思考なのだと感じました。勝手な解釈かもしれませんが、あなたはあなたの思いや、苦しさや、あなたの存在が理解してもらえないことの中で、もうずっと長いことあなたはもがいてきたのかもしれない、と思いました。
あなたの苦しみや言葉への思いやさまざまな心はすべて本物だけど、それがだれにも認めてもらえない時(それが積極的な否定なのか、不可視化されているという要素が大きいのかはわからないのですが)、あなた自身もそれらをどう取り扱っていいのかわからない…ということもあるのかもしれないと想像しています。
あなたにとって言葉は重大な意味と価値を持つだけでなく、あなたの使う言葉の一つ一つにも、あなたにとっての意味や用法、あなたのための辞書があり、それを大事に使っているような感じがしました。
言葉を吐くだけの機械であれたなら、というあなたの思いは、私がかつて感じていた思いともどこか近い部分があるのかもしれない……と想像しました。
私は数年前まで、自分の感情が嫌いでした。コントロールできない身体に困り果てていました。だから、この身体が私を困らせていて、周囲を困らせていると感じていて、思考だけになれたならいいのにと思っていました。それは冷静で理性的なものであるような気がしたからです。ただ、いろいろと勉強しているうちに、思考と感情が不可分であること、思考と身体が不可分であることがわかりました。むしろこの身体がすべての知覚をし、それによって私たちは思考していて、痛みも、傷もふくめてすべてでやっと私たちは存在し、その上で初めて言葉を生み出し、交わすことができるのだと、納得するようになりました。
あなたはあなたが大事にしてきた言葉をキラキラのうつくしい石として書いているのが印象的でした。私は、言葉というものについて、ものごとの輪郭をなぞろうとしている、あいまいで朴訥とした線のように感じることがあります。一方で、ときには、言葉自体が実体であり、実存としてあるようにも感じることがあります。でもそれは石というよりも柔らかく、流動的で、やはり可変のものであるように私は感じています。
そのどちらが正解で、どちらが間違いということではないと私は思います。ただ、言葉を愛し、大切に扱ってきたあなたと、言葉について言葉を交わせることがうれしくて、思考を巡らせていました。さまざまに触発されて、その勢いのままに書いたので、かなりとっちらかった感想になってしまってすみません。経験談は書かないというあなたの意識の中で、ここにあなたの思いと言葉を投稿してくれてありがとうございます。