経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

発達障害による生きづらさに疲れ切りました。

僕は、発達障害当事者です。ADHDとASDを併発しています。
いわゆる2Eと呼ばれる状態――認知的には得意なこともありながら、
生活面や感情面でさまざまな困難を抱えています。

これまでの人生、振り返れば、
いつも「言葉にできない生きづらさ」とともにありました。

高校卒業後、3年間の浪人生活がありました。
受かるかもわからない大学受験のために、
一人きりで、誰にも相談できず、ひたすら勉強や読書をしていました。
周囲の人間関係もうまくいかず、誰かと心を通わせることができない。
自分自身と向き合い続けなければならない時間が、どれだけ苦しかったか…。
ひとことで言えば、“孤独の地獄”でした。

ようやく大学には進学できましたが、心が限界を迎えていました。
バーンアウトし、休学も経験しました。
「せっかく合格したのに、なぜうまくいかないのか」
「努力しても、どこかがズレてしまう」
そう思いながら、自分を責め続けました。

なんとか復学して、単位を取り、大学を卒業した後も、また別の地獄がありました。
就職がうまくいかず、「何の仕事をすればいいかわからない」
「自分にできることなんて、何一つないんじゃないか」と迷い、苦しみました。
周囲はどんどん社会に出ていくのに、僕は置いていかれたまま。
親にも何も言えず、社会にも適応できず、自信を失っていく毎日でした。

そして、今。
なんとか図書館司書として働いてはいますが、発達障害由来の困難――注意の持続、感覚過敏、人間関係、曖昧な指示への対応――
そういったものと、日々戦っています。
投薬治療は、受けてはいますが。

そうして、何とか「普通」を演じようとしても、つまずき、誤解され、責められる。
そんな繰り返しの中で、自己肯定感はどんどん削られていきます。いや、はじめから…そんなものはなかったかもしれない…。

さらに、身体的な不調も重なっています。
頚椎症、強剛母趾、椎間板ヘルニアなどによる首の痛み、手足のしびれ、慢性的な倦怠感…。なにより…気力体力ともに、とても敏感で、疲れやすい身体であることの苦悩がつらいです。

病院にも通っていますが、根本的な改善は見込めず、
「心が疲れ切っているのに、体もついてこない」という、八方塞がりのような状態です。

30代半ば頃に、ようやく発達障害の診断を受け、今は投薬治療を受けておりますが、それ以前から、衝動性からの浪費を重ねてしまい…現在は自己破産の手続き中という…本当に…お前はいったい何をやってきたんだ…という声で、頭の中がいっぱいになり、自責の念と罪悪感で…死を考えます。

将来のことを考えることすら、息苦しくなります。
夢だった写真家や作家という道にも、踏み出せないまま、毎日を“なんとかやりすごす”だけで、本当に精一杯なのです。

でも――
それでも、僕は「死にたい」とは、本当は思っていない気がするのです。

本当に願っているのは、
「生きていると実感したい」ということです。
こんなの幻想かもしれないけど、ちゃんと、自分の存在が受け入れられて、誰かとつながって、心が動いて、“生きるってこういうことか”と思えるような瞬間を、ただ、実感したい…それだけなんです。

けれど、この社会で、発達障害を持って生きるということは、「わかってもらえない痛みと苦しみ」と常に共にあるということ。
人と違う感覚、人と違う思考、人と違う反応…。
それを受け止めてもらえる場所が、ほとんどないのが現実なのかと、絶望感に苛まれます。

僕は、何も乗り越えてなんかいません。
今もなお、地獄の中にいます。
人生の意味も、この果てしないむなしさの正体もよくわからず、ただひたすらに疲れ切って、ひとつひとつの行動すら重くてたまらない――
それでも、こうして「助けて」と書いているのは、
僕の中に、まだ「生きたい」が、たぶん…残っているからだと思うのです。

この投稿が、誰かに届くかも、わかりません。でも、もし誰か、似たような思いを抱えながら生きている人がいるのなら、
あなたはひとりじゃないと伝えたい。
僕のこの言葉もまた、そうやって誰かにつながっていてほしい。たとえ絵空事でも構わない。 

そして、いつか、僕自身が「自分を大切にして生きること」が、
ほんの少しでもできるようになっていたらいいなと――
祈りか願いか…よくわからないけれど、そんなふうに思うのです。

感想1

経験談の投稿ありがとうございます。発達障がいの特性による様々な困難さを抱えながらも、自分と向き合い、何とか生き抜こうと葛藤している様子が伝わってきました。身体的な不調も複雑に絡み合っているようで、日常生活を送るだけでもあなたにとっては負荷になっている部分もあるのだと感じますし、心身ともに休まる場所が見つからず、しかもその状況が長く続いていることも、深い疲弊感と自己否定へと繋がっているように私は感じました。
なかなか抱えている苦しさを理解されることなく、大人になってから診断を受けたことも、これまでの違和感や生きづらさにようやく名前がついた感覚もあったかもしれませんが、だからといってこれまでのことがなかったことにはならないし、今の現状が解決する見込みも持てるわけではない現実をかえって突きつけられたところもあるのかな…と想像しています。周囲の人の反応や社会から感じるメッセージ含めて、もしかしたらこれまであなたの価値観を揺さぶるようなことがいくつもあったかもしれません。それでも「生きていると実感したい」、「生きたいがまだ残っている」などの言葉や、文章を読んでいると、きっと想像以上にしんどい状況で死を意識しているのだとは思うのですが完全には諦めていないというのか、自分の気持ちや感覚を大切にしたいという気持ちがあるのではないかと私には映りました。
この社会は発達障がいや慢性的な体調不良を抱えて暮らすことに関して、制度はもちろん、職場環境の不備やそして周囲の無理解によって、必要以上に苦しみを増幅させられることが少なくないなと感じています。“普通”を求められ、それを演じ続けることの消耗は、外からは見えにくいですし、支援を届きにくくさせているところもあるな…と。本来であれば、社会側がもっと様々な形の働き方を受け入れる構造を整えるべきなのに、その負担を個人に押し付けられていることも、あなたの抱えている苦しみの大きな要因の一つだと感じています。
投稿を読む人に向けられて書かれた「あなたはひとりじゃない」という言葉は、本当はあなた自身がかけられたかった言葉だったりするのかなと想像しています。(違っていたらすみません)そうであっても、そうではなくても、こうして死にトリに繋がってくれたあなたはこの社会の生きづらさについてまっとうに思い悩む仲間の一人だということを伝えたくなりました。
今も“地獄の中”にいる感覚からそう簡単に抜け出すのは難しいことかもしれませんが、この先あなたが安心してほんの少しでも願いが現実になるよう勝手ながら祈っています。まずはどうか何とか心休まる時間を確保できますように…。また死にトリがあなたにとって何か役に立つようであればいつでも訪れてほしいです。

感想2

投稿を読ませてもらいました。文章全体から、私とは異なる人の、異なる体験、異なる人生、異なる心であるということを感じると同時に、なにか知っている、ああ、自分もそんなふうに感じてきた、そんなことを経験した……という気持ちにもなりました。重なるように感じた背景のひとつには、私も発達障害の診断があることがあると思います。私はASDの傾向はあまりなく、衝動性の強いADHDの当事者で、それもあなたと時期は違いますが、大人になっても困りきってから診断を受けました。そのほかにも家庭環境でのトラウマなど、さまざまな要素が重なっているので、どれが生まれつきで、どれが後天的なもので……ということをきれいに切り分けることはほぼ不可能と言っていいと思いますが、それでも自分がこの社会において認知のマイノリティであることは日々ひしひしと感じています。

あなたはひたすら勉強と読書をした浪人時代や、バーンアウトで苦しみながらも単位をとり卒業したことなどから、自分なりのやり方でタスクを遂行することは得意な方なのかなと想像しています。私は同じことをしているのがもっとも苦手な性質なので、素直にすごい!と思うと同時に、あなたは、むしろ自分の苦痛に対処することが難しいまま、なにかに打ち込むしかなかったような面もあるのかもしれないと想像しました。
私の周りにはASDの性質を持ち苦労している人も多く、もちろん一概にくくれることではないのですが、あなたが書かれているのと似た大変さがあるように思うことがあります。
「注意の持続、感覚過敏、人間関係、曖昧な指示への対応」といったさまざまな困難を感じつつ、なんとか「普通」のあり方を探っても、うまくいかない仕事の状況があるのだろうと思います。私も同じではないかもしれないですが、注意やエネルギーの配分が難しいなかで、何度も働けなくなったので、うんうんと頷く気持ちで読んでいました。
また、これらの問題は、不安やつらさが強いときにはより課題化しやすい(たとえば、いわゆる「定型発達」の人であっても、不安や恐れの中ではそういうことがおきるような)ものでもあると思います。
あなたは幾度も「地獄」をなんとか生き延びながら、なんとか自分の困難をカバーしようとしながら、へとへとの状態なのだろうと想像しました。
浪費にしても、私もかなり課題のある分野なのですが、ストレスが強い状況では、アディクション的なもの(ほかに頼るものや支えになるものがない状態で、なんとかそのひと時をしのぐための手段)としてあなたの生活で機能してきた面もあるのかなと思いました。
家庭環境についてはあまり書かれていなかったですが、あまり頼れない状況なのかなと想像しています。
「この社会で、発達障害を持って生きるということは、「わかってもらえない痛みと苦しみ」と常に共にあるということ。」これはほんとうにそうだと思います。最近は発達障害に関する考え方や研究もすこしずつ更新されてきていたり、さまざまな本や当事者の語りも増えてはいると思いますが、社会的マイノリティである当事者にとっては、モデルケースとして可視化される存在がとてもすくなく、自分のことを理解することも難しいという面もあると思います。
私も30代前半ですが、頸椎椎間板ヘルニアがあり(こんなことを言われても嬉しくないと思いますが、読んでいてヘルニア仲間だ…!と思いました)、ほかにも身体の痛みは多く、内科系婦人科系ふくめさまざまな不調があり、この年にしてはそこそこ身体がぼろぼろだと思います。
それにさまざまな要因がありますが、感覚処理のむずかしさや、協調運動の苦手さなどが複合した結果、身体にとって無理の多い生活をしてきてしまったり、適切なタイミングで不調に気づくことができずにきてしまったりした、という要素もありそうだと、個人的には思っています。これも、自分の特性がどういうふうに現れるのかあまりわかってこなかったことによりそうです。
あなたにとっても、もしかしたら、他者との関わりかたのむずかしさや社会の中でのわからなさだけではなく、あなた自身をどう扱っていいのかわからないというむずかしさもあるのかなと思いました。
「生きていると実感したい」という言葉につらなる文章の中で、他者との関わりの中に自分を見出したいという思いがあり、それはすごく切実な思いだと感じました。私は他者とは人間だけではなく、地球やこの世界すべてのなかに遍在するあまたのもののことだと思っていて、そしてそれらとともにあることを実感するのは、逆説的ですが、自分の感覚を通してしかできないものであるから、感覚に圧倒されるのではなく自分の感覚を知っていくことも大切なのかなぁと思って、すこしずつ取り組んでいるところです。
写真家か作家といった職業への想いからも、あなたはあなた自身を表現したい、それを他者の中で受け取られたいという理想がずっと強くあるのかなと想像しました。
宇宙の中で、ずっと信号を発信して、だれかに自分がここにいることが届くことを願っているような、応答を待っているような、そんなイメージをしました。
私は死にトリで経験談を読ませてもらう時、たまたま私の岸辺にたどり着いた手紙を、ひそかに読ませてもらっているような気持ちになることがあります。私にあてられて書かれたものではなく、出会ったこともないだれかの言葉を、それだからこそ、大切に、新鮮に読んで、感想として自分なりに、自分の言葉を書けているような気がしています。
あなたの言葉がここにたどり着いてくれたことに、私は感謝したい気持ちでいます。私自身は死にたいと死にたくないと生きたいと生きたくないをふらふらして生きていますが、こうやって生きていることで、言葉を交わせたことが嬉しいです。死にトリに投稿してくれてありがとうございました。もしよければ、またあなたの言葉を聞かせてください。

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