経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

私は人生を終わらせたい。

言葉をまとめるのが苦手で、めちゃくちゃな文章になってしまうかもしれませんが吐き出させてください。

私は今年20歳になります。
小学校低学年の頃にADHDとLDのグレーゾーンと言われ、中学1年生の頃に正確に診断を受けました。
知能検査では障害者手帳がギリギリ貰えないレベルだと言われ、現在はコンサータを飲みながら”普通の人”として仕事をしています。
中学生の頃は支援級のクラスに在席していましたが「〇〇は障害があるから出来なくても仕方ないよね」と言われることが何度があり、当たり前のことが出来ていない事を許されてしまう環境に耐えられなかった私は通信制の高校に入学し、友達 先生にも話すことを辞めました。
職場では、直属の上司数人には障害について話をしていますが、ほとんどの先輩には伝えていません。
普段の仕事中は重要なことはメモをとったり、予定はスマホのカレンダーとスケジュール帳の両方に書き込んだりと、忘れないための努力を欠かさないようにしています。
ですが 時々日常生活に必要な気力も無くなってしまい自分の欠点をカバーする行動が出来なかったり、笑顔を作ることすら出来なくなる時期や、特別辛いことがあった訳でもないのに涙が出てきてしまい止められない瞬間もあります。
そんな時、中学高校時代はリスカやODをして気を紛らわすことができていましたが、
中学時代にいつも話を聞いてくれていた先生に自分を傷つけないで欲しいと言われ時間はかかりましたが18歳頃にはほとんど辞めることが出来ていました。
でも最近は何故か無性にやりたくて仕方なくて、でもまたやってしまったら昔に戻ってしまった自分が憎くてたまらなくなるとわかっているから踏みとどまることが出来ています。
いつ我慢できなくなるか私にもわからなくて怖いです。
職場ではプライベートで遊びに行くほど仲のいい 障害についても打ち明けることの出来た友人が何人かいます。
私から誘うこともあれば、向こうから誘ってくれることもあります。
「こんなこと話せたの〇〇だけだよ」「1番話しやすい同期だよ」と言ってくれる子もいます。
それでも「人付き合いのために好きでもない私に合わせてくれてるんじゃないか」「本当は裏で私のことを笑っているんじゃないか」と不安になることがあります。
それでも本当はその人のことを信じていて、本当は大好きだから何度も疑ってしまう自分すらも嫌になります。
入社して1年以上経ち、気が緩んできたのか過眠も酷くなっていて家を出る10分前に起きることが多々あります。
朝やろうと思っていたゴミ出しや洗い物が間に合わず、そのままの状態で出勤し退勤後も頑張る力が残っておらずそのまま倒れ込んで寝るという生活になっており、当たり前の事が出来ない自分がこの先、生きていけるのか分かりません。
中学生の頃に先生と「高校を卒業して社会人を経験するまでは死なない」という約束をしており、忠実に守りました。
13歳から20歳、7年間苦しんできましたがこの先、生きていきたい理由が無くなってしまいました。
楽しいと思う瞬間は沢山あるけれど、だからといって 生きていたいか と言えばそうではありません。
でも”死にたい”って言葉が好きじゃない。
私は死にたいわけじゃなくて、ただ消えたいだけ。
私の生きてきた20年間をなかったことにしたいんです。
私が死んだら悲しんでくれる家族がいること、泣いてくれる友達がいること、ちゃんとわかってるんです。
それでもやっぱり人生を終わらせたい。

感想1

投稿ありがとうございます。私もADHDの診断があり、以前は毎日コンサータを飲みながら同僚などにも伝えず「”普通の人”として仕事をして」いました。カレンダーやメモなど、外部のいろいろなものに頼りながら仕事を遂行しているのも、すごくわかるなぁと思いながら読みました。

文章全体を読んで、あなたが周りの人を大切にしたい、信じたい、誠実でいたいと感じていることや、自分がそうであれるように、ずっと自分に言い聞かせながら生活してきたことを感じています。「気が緩んできたのか過眠も酷くなっていて」と書いてありましたが、どちらかというと、緊張し続けて仕事をしてきて、疲れが溜まってきてなかなか思うように回復できていない、という可能性もあるのではないかと気になりました。

だれがどう決めたかも、本当に決まっているのかもよくわからない「普通」を基準に、仕事は進んでしまうことがある気がします。自分語りですみませんが、私も20代はずっと「普通」に合わせて仕事をしていたのですが(いまは30代です)、がっつり体調を崩し、がっつり死にたくなって、働けなくなってしまい、そこでようやく、普通かどうかはさておき、自分にとってやりやすい働き方を模索するようになりました。

ちなみに、個人的にはリスカや自傷行為は無理にやめなければいけないものでもないとは思います。もちろん、しなくて済むならそれでいいとも思いますが、自傷行為などは、なんというか……ほかに紛らわせたり、つらさに対処したり、回復したりする方法が見つからない時に仕方なくとられる選択のように感じるからです(私たちはサバイバルスキル、生き延びるためのスキルと呼んだりします。)。
リスカをすることが問題なのではなくて、その人がリスカをしたくなるくらいつらいのに、そのつらさを減らす方法がたりていないことが問題なのだと思います。
だから、リスカをするかしないかはともかく、「何故か無性にやりたくて仕方なくて」という気持ちは、あなたがそれだけしんどいということだと思いました。

私は転職回数がものすごく多いのですが、それはある意味では逃げ回ってきた…ということだと思います。それもそれで問題でもあるのですが(とても疲れることでもあるし)、少なくとも逃げることは有用な選択肢の一つではあると思います。
疲れたら休んでいいし、仕事はしなくてもいい。でももしかしたら(というか、20代後半までの私はそうだったのですが)自分が疲れているかどうかもうまく気づけないこともあるかもしれません。というか、疲れているとは思っていても、つらいとは思っていても「これくらい」という気持ちがどこかにあったりするのかなぁと想像しました。
私は今はいわゆるフルタイムのようには働かず、たまに長めに働く日だけコンサータを飲みつつ、自分にとって楽なやり方を模索中です。片付けが長年苦手でしたが、働く時間が短めで、体力が残っていたら、片付けができる(場合がある)こともわかってきました。そこそこ死にたいとは思ったままですが、とりあえず意外とそれでも生きています。
そんな一例として、状況が同じということでもないのに、勝手に自分と重ねていろいろ書いてしまってすみません。あなたにとってのしんどくない生活の方法がすこしずつ見つかると
いいな……と願ってしまいます。まずはゆっくり休んでほしい、というのも押し付けがましいと思うのですが、あなたの心身が落ち着く時間があることを祈っています。

感想2

静かで強い気持ちを感じました。そして、深く積み重なった疲労感や孤独感のようなものも感じています。ずっとずっと気を張り、見えないところで努力をして、細心の注意を払いながら、でもそれでも十分ではなく時には失敗もあり、ギリギリすれすれの道を歩み続けているイメージが浮かびました。こんな綱渡りのような緊張状態がずっと続くと思ったら、もうおしまいにしたいと思うことも無理はないと感じています。私はあなたが本当に真摯に誠実に生きてきたと思いました。
なかでも、印象に残ったのは中高生時代のリスカとODに関するエピソードです。一般的にはリスカやODは自傷行為ですから、自分を傷つけるわけで、大人や周囲から「やめたほうがいい」と言われがちです。時には「自分を大事にしなくちゃ」と言われることもあります。しかし、自傷行為の背景には一人で抱えてきたつらい気持ちや孤独や孤立があると言われています。つらい気持ちや孤独をしのぐための生存戦略として、自傷行為があります。やりたいわけでもないのに、それをやらないと生きていくのがつらすぎるという行為は依存とかアディクションと呼ばれています。たくさんのアディクションで苦しむ人たちのサポートをしてきた精神科医が書いた本で分かりやすいたとえ話が紹介されていました。アディクションは泳ぎ方を教えてもらっていないのに、大海原に放り出された人が必死になってしがみついている浮き輪だというのです。泳げないのに大海原で生き延びるにはしがみつくものを見つけるしかありません。無理もないことです。その浮き輪がよくないものだとわかっていても手放すことができません。しかし、労せず泳ぎ方を知っている人は泳ぎを教えてもらえなかった人の苦労がわからないので、危ない浮き輪は捨てて自分の力で泳ぐようにと善意でアドバイスをすることが多いのです。あなたの先生はおそらく善意でそして、あなたの力も信じていたからリスカやODをやめるようにアドバイスをしたのでしょうし、あなたもそうした支えの力を借りながらもなんとか泳ぐことができるようになったのかもしれません。ただ、見方を変えると、あなたが期待に応えようと無理をしたようにも私は思えました。おそらく並々ならないあなたの努力があり、表面的には大丈夫な顔をしていても、水面下ではいつも必死に足を動かし続けたり、誰も見ていない時には溺れそうになったりと気を抜くことができない状況になっていたのだろうと思います。だから、また浮き輪が必要になっても無理はないと思っています。
あなたの周りには理解してくれる人がいたり、必要としてくれる人もいて、楽しいこともある様子ですが、経験談からはそれらとは別の次元にあなたにしかわからない誰とも共有できない孤独があるように感じています。もっと違う言葉の方がふさわしいのかもしれませんが、とりあえず孤独と表現します。そして、今回の経験談はその孤独の片りんを記したものなのではないかと私は感じました(的外れだったらすみません)。自分の中だけに抱えていた気持ちをこうして出すことに私は意味があると思っています。人生を終わらせたい、何もかもなかったことにしたいという気持ちはそう簡単にどうにかなるわけでもないと思いますし、むしろずっと付き合っていく相棒なのかもしれないと思うところもあります(実際に私の周りの人生を終わらせたい気持ちを抱える人たちはそれはなくなるもの、なくすものではなく、付き合っていくものだと語る人たちがいます)。少しでも楽に息ができる方法が見つかることを願いつつ、また、浮き輪や船(誰かに頼る)を使うことも遠慮しなくていいですよとお伝えします。死にトリも大海原に浮かぶ島の一つとして、気軽に立ち寄れる場でありたいと思っていますので、必要な時には立ち寄ってください。

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