経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

エリートと言われる道を歩みたかった

私は現在21歳です。高校は中退しました。今は大学に入学しようと受験をしています。
私は昔から人と話すことが気恥ずかしく、避け続けて、終いにはもう1人でもいいと思うようになっていました。
今では1人で生きていくことは不可能なことは理解しているのですがかつては本気でそう思っていました。社交も運動もできないその時の私の精神をを支えていたのは学校の成績です。県ではいい高校に進学でき、努力すればなんでもできると本気で思っていました。大学もトップを目指していました。しかし寝食意外を捧げた学業も振るわなくなり、心が折れました。思春期の拗れもあると思います。それから立ち直ることもなくずるずるとこの年齢まで来ました。私は家族も親戚も存命で暴力も振るわれることなく、とてもいい生活をさせてもらっています。もちろん私自身もいい子でいようとしていましたがこれは自分の為で、自己愛からくるものでした。学校の成績もいい子の振る舞いも自分の為でした。存在証明でした。私は他人よりも(他人の評価で)優れていないと至って普通の(素晴らしい人間の)生活が送れない臆病者で傲慢で自己理解が不足した人間です。さらに現在では勉学からも逃げています。誇りだった「努力する人間」をも失っています。
受験、就職先、お金の事を考えたりこれからも生きる上での努力を考えてしまって心身共に参ってしまいます。つまり自業自得です。チャンスはたくさん与えられていました。社会を俯瞰して仕組みを理解して人生を計画する知性も持ち合わせていません。
今でもいい大学に行っていい企業に就職したいと思っています。これは努力をし続けた人間の特権なのに私はなんてわがままなんだろうと思ってしまいます。特定の未来に固執する姿勢と狭い視野が本当に愚かだ。私はやりたい仕事に就く資格はありません。受け入れるのみです。未来が怖いです。今ではあれほど拒絶していた他人と関わりたいと思っています。そして歩いている制服の学生を見るたびに人生を失敗したんだと思ってしまいます。私の悩みなんて啓発本に書いてあるようなよくあるものでした。これを解消することも考えつかないような自分に失望していて、裏を返せば実際以上に自分を高く評価しすぎです。

感想1

あなたがいわゆるエリートと呼ばれるような人生を歩みたかったけれど、そうなれなかったことに対する強い後悔と今からでもひょっとしたら道はあるのではないかと思う気持ちもわずかに感じました(違っていたらすみません)。そして、その強い気持ちはいったいどこから来るのだろうか?と考えています。そして「エリートって何だ?」と考えています。そこで一つ気づいたのはエリートというのは形式的な学歴や職歴、肩書の表現であり、中身についてはあまり問われていないのではないかということです。いい大学を卒業した人がみないい人生を送っているわけでもないですし、いい企業に勤めている人がみないい暮らしをしているわけではありません。逆に中卒でも高卒でものびのびと自分らしく暮らしている人もたくさんいますし、いい企業に勤めなくても、幸せに暮らしている人もたくさんいます。確かに経済的な格差はあるにせよ、傾向はあってもすべてではないと思います。私は実際にそうした人たちを見聞きしているので、実感として伝えられることです。そうした実態がありながらも、あなたはどうしてそこまでエリートにあこがれるのかと考えると、そこにはメディアやSNSによる偏った情報の影響と社会の中に埋め込まれた能力主義の価値観の存在が思いつきました。実際にはもっと多様で個々の事情によって人生の価値や意味はそれぞれのはずなのに、特定のパスポートを手に入れるとそれだけで幸せや成功が得られるように思ってしまうイメージがあると思うのです。そうした社会からのメッセージを内在化したあなたが「エリート」に強く惹かれているのではないかと私は仮説を立てました。(これも、私の仮説なので、違っていたらすみません)
そして、ふと社会からのメッセージを内在化していない、自由なあなたは何が好きで、何をやりたいのだろうと考えました。学歴とか職歴とかまだ全然知らない子どもの頃のあなたは何に目を輝かせていたのか、何にワクワクしたのか?そんなことを考えています。そうした潜在能力を発揮せずに温存してきたあなたには可能性がたくさんあると私は思いました。屁理屈あるいは詭弁のように聞こえるかもしれませんが、社会は多様で人間は本来自由な存在だと思います。今目覚めてきた「他者と関わりたい」気持ちを活用すると、あなたの世界がどんどん広がると私は思いました。そして、潜在能力が呼び起されることを勝手ながら願っています。

感想2

投稿読みました。文章全体から、自己分析の鋭さが感じられて、それに伴う自己否定感が強く伝わってきました。事実を並べながらも、その一つひとつに“本当はこうあるべきだった”というような理想像があって、それと現実との違いを厳しく見つめているそんな印象を抱きました。その厳しさは、自虐や卑下とかではなく、過去の自分や選択を精査し続けているのかなと感じますが、そのまなざしが常に自分に向きすぎてしまうことで、心身を削ってしまっているところもあるのかなと感じました。
学業を「存在証明」としてきたというところには、その背景にある社会的な構造を考えさせられました。日本の教育や進路選択の場では、成績や学歴が本人の価値を測る物差しとして強調されがちで、“成果によって存在を肯定される”という条件付きの自己評価が形作られやすいなと私は感じています。その条件が崩れてしまった時に、自分の存在の根拠を見失いやすくなるものだな…と。あなたが「誇りだった努力する人間をも失った」と書かれたことは、生活態度の変化ではなく、自分の土台が揺らいだ感覚に近いのではないかなと私は思いました。(全然違っていたらすみません)
また、「努力をし続けた人間の特権」という表現にも、今の社会で能力や努力がいかに階層化され、成果に直結するよう求められているかという現実が反映されているように感じました。受験や就職が通過点としてではなく、“資格”のように扱われる現状は、自分の適性や状況を色々な方向から見づらくする要因でもあると思います。努力を継続するというのは確かにできるほうが得られるものもあるのかもしれませんが、それが難しくなった瞬間に人を過剰な自己否定へと追いやることを考えると、社会に蔓延している価値観や風潮にはやっぱり違和感を抱いてしまう自分がいます。
あなたが自分を“臆病者で傲慢”と表現しているところも印象的で、そこには、他者との比較や、理想とのギャップを強く意識する視点がある一方で、現実の人間関係や社会の複雑さを自分なりに解釈しようとしているのかなと想像していました。きっとそれは、これまで生き延びるために培ってきたある種の生存戦略なのかもしれないなと思ったりもしました。他者と比べることで生じる痛みは、社会が設定した標準的な時間軸や通過儀礼を前提にしているからこそ強くなるものだと私は思っていますが、それが正解ではないことを、頭では理解していても感情が追いつかないこともあるよな…と私も他者と比べがちなのでそう思うことで、落としどころが難しいなぁと思ってしまいます。
読んでいると自分を突き放しながらも、変化を望んでいるところもどこかあるように感じました。努力や成果を自分の価値の目安として内面化してきたことを考えると、その枠組みを壊すには時間も経験も必要だと思いますし、現時点でその答えを見いだせていないことに失望する必要はないんじゃないかなと私は思います。(何だか無責任に感じられたらすみません…)あなたが「未来が怖いです」と素直に書き、それを受け入れようとしているところに、自分の認識と現実との折り合いをつけるために一歩踏み出そうとしている証だと私は思いました。一方的に私が思うことを長々と書いてしまい申し訳ないです。また何か死にトリがあなたにとって役に立ちそうでしたらいつでも声を届けてほしいです。

お返事

返信していただきありがとうございます。
「憧れる」という綺麗な表現は私の中にはなく、新たな発見となりました。私は社会からの圧を捻じ曲がった受け取り方をしたのですがある意味では素直に信じた純粋さの表れではないかと思いました。二つの感想を真摯に受け止めます。 
重ねてお礼申し訳上げます。

一覧へ戻る