経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

希死念慮

仕事で何者かになりたい。何者かになれなければ私は存在しなくてよい存在だと思う。心理学、メンタルヘルス、スピリチュアル、の本を読み、知識としては頭に入れている。誰も私を助けられないということを。人は一人で生きていかなければならない。けれども生きるのが辛いと思ってしまうときは、一か月に一回は合って、私は本質的な問題に真向から対処することを恐れて、逃げてしまう。私はこの苦しみが一生続くのかと思うと、川に行って沈みたいと、どうしても感情で思ってしまうのだ。実行をしたことはないけれど。

キャリアの追求は厳しい。いばらの道と知っている。仕方がないけれど、音楽の世界は厳しいのだ。幼少期から始めた時、この仕事を一生やっていくという覚悟を、私は幼少期の頃に無意識に覚悟を決めていたと感じる。それなのに、覚悟を決めろという人がいる。私が本当に覚悟を決めているのかを確かめたいという人が、いる。精一杯やってきたのに、なおも覚悟を決めろという。一体私は、どう覚悟を表明したらよいだろうか?

感想1

覚悟を決めているのに、周りにたるんでいると思われるのは、要求が増えていきそうでしんどいような気がしました。
どうしてそう見えてしまうのか想像してみたのですが、「余裕がありそうに見える」ということだったりするのでしょうかね?「余裕がありそう→もっと根詰めて努力すれば、より良い成果をあげられそうなのに、それを怠っている”ように見える”」という感じで…
実際はそれが本人の精一杯で、必要最低限の休息をとっているだけなのに、それが余剰分に見えてしまったり、というギャップが生じているのかなと想像しています。

また、覚悟を見せてもらいたがる人が度々登場することに対して、双六のマスに近いイメージをしました。仕事で何者かになるためにキャリアを追求していく双六ゲームで、何度も登場する「〇〇が現れた。一回休み」というマスです。
覚悟を確認したい人は、そうすることで安心したり満足したりしたいのだと、私は勝手に思っています。本人の内にあるものが外にじわじわと伝わってくることはありますが、それは意図的に示してもらうのとイコールにはならない気がしています。それでも、「覚悟に見えるなにか」を見せて満足してもらえるのなら、(私だったら)その演出方法を身に着けて、適当にあしらってしまうかもしれません。そうすることで早く次のマスに進めるのなら、すると思います。
他者が関係していなくても、キャリアを築く過程には、暗くしんどいだけの場面もあるように思い、”騙し騙し”の方がかえって健康的に感じてしまうような気もしました。

感想2

冒頭の文章を読みながら、生きていくことはいつも孤独で、本質に向き合おうとすることは同時に痛みや苦しみを伴う時間でもあると、あらためて感じています。
「感情で思ってしまう」と書かれていましたが、苦しさもろとも川底まで沈んでしまいたいと思うことは、あなたなりの心のバランスの取り方でもあるのかなと想像しました。

幼少期から現在に至るまで、音楽の世界に身を置いてきたのでしょうか。言葉の端々から、厳しい現実に対して自分なりに折り合いをつけようとしているあなたの姿をイメージしています。その中には「覚悟」も含まれていて、どうして他者の安心や都合のために求められて差し出さなければならないのかと、もどかしさを感じています。
自分自身の内的な部分まで踏み込まれることは、とても乱暴なことでもあると私は感じてしまいました。

これは日本特有なのか、はたまた諸外国も同様なのか、「逃げる」「避ける」という選択をする際に周囲から向けられる否定的な目線には、いつも疑問を感じてしまいます。
立ち向かうことがまるで正しいかのように押し付けられ、美徳とされてしまうことには、私自身は息が詰まるような思いでいます。
あなたが考えていること、感じていることは、誰にも否定されるものではないと、そんなことを伝えたい気持ちでいます。
またよかったらお話を聞かせて下さい。経験談への投稿ありがとうございます。

一覧へ戻る