経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

意見いただけたらうれしいです。

①家族からの言葉(これらはトラウマなのか?)

兄から
・知ったかぶり発言すんな
・えらそうな態度とるな
・お前昔からコミュ障だもんな
・お前大学どこ?

妹から
・同じことを選ぶと「真似しないで!」と言われる(昔も今も)
・その髪型と服装で仕事行くの⁈もっとちゃんとしなよ!!(「余計なお世話だし、自分が思うほど周りは誰も見てないから」って言い返した。)
・指輪しただけで、「デート⁈」(決めつけないでほしい)

父から
・仕事でつかれて帰ってきたお父さんに対してなんだその態度は!(殴られてとにかく怖かった)
・学校の勉強できても何の意味もない。自分で自分の生活まわせなくなる、だから進学校に進むのは反対だったんだ。(最悪)
・流行に流されて旅行気分で海外研修に行くのはお父さん反対だった(「せっかくの外食中に言うことじゃないよね、気分悪くなる」って妹と2人で伝えたら父は黙った。)
・父が母に対して言った、「お前の子供(←私のこと)だろ!お前(母)が責任もてよ!」
・子育てで1番金かかったのはお前、これから一生言われるからな(外食中に笑いながら言われた。最悪。今も金かかってるから嫌なんだろうな。)

祖父母から
・(わたしの選択に対して)もったいない
・普通の会社がいいよ

私は今までのこう言った発言を受けたことが積み重なり、今でもこれらの言葉があたまの片隅にある。
なにか家族から嬉しいことされた後とかに、頭の片隅からまた現れて、消えてくれなくて、しばらくしんどくなる。
これらってトラウマですか?

②家族に対して思うこと
家族のことは好きな面もあるけど、①を経て、自分の考えを話したいなと思ったり、頼りたいなとは思わなくなった。
会話も私からはあまりしなくなりました。
むしろ家族を信頼できなくなったし、離れたいなと思うようになった。
「人を信頼できないのは、自分を信じてあげられないから」なんて誰かが言ってたけど、私もそうなのかな。しんどいな。
私はとても恵まれてる。自己満足かもしれない。だけど、家族を居場所とは思えないんだよな。
仕事でも人間関係築けないし、私を必要としてる人はいないし、私は私を大切とはいろいろ試したけど思えなかった。
お父さんの言う通り、勉強しかできない私は社会にいらないんだよね。
最近は勉強すらできてないし。家事もやったりやらなかったりだし。身なりもボサボサだしね。
いつまでたっても学んでも知らないうちに傷つける言葉言う私だし、経済的自立も精神的自立もしてないしできてないし、早く死ねないかな。消えたいな。
これっておかしな考えですか?

②周りの人に対して思うこと
新しい考え方聞いても、「この人だからできたんだよな」って思う。
「あなたもできます!できるよ!」って言われても、いやいや…となるしなんかモヤモヤする。失礼なんだろうけど。
こんなふうに思うのおかしいですか?

というわけで、生きたい理由が特に見つからなくて、安心できない日々だし、笑顔になれなくてしんどいです。
どこか行った方がいい場所、あれば教えてほしいです。

感想1

家族に対しての投稿者さんの思いを想像しながら読ませていただきました。列挙されていた内容以外にも、これまでに色々な言葉を投げかけられたり、モヤモヤする態度を取られたりしてきたのではないかなと想像しています。
「他人からの言葉」には、かけられる頻度や回数や悪意の有無を越えて「こちらに伝わってくるもの」があると私は思います。つまり言葉の内容以上に、言外のニュアンスだったり感情だったりを相手から受け取っていると思います。自分で決めたことを非難されたり、自分の意にそぐわない反応をされ続けたり、自分が気にしていることをわざわざ取り立たされたり…ご家族の言葉にはいろんな「否定」のニュアンスが込められているように私には感じられました。そういった意味で投稿者さんは「自分の考えや行動を否定されている(良く思われていない)」という感覚を抱え続けてきたのかな、という印象を受けました。
「人を信頼できないのは自分を信じられないから」というのは一定真理なのかもしれませんが、そもそも自分を信じようにも難しい、というふうにも考えられると私は思います(誰かに肯定される機会が不十分なまま、いきなり自分を信じるなんて無理では?と思うので…)。
今はご実家に住んでいるのかなと推測していますが、同時に、年齢と共にいろいろな環境を知り、自分を客観視する機会も増えているのかもしれません。反面、家族の姿勢や言葉が一貫して自分に合わないものであるならば、感覚と社会通念的なもののはざまで、人の意見(家族の意見)と自分の意見に線を引くのがなかなか難しく、ジレンマや苦しさを感じているようにも見えました。
まずは死にトリのような場などで投稿者さん自身の思い(家族からの言葉の後ろにカッコ書きで書かれていたような率直な気持ち)を表現していく、というのも1つなのかなと感じました。投稿者さんの本音が誰にも奪われずに在ることができたらいいなと思います。

感想2

これは「違和感レポートだ」と思って興味深く読みました。私は違和感というのは「自分が自分でいるために」とても大切だと思っています。だから、あなたの違和感について、ものすごく納得しながら読みました。私にはあなたの違和感には一貫性があると思えましたし、あなたらしい感覚や考え方が表現されていると思いました。
自他の境界線という言葉は聞いたことがあるでしょうか。自分と自分以外の人(他者)を別の存在として分けて線を引いて考えることです。自分を守ったり、他者を尊重する際に境界線はとても大切だと私は思っていますが、家族という集団はその境界をやすやすと踏み越えて、あれこれ言ってきたり、押し付けてきたりします。あなたが書いてくれた家族についての記述はどれも、家族が境界をずかずか超えてきていることについて指摘していると感じました。私は家族と言っても、特別に仲が良いとか気が合うことはなく、たまたま同じ家に過ごすことになってしまった他人の集団に過ぎないと思います。だから、嫌いになることもあるし、信頼できないと思うこともあるし、好きになることもあります。どれも自然なことだと思います。だから、あなたが感じていることも全然不思議なことではなく、もっともなことだと思いました。
「人を信頼できないのは、自分を信じてあげられないから」という言葉がありましたが、安易に人を信じる必要はないと私は思います。簡単に人を信じないのは私は自分の感覚や感性を信じているからこそだろうと思うのです。また、あなたは自分を大切にできなかったと書いていましたが、今回書いてくれた違和感はどれも自分を大切にするからこそ「おかしい」と思えるものだと思いました。ただし、人は不思議なもので集団になると、数が多い方が力をもち、少ないと「おかしい」と否定されることがあります。その圧にしばしばダメージを受けますし、潰されないために合わせてしまうこともあります。でも、あなたはその圧に屈しない力があると私は感じました。
最後に書いてくれた「周りに対して思うこと」に関しても、自分と他者は違うという境界線を意識した違和感だなと思いました。日本では家族を代表として境界線を踏み越えやすい文化が根差していると私は常々思っています。それが人それぞれの感じ方の違いや考え方の違いを認めにくくなったり、親から子どもへの干渉や人への不寛容につながりやすいと考えています。そのような中で自分の感性を大切にして、境界を踏み越えられることが「おかしい」と思える自分を信じていいよと心から思います。投稿、ありがとうございます。

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