経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
長文&駄文ですがご容赦ください。
生きる価値がわからない発達障害+PMDDもち大学生です。
私は中学から高校3年まで吹奏楽部に所属していました。中高一貫の学校の部活でしたが、私が入部した際は私が唯一の中学生で、メンバーは全員高校生でした。合格した中学校は家から遠かったため、必然的に寮生活(部活の先輩との2人部屋)となりました。
当時、先輩なる存在に初めて相対したため、敬語など、「当たり前」とされているルールが掴めず、かなり失礼かつ空気が読めない行動をしてしまいました。それゆえ、先輩から入部二週間後に問題児の烙印を押され、部内での居場所がない状態でした。顧問の先生も威圧的で頼れませんでした。先輩からの私に対する、「年下の失礼なやつだから何をしても良いだろう」という認識がパート内に浸透し、私が嫌と感じることをしても良いような雰囲気となっていました。
その期間に言われた人格否定の言葉が、大学生になっても顔を出します。発達障害という、脳の欠陥を背負ったまま、普通の人と同じように生きるのはやはりしんどく、失敗した時にダメなやつだと自分で自分を否定してしまいます。
まだ人生で何も成し遂げていないにも関わらず、今の生活を何不自由なく暮らせていることに対する罪悪感や、就活など将来の生活に対する不安などに押しつぶされそうです。また、私は一人っ子で、優しい両親の元で何不自由なく暮らせているのに、欠陥品の自分は生まれてこなかった方が良かったのではないか、という思いもほんの少しあります。
今の夢も希望もない状態の私に生きる価値はあるのでしょうか。(生きているだけで意味があるという回答は避けて頂けるとありがたいです)
稚拙な文章ですみません。
感想1
私はASDの診断を受けている人間です。吹奏楽部の経験はありませんが、自分の力量が全体の出来に影響することやパート内の人間関係が密なことから、すごくしんどそうな部活だ…と中学のとき傍目で思っていました。
私自身、明文化されておらず誰も親切に教えてくれないルール(人間関係はこの場合が多い…)に苦労してきたのもあって、あなたの状況の大変さがありありと浮かぶような、想像するとちょっと圧倒されるくらいの感覚になっています。
嫌と感じることをしても良い雰囲気に長く置かれ、人格否定の言葉を向けられていたら、自分へのネガティブな感覚や評価が自分の中に残ってしまうのも自然なことだと思います。
ただ、私は発達障がいが脳の欠陥という考え方ではなく、欠陥があるのはこの社会だという考え方をしています。(自分の発達の偏りを「出来損ない」などと責める気持ちもずーっと残ってはいますが…)
なぜなら、そもそもが先輩後輩で「当たり前」とされているルール自体が理不尽で合理性もなく、また、教えもしないで出来ないのを責めるのも一方的であり、それに適合できなかったことは欠陥を意味しないと思うからです。確かに半数以上のいわば定型発達といわれる人たちは、そういったものになんとか迎合したり馴染めてしまうのかもしれませんが、それでもちょっとしたことで孤立したり、上辺では合わせられても内心苦しい思いをしていた話も私は何度も聞いたことがあります。
発達障がいに限らず、相手と自分に感じ方や文化の違いがあるとき、トラブルが生じたり、知らないうちに傷つけていたり、悪気なく傷つけられたりというのは、当然起こります。でもその違いは、一方が正常で一方が異常というものではなく、違いを尊重し合った上で歩み寄りや妥協を考えていけばいい話だと思っています。
生きる価値・・・いろんな角度から語れるテーマなので回答に悩みますが、生きる価値を感じられないという気持ちや苦しさとして、まずはその言葉を受け取りました。
私の書きたいことを書かせてもらうなら、普通になれない人=生きる価値がない存在、という感覚が社会で広まっている気がして、それにとても危機感を抱いています。私は今の社会の「普通」は誰にとっても窮屈なものだと思っているので、変えていくための一歩として、なんか嫌だとか無理だとか理不尽だとかやってられないとかを、各々に叫んでほしいのです…。だから私にとっては、誰しもが生きる価値のある存在で、ちょっと贔屓をさせてもらうなら、生きづらい人がより話を聞く価値のある存在だと感じています。
経験談の投稿ありがとうございました。
感想1
私はASDの診断を受けている人間です。吹奏楽部の経験はありませんが、自分の力量が全体の出来に影響することやパート内の人間関係が密なことから、すごくしんどそうな部活だ…と中学のとき傍目で思っていました。
私自身、明文化されておらず誰も親切に教えてくれないルール(人間関係はこの場合が多い…)に苦労してきたのもあって、あなたの状況の大変さがありありと浮かぶような、想像するとちょっと圧倒されるくらいの感覚になっています。
嫌と感じることをしても良い雰囲気に長く置かれ、人格否定の言葉を向けられていたら、自分へのネガティブな感覚や評価が自分の中に残ってしまうのも自然なことだと思います。
ただ、私は発達障がいが脳の欠陥という考え方ではなく、欠陥があるのはこの社会だという考え方をしています。(自分の発達の偏りを「出来損ない」などと責める気持ちもずーっと残ってはいますが…)
なぜなら、そもそもが先輩後輩で「当たり前」とされているルール自体が理不尽で合理性もなく、また、教えもしないで出来ないのを責めるのも一方的であり、それに適合できなかったことは欠陥を意味しないと思うからです。確かに半数以上のいわば定型発達といわれる人たちは、そういったものになんとか迎合したり馴染めてしまうのかもしれませんが、それでもちょっとしたことで孤立したり、上辺では合わせられても内心苦しい思いをしていた話も私は何度も聞いたことがあります。
発達障がいに限らず、相手と自分に感じ方や文化の違いがあるとき、トラブルが生じたり、知らないうちに傷つけていたり、悪気なく傷つけられたりというのは、当然起こります。でもその違いは、一方が正常で一方が異常というものではなく、違いを尊重し合った上で歩み寄りや妥協を考えていけばいい話だと思っています。
生きる価値・・・いろんな角度から語れるテーマなので回答に悩みますが、生きる価値を感じられないという気持ちや苦しさとして、まずはその言葉を受け取りました。
私の書きたいことを書かせてもらうなら、普通になれない人=生きる価値がない存在、という感覚が社会で広まっている気がして、それにとても危機感を抱いています。私は今の社会の「普通」は誰にとっても窮屈なものだと思っているので、変えていくための一歩として、なんか嫌だとか無理だとか理不尽だとかやってられないとかを、各々に叫んでほしいのです…。だから私にとっては、誰しもが生きる価値のある存在で、ちょっと贔屓をさせてもらうなら、生きづらい人がより話を聞く価値のある存在だと感じています。
経験談の投稿ありがとうございました。