幼稚園の頃から両親は何処か話が通じなくて辛かった。
それでも、父親は愛情を示そうとしていたし、
母親も冷たいながら親の仮面を被ってくれていた。
でも、そんな日も長くは続かなかった。
小学校に上がった、暴力が日常になった。
些細な事で顔から血が出るまで殴られたし、真夏に真冬に、昼夜を問わず外に締め出された。
突然熱いお湯をかけられたり、冷たい水をかけられた。
お風呂に沈められては何度も気を失った。
身体を折り曲げられ、小さい箱に詰められて真夏の駐車場に捨てられて放置された事もあったし、
母親からは「お前を施設に預ける」「お前は川の橋の下で拾って来た子だからいらない」「暴力を振るわれるのはお前が悪いからだ」等と何度も言われた。
それを素直に信じて、小学校では悪い事をした他の生徒を徹底的に叩きのめした。
悪い事をした人には暴力を振るう事が良い事だって教えられていたから。
でも、先生からはその度に怒られるのが当時は本当に理解出来なかった。
僕が学校で暴力を振るうと、親は褒めたり褒めなかったり、色々だった。
でもなんだかんだ理由をつけて僕を殴るのもセットだった。
小学四年生になってからは特に酷かった。
記憶が無くなる程に良く殴られた。
父は悪魔になって、母がその召使になったと思った。
中学の時、僕が暴力を振るわれている事や、僕が暴力を振るう事が何故間違ってるのかを論理的に、そして熱心に教えてくれた先生が居た。
その先生の説得に納得して、僕はだんだんと暴力を振るわなくなった。
でも、その先生はある日、生徒に暴力を振るって問題になってしまった。
嘘つきだと思った。
暴力を振るわれた生徒が復讐にその先生をボコボコにしてしまった。
僕の周りにまた暴力が溢れ始めた。
そんな日を繰り返して大人になった。
友達から近所のお寺のお坊さんが頼りになると聞いた。
話を聞きにいってみた。
暴力は良い事なのか?悪い事なのか?
その疑問に優しく答えてくれた。
やっぱり暴力はいけない事なんだと確信した。
それから、暴力的な環境から離れる為に生まれ育った街を離れた。
平和になった。
平和になったら今度は僕の心の中で今までに受けてきた暴力達が次々と目を覚ますようになった。
朝起きた時、夜眠る時、子供の頃に振るわれた暴力が僕を揺さぶっていつも心臓をドキドキさせる。
人が怖くなった。ある日、外に出られなくなった。
心の病院にも行った。
解離性障害と言われた。
人格がいくつもに分かれてしまう病気なんだって。
お医者さんはじきに落ち着くよ、と励ましてくれたが僕の心の中の暴力は今も大人しくはなってくれない。
愛されたかった。
両親に愛されている幸せそうな子供を見ると胸が張り裂けそうになる。
自分が両親に愛されなかったのは、この世に産まれる事を望まれていなかったからなのでしょうか。
誰かがこの叫び出したくなるような問いに、答えを与えてくれる日をずっと待っています。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
心の傷は今も
感想2
興味深く読みました。暴力は倫理的にはいけないことで、犯罪として罰せられる対象でもあります。一方では人間はこれまでずっと暴力を支持し、肯定することを繰り返してきています。暴力はいけないと言いながら、戦争では暴力を行使することが評価されます。また、家庭内で躾と称した親から子どもへの暴力や支配はいけないこととして法律があったり、支援などもありながら、なくなることなくあり続けていますし、学校ではいじめという形の暴力がずっと深刻な問題としてあり続けています。
暴力を乗り越えようとするのも人間ですし、自らの暴力性に振り回されているのも人間です。そんな矛盾をあなたは人生の中で壮絶に経験してきたのではないかと思いました。そして、その強烈な矛盾する現実を生き抜くために、解離という手段をとってきたのだろうと思いました。人間が自らの暴力性と折り合いをつけるためにはどうしたらよいか?という問いに対して、あなたの経験談はヒントをくれていると思いました。
最後の方に書いていた「愛されたかった」の一文が目に留まりました。私は「愛」という表現が自分の中では馴染めないので、あなたが書いてくれた「愛する」という表現を少し言い換えて「尊重する」と表現させてもらいます。人間が自らの暴力性を制御するためには、自分が誰かに大切にされ、否定されずに、尊重される経験(実感)が必要なのだろうと思います。あなたが「愛されたかった」と渇望するのは、とても自然なことだと思いました。ただ、親が必ずしも愛や尊重を与えてくれる保障があるわけではありません。親といえども一人の弱い人間で自動的に子どもを愛したり、尊重したりできるわけではありません。そもそも、必ずしも愛や尊重をくれるのが親でなければならないわけでもないと思います。それぞれが、その人なりの愛や尊重の経験があり、何が正しくて間違っているということはないと思っています。ただ、私が強く感じたのはあなたの「愛されたい」渇望の裏にある自らの暴力性に気づき、それを克服したいという強い願いの存在です。それは育った環境にはあまり関係なく、あなた自身が生まれ持った感性であり個性なのではないかと感じました。幼少期からの暴力をめぐり葛藤したり、考えたり、探求する姿が描かれていました。そして、この経験談によって大きな問いかけをすることで共に考えようとしています。
あなたはこれまで暴力を行使したことがありますが、自らの暴力性について目をそらさないし、簡単に肯定しない、暴力性の持つ矛盾を考え続けています。その姿勢こそ私はもっとも大切なことのように思いました。「暴力はいけない」というだけなら簡単でしょう。また、「私は暴力をふるったことがない」と言う人がいるのなら、たまたま愛や尊重で苦しむことがなかっただけかもしれないと考えたりします。暴力性を考え続け、問い続ける大切さを改めて考えました。投稿、ありがとうございます。
感想1
暴力があまりにも日常にある中でずっと育ってきたのだと感じました。これだけ暴力が日常的にあると、感覚や感情も麻痺させざるを得なかったのではないかとも思います。そんな中でもで「暴力は悪いことなのか?」についての疑問はずっとあったような印象を持ったと同時に、今のあなたにとって暴力はどんな存在なのだろうと考えていました。(世間的にいけないもの、というのはあってもあなただからこその表現があるような気がしたからです)
お坊さんに聞いて確信を得て、暴力的な環境から離れ、平和な環境に身をおいたことで、ようやく感覚や感情の麻痺がとけていったのかもしれないと私は思いました。心の中の傷がちゃんと「傷」として悲鳴を上げ始めているような、そんなイメージが浮かびました。平和な環境にいるはずなのに、と思ってしまうかもしれませんが、これまであげられなかった声をちゃんとあげられるような環境に今のあなたがいる証でもあるのかなと感じています。だとしても、傷を自覚していくことは苦しいし辛い時間ですよね…。だからこそ、死にトリ含め活用できる先を活用してほしい気持ちでいます。投稿ありがとうございました。