名前。わずか小学1年生の時点で「ババアみたい」と同級生や上級生に言われる。このことを両親に話しても笑って終わり。
顔。外出時のマスクは命綱。マスクを少しでも外したら老若男女問わずいつも笑われる。両親から20歳まで化粧を許可してもらえなかった。理由は「あなたのことなんて誰も気にしていない」。
体。痩せない。体重が10kg落ちても体が細くならない。痩せないせいで服を選ぶのが憂鬱。素敵な服に出会っても着れない。楽しくない。身長が150cm台なので「短足」「奇形」とバカにされる、ひどいときは知らない人に勝手に写真を撮られて笑われる。
頭。他の人は質問しても許されるのに、わたしが質問するといつも無視されるか「そんなこともわからないのか」等とつらくあたられる。わたしが英語や専門知識に興味があるとわかると「あなたがそれをできた(知っていた)ところで、そんなもの誰でもできるし調べられるからすごくはない」等と小馬鹿にされる。
自分を擁護するわけじゃないけれど、文化的な知識や一般的な知識(野菜の名前やことわざ、家事のやりかた等)をわたしが発信しても周りは信じない。「そんなバカなものあるわけがない」と言われる。そして、わたしではない人がわたしと同じことをすると称賛され、認められ、受け入れられる。
そして、たいてい周りがわたしを信じないから、わたしが連絡係の場合ちゃんと周りが情報を共有せず、いつも上の立場の人たちからわたしは怒られる。
頑張っていない、苦労していない、世間知らずだから生きていけない、すぐ死ぬだろう、とばかり言われる。
声。いつも周りに聞き返される。ひどいときは「ちゃんと喋れや」と怒鳴られる。話している最中あからさまに「聞こえませ〜ん」と笑いながらバカにされる。
持ちもの。勝手に捨てられる。周り曰く「あなたのだし別に良いかと思っちゃった」とのこと。勝手に壊される。勝手に汚される。わたしもたいがい忘れものが多いのもあるけれど、貸したもの等を勝手に失くされる。
食べもの。わたしが食べているもの(魚のフライやツナとキャベツの炒めもの、冷奴、漬物、海藻、ごま和え等)に対して「そんなものよく食べられるね」「自分だったら絶対食べない」等とよく言われる。他の人が同じものを食べていても言われていない、むしろ「美味しそう」等と喋っている。
数人に話しかけると慌てて話題を変えられる。うっかり彼らが話していることに興味を持ったことを知られると、早々切り上げられ、別の場所でわたしを抜いて会話を再開する。もしくは「あ〜、そんな話したっけ?」ととぼけられる。
名前を紹介し合ってもすぐに他人のふりをされる。その場全員とのハイタッチは飛ばされ、お土産をもらう際はいつも除外される。
欠席している間に自分の席が汚される。土足を乗せたり、机の上に土足で乗られている。曰く「欠席していたのだから仕方が無い」。
会話をしている最中、相手がよく小馬鹿にしてくる。助けてほしくても「え、そんなことあるんですか?」「そんな人いるんだ」等と公的機関でも言われる。
面接。これが原因で仕事が決まらない。面接官に履歴書を見せたら笑われる。体調不良でブランクが空いていたことを「嘘をつくな」「そんな病気ありえない」等と言われる。「顔が怖いのでお店を任せるのが不安」「裏方に引っ込んでいてほしい」「表に出る職業には今後応募しないで」と言われる。応募してから1週間音沙汰が無いので折り返し電話をかけたら怒鳴られ「かけてこないで」と言われる。
こんなわたしでも一応生きてます。いつもギリギリではありますが。
そろそろ新しい幸せを享受してみたいです。
感想1
これまでの人生に刻まれた数え切れないほどの“見えない傷”が、まざまざと伝わってくる感覚になりました。一つひとつのエピソードが、それぞれそれだけでも十分につらく、理不尽なものであるにもかかわらず、それが日常として積み重なり降りかかってきたことに、「なぜこんなにひどい言葉や振る舞いをあなたが受けなければならなかったのか…」と読んでいる私まで勝手ながら、悔しさと憤りを感じてしまっています。名前、容姿、声、思考、持ちもの、食事、人間関係など、どの領域にも蔑まれたり無視されたりする経験が当たり前のように存在していて、社会全体から要らないものと烙印を押されているような感覚も抱いてしまっているのではないかと想像しています。(違っていたらすみません)
存在そのものが否定されるような経験の中で、そういった出来事に対して周囲の反応が冷たく、無関心か、あるいは加担すらしていることにも、そういうことが少なくはない現実があると認識はしていても改めて考えると、やっぱりそれっておかしなことだよねって気持ちにもなっています。信じてもらえないこと、からかわれること、そして“他の人なら受け入れられることを自分がすると否定される”という一貫した構造は、自己肯定感を蝕むには十分すぎるほどのものだっただろうと私は思います。私自身も学生時代は名前や見た目についていじられることが多く、そしてなぜか集団生活の中で自分だけは許されないといった経験をしているので、あなたと全く一緒というわけではないですが、重なるところもあり他人事とは思えずにいました。
こうした経験は、ただの「個人の不運」ではなく、社会的なまなざしの偏りや、「標準(それも誰が決めたかもよく分からない暗黙のもの)」から外れた人を見下す風潮、また、見た目や声、体型、発言の仕方に対して過剰にジャッジする文化の中に根を持っているものだなと。“普通であること”の範囲を狭く決めてしまう社会が、あなたと同じように苦しむ人をさらに追い詰めていると感じますし、その社会の在り方に疑問を抱いてしまうのと同時に嘆いても仕方のないことだとは思いつつ、辟易してしまいます…。
ただ読んでいて、淡々とこれまであった出来事は綴られていたのですが、“その時々でどう感じ、どう思ったのか”という感情の部分がほとんど書かれていないことが少し気になりました。もしかしたら、そうした経験を重ねていくうちに自分が何かを思うのも感じたりするのも無駄であるとか、気持ちを押し殺す(あるいは押しつぶされる)ことが当たり前すぎて安心して自分の感情を表に出せなかったり感覚的に分からなかったりするところもあるのではないかと感じました。(違っていたらすみません)
ギリギリな状態からはそう簡単に脱却するのは難しいことかもしれませんが、せめてこの先少しでもあなたがこれ以上の傷を負うことなく、安心して関わりながら自分の感情を大切にできるような人や場所に出会えることを願っています。願うことしかできないことにもどかしさを感じながら、また機会があればあなたの思い描く“幸せ”について含めお話を聞かせてもらえたらなと思っているということをお伝えして、感想とさせていただきます。投稿、ありがとうございました。