母親は「育児が面倒臭い」と私を手放し、離婚した父が祖父母の元へ連れ帰り、そこで育てられた。
父は育児に関わらず気分次第で脅迫と暴力、祖父は言う事を聞かないと閉じ込める・追い出す、祖母は病的な心配性・過干渉。
よく会う親戚もアル中暴力姉弟差別叔母と、まともな距離感の人がおらず、おかしな価値観の中で育ったために人とのコミュニケーションが未だに下手。
物心つく頃から、良い子でいなければ、人の望む存在にならなければという意識に囚われ、褒められるためにひたすら努力していた。
小3、父親の恋人(シンママ)の元へ連れて行かれた際、初めて父の笑顔を見た。両親と子ども2人と犬がいるような仲睦まじい最高の家庭像だった。
私はガラスの外からその光景を手を張りつけてみているようだった。その時に父に認められることを諦めた。
この頃、絶対になりたい!と心に決めた職業があった。それは声優で、祖母からしたら信じられない、絶対に諦めさせなければいけないものだった。
何を言われようがなるつもりでいたし、お芝居の練習も子どもなりにだが大真面目に継続して行っていたし、音楽の授業の歌や学習発表会の演劇も全力で取り組んだ。
本を読んだり調べたりして進路についても考えつつ、難しい世界である事は分かっていても、どうしてもなりたかった。ただ祖母はそれを許さず、私を強く叱りつけたり、会う人会う人に言っては笑いごとにしたり、泣いてみせたりした。
劇団に入りたいとどれだけ言っても聞き入れてもらえなかった。高校の時にも劇団に申し込んだが、ヒステリックに泣き喚いて許してもらえなかった。そのうち心を病んで夢どころか未来について考えることが難しくなっていった。
声については未だによく褒められる。聞き取りやすい、いい声、声優さんみたいだよね!なんて言われるたびに苦しくてしょうがない。正直未だになりたい。押さえつけられた反動もあるのかもしれないが、どうしても夢を諦めきれない。
中学では部活も勉強も両立させて完璧な生徒だったものの、剣道部ではパワハラが横行し、クラスメイトの前ではできた子どもを装い、家にも居場所はなく、結局潰れてしまい部室で血溜まりをつくった。(怪我をすれば部活参加が遅れた言い訳ができると思った。委員会による遅刻でも叱られていた)保健室で一番に「お母さん(祖母)を呼びますか?怒られる…」と言ったのを覚えている。祖母は髪染めやピアス、タトゥーを『自分を見て欲しいからやる痛々しいこと』と考えており、自傷や自殺なんかもってのほかな人だった。
それ以降私は学校にうまく行けなくなってゆき、教師や家族の圧の中、行きたくても行けないを誰にも理解してもらえず部屋で横になり過ごした。
食事をろくに摂れず何週間も過ぎたころ「あなたより私の方がつらい」と言っていた祖母の様子がおかしくなり、ある日倒れ緊急入院、いつ死んでもおかしくない数値のなか奇跡的に生き延びた。
父親からは毎日恫喝され蹴られていた。学校に行け、お前のためを思って言ってるんだ、との主張だった。
中3はなんとか通い進学校に入学。
高1の担任との相性は最悪だった。ホラーが何よりも苦手なのに、来る日も来る日も四六時中、おぞましい幻覚を見ていた。勉強どころではなかった。
この頃から自傷行為を始めた。それまでは物にすら当たれなかった(紙を破ることも出来なかった)が、タガが外れたように自傷に走った。傷があると安心して、膝下まである長いソックスの下は全部傷だらけだった。カッターも常にポケットに入れて持ち歩いていた。嫌なことがあっても傷を付ければ少し落ち着くため、お守りのような存在だった。
けれど祖母は汚れた衣類を見逃さず、毎晩寝ている間にこっそり部屋に入り体をチェックされていたし、私が学校にいる間にゴミ箱の中身も全部見られていた。だから自傷をすれば必ずヒステリックに叱られていた。「それは私を傷付けていると思いなさい」と。私のつらさは?と思ったのが正直な感想だった。
中学時代と同じく教室に入るのが怖くなっていき、授業をまともに受けられなくなり、トイレで自傷をするのが日課になっていた。
いくら進学校でももうそこにはいられず、2年の夏に通信制に転校した。
そこは私にとって素晴らしい場所で、私はのびのびと過ごして(苦しくて自傷をすることもたびたびあったが)、比較的心晴れやかに残りの高校生活を送った。
在籍中に、デザイン系の専門学校の主催するグランプリの漫画部門に2作品を提出し、それぞれグランプリと協賛賞を頂いた。選べる商品に学費の免除があったが、祖母が許してくれないのでそこへの進学は諦めた。
動物看護師の専門学校に進学したが、そこは外部に対してひどく見栄っ張りで、生徒をこき使いお金を搾り取ることばかり考えている学校だった。熱中症でみんな体調を崩したり(私も水すら飲めなくなり病院へ行った)、学校が見栄を優先したせいで亡くなった動物達がたくさんいた。心を病んだ生徒もたくさんいた。
私もその1人で、同じ班の人にひどくいじめられていたのもあり、またカッターが手放せなくなり最終的に学校で自傷をした。この間にも私は友達の前では明るく楽しく真面目な人物像で、悩んでいることを伝えるのが非常に下手だった。
学校への班替え訴えも虚しく、祖母にもなんとか言ってやってくれと縋ったが先生と仲睦まじくお茶会を開かれて私が悪いように言われた。この時やっと、この人は味方になってくれないと諦めた。
学校からは何ヶ月かの休みを言い渡され、その間に私はついに家を飛び出してネットで出会った県外の恋人の元で過ごし、バイトも人生で初めてバックれてフェードアウトした。祖母からは毎日「続きを読む」が表示される長さでメンヘラさながらのLINEが届き、家には帰る気になれなくて学校をやめた。
祖母は私のキャッシュカードと保険証を管理していて、それぞれ使う時には理由を伝えて納得されないと渡してもらえなかったし、用が終わればすぐに取り上げられた。
これは幼少期からだが、手紙の内容は送られてきたものもこちらが書いたものも全部こっそり読まれていたし(バレンタインのラブレターなんか書いた時は「人に好きとか言っちゃダメだからね」と釘をさされた)、届いた荷物の宛先も全部控えられていた。
だがこの家を飛び出した際に無理やり保持していき、そのままキャッシュカードと保険証は私が管理できている。持って行って良かった。
自動車免許を取るためだけに帰った時、20歳の誕生日を迎えたが例年通りお祝いはなく、叱られるばかりだった。
新幹線からおりた瞬間目の前に立っていた時は泡を吹くかと思った。改札すら抜けてきていた。寿司を買って歓迎されたが、私の箸は捨てられていたから割り箸でそれを食べた。私の荷物もほとんど勝手に捨てられた部屋で。
成人式のころに腰椎椎間板ヘルニアを発症、様子見でも治らず手術。術後に同部位を骨折、治っては折れを繰り返した。
骨折が治っても腰痛持ちとなり、大きな運動は出来なくなった。体を動かすのはとても好きだから今でもつらい。
骨折してなにも出来ない頃、焦りが強くてうつ伏せになりながら簿記の勉強をした。10分と座っていられないし正直うつ伏せもキツかったが、何もしていないと焦燥感で気が狂いそうだった。
その頃は穀潰しのように扱われ、お腹を壊すから誰も食べたがらないものを私に回され残飯処理係にされていたし、それに不満を言えば働きもしないで偉そうに!と怒鳴られた。
勉強を始めてから最初の簿記の試験の時期、もちろん受けるんでしょ?と言われ、まだ終わってないからと否定したらヒステリックに叱られた。あまりにも苦痛で勉強をそこでやめてしまった。今は少しずつ再開しているが、自分から進んでやっていた当時の楽しさはまだ戻ってきていない。
ある程度動けるようになり、スーパーでアルバイトを始めた。腰痛と折り合いをつけつつだと中々お金は貯まりづらく、毎月奨学金の返済と病院代でかなり飛んでいく。
職場にいるいじめ気質の強い人が、先月1番強く当たっていた人を辞めさせ、同じく強く当たられている側の私は次の標的になるんじゃないかと戦々恐々としている。
ここ数週間メンタルの調子が悪く、シフトが入っていても行けずに休んだり遅刻したりしていて、申し訳ないし、職場の人からの対応が冷めていっているのが肌感で分かる。当然だけれどつらい。
祖母が嫌いになりきれない。
過干渉だけど愛してくれたのは本当。
今でも、私が部屋で人と通話しているのを窓を開けてこっそり全部盗み聞いているし、私に勝手に期待してはギャップを感じてヒステリックに当たってくるし、全部把握して支配しようとするのを嫌と伝えても「みんなこうしてる」と言って聞かないけれど。「全部私のせいって言いたいんでしょ」「もうお母さんだなんて思ってないんでしょうけど」と言われたらひどく腹が立つけれど。
たとえDVだとしても、洗脳だとしても、距離感がおかしかったとしても、家族として私を愛してくれたのが祖母だ。
嫌いだしイヤだ。もっと距離がほしい。でも死なないでほしい。大好きな祖母だ。杖をついてとぼとぼ歩いているのが痛ましくてつらい。
でもいずれいなくなってしまう。その時、強く反発していた事を絶対に後悔する。でもこれは私を守るために必要だとも思う。
この気持ちをどう整理して、受け止めて飲み下したらいいんだろう?どう今の私の思考や行動を変えたらいい?
現在25歳。高卒。腰痛持ち。貯金なし。
発達障害はおそらくグレーで、先生から診断は下りないだろうと言われた。
境界性パーソナリティ障害や愛着障害、過剰適応の要素があると自分で感じており、少しずつ人とのコミュニケーションを見直し、改善していっている段階。
同性の恋人(途中記載した人とは別人)が精神疾患などを個人的に学んでおり理解がある方で、その人の協力のおかげで3年ほどしてようやく安心感を覚えはじめ、不安定に人にすがることが減ってきた。
ただ、将来が怖い。ほんとうに、心の底から恐ろしい。
パートナーも精神疾患・精神障害を患っている様子はあり、収入も私より多いが一般的な同世代と比べれば少ない。
そんな女性2人でこの先の日本を生きていこうとしている。正直、健やかに生きているビジョンは見えない。
不安で不安でしょうがない。
勉強はしているが、資格を得たところで長時間は働けない。障害年金も受給できない。どうしたらいいか分からない。
生きていたくない。
感想1
投稿読みました。あまりにも多くの傷と、それでもなお続いていく人生の絶望感というのか重みが文章に含まれていて、一つひとつの言葉が胸に突き刺さるような感覚になりました。“生きること”とはこんなにも過酷(正直それだけでは表現しきれないとは思いますが)で、向き合い続けるしかないという現実がリアルに伝わってきて、返す言葉がすぐにはなかなか出てこなったというのが正直なところです。
家庭の中に“安全”や“安心”が一度もなかった状況で育っていくことは、人としての土台そのものが絶えず不安定だったのだと思いました。“良い子でいなければ存在を脅かされる”という感覚があったのだろうと感じますし、どれほどの恐怖と緊張の中で日々過ごしていたか…想像に難くありません。その中でただ褒められたくて努力を重ねてきたこと、夢を叶えたくて必死だった毎日、それらがすべて押しつぶされてしまう過程はあまりに残酷だなと感じましたし、どれだけの喪失を積み重ねてきたのかと思うと、私まで勝手ながら悔しい気持ちになっていますし、当時少しでもあなたのそばで理解してくれたり受け止めてくれる大人がいたら…と考えても仕方のないことなのかもしれませんが、そう思わずにはいられませんでした。
絶えず誰か(特に祖母さん)に期待され、監視され、裏切られることと戦い続けながらも、それでも人を完全に切り捨てることができず、愛する気持ちや、感謝に近い思いを抱き続けていること、祖母に対して感じる「嫌い」と「大好き」が混ざり合った矛盾した感情は、抑圧を受けてきた影響による共依存(に近い感覚を私は抱きました)と、なんというのか支配と愛情が絡まりあったようなそんな関係の中で生まれた、非常に複雑なものだと感じました。そして、こうした関係性の中で生き抜いてきたことに、そうせざるを得なかったところが大きいとは思うのですが、あなたの中にある地力の強さも感じています(これまで過ごしてきた環境を考えても、敬意を表したい気持ちになっている自分がいます)し、だからといってこれまでのことを簡単に割り切れるわけがないし、傷が癒えるわけでも、誰のせいにできるわけでもないのですよね…。ただ自分に湧いてくる感情を飲み込むしかないのか…と思ってしまいますが、祖母さんへ強く反発していたことに対して「でもこれは私を守るために必要だとも思う。」という言葉が書かれているのを読み、その思い(感覚)はこれからも大切にしてほしいと感じたのと同時に、無責任に聞こえてしまったら申し訳ないのですが、今は無理に受け止めようとしたり飲み下さなくてもいいのではないかなと私は思いました。自分の本当の思いに直面することは苦しさを伴うものではあるとは思いますが、抱いている辛さ、苦しさ、悲しさ、悔しさ、怒りなどそのままの感情をそのままに表現して(こうして書くでもいいし、直接口にするでもいいし)せめて自分だけは自分の気持ちに耳を傾けてあげてもいいのではないでしょうかね…。もちろん、私もここに綴られたあなたの気持ち、静かに受け止めたいです。
また、社会制度の不備や、生きづらさを抱える人に対しての理解のなさも、文章の裏に強く滲んでいるように私は感じました。学校の無理解、専門学校の搾取的な運営、職場でのいじめ…こうした現実が、ただでさえ心に傷を抱える人たちを追い詰め、選べるはずの未来を奪っていき、制度はあっても、それに“手が届かない人”の存在を社会が見落とし続けていることを改めて痛感させられました。
将来が見えないという恐怖は、“最低限、自分らしく生きられる生活”が保障されない社会の冷たさからきているのではないかなと思いました。支援が届かず、理解も得られず、たとえ努力しても認められない…そんな状況下で“生きたい”と願うほうが難しいことだと思います。
「生きていたくない」と最後に綴られた言葉に、せめて「生きたい」とまでは思わなくても、「この先も、生きてもいいかもしれない」と思える瞬間を、誰かとのつながりの中で、少しずつ積み重ねていけたらいいな…と思ったりしました。私自身も、抑圧環境の中でずっと育ってきた弊害が大人になった今でもあって、自分の感情の取り扱いには苦労していて、あなたとは状況や程度は異なるかとは思いますがずっと漠然と先の不安は抱いているので、そういう一人としてまたあなたのお話を聞かせてもらって言葉を交わせたらなと思っています。また、死にトリが必要に感じられたらいつでも訪れてほしいです。投稿ありがとうございました。