経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

夢ではなかった『ユメ』のお話

誰かの期待に応えようとするのが好きだった。
小学生の頃、両親に将来の夢を聞かれた私は、「科学者になりたい」と答えた。理科が好きだったという他に理由はなかったのだが、両親はとても喜んでくれた。「天才な○○(私の名前)ならきっとなれるよ」「科学者になったら研究で俺たちを救ってくれよ」と言ってくれたのを覚えている。
中学に上がって、だんだん科学者になりたいという気持ちは薄れていった。理科への興味がなくなっていたからである。
しかし、科学者という夢を応援し続けてくれる両親を前にして、私はどうしても「もう科学者になりたいと思っていない」と伝えることができなかった。期待を裏切ることが怖かったし、両親に悲しい顔をしてほしくなかった。
私は「途中で夢を諦めるなんて悪い子だ、良い子ならば一時の気の迷いに惑わされず夢へとまい進するべき」と自分自身に言い聞かせることにした。この頃からの私は、半ば自己洗脳のような状態であった。
高校受験のシーズンの頃には、私の科学者になりたいという『ユメ』は更に膨らみ、「宇宙物理学を極めたい」という事になっていた。私はその『ユメ』を叶えられる難関校を受験することになる。いよいよ引き返すことはできなくなっていた。
高校に入ってからは、私は『ユメ』のために努力を試みたが、元々自分に不釣り合いな難関校を選んでいたため、授業に全くついていけない。それでも私なりに頑張ったのだが、成績はどんどん落ちてゆき、なんとかせねばともがくうちに、私は目が覚めてしまった。これは本当の夢ではなかったのだと。
しかし、洗脳の解けた私には、「本当の夢」も、「自分」も何もかもなくなっていた。私は努力する意義が分からなくなり、高校を退学し、自室に引きこもって現在に至る。

冒頭で書いた、「誰かの期待に応えるのが好きだった」というのは撤回させてほしい。本当はただ、応えないのが怖かっただけだ。失望されるのが怖かっただけだ。
どこかで『ユメ』を否定することが出来れば、こんなことにはならなかったかもしれない。しかし、私はもう、自分を失ってしまった。恐らく、二度と前を向くことは出来ないのだろう…。
拙い文章だが、これを読んでくれたあなたの、「本当の夢」を見つめ直すきっかけになれば幸いだ。

感想1

投稿読みました。両親に喜ばれたことを嬉しく思いながらも、それが次第に重荷に変わり、最後には自分自身を見失ってしまったという過程が、繊細に、かつ丁寧に綴られていて、その中で抱いた切実な思いが伝わってきました。
「誰かの期待に応えるのが好きだった」という言葉は、幼い頃の健気さもありつつ、認められることの中に自分の存在価値を見出そうとしていたのかなと想像していました。ただ、最後のほうでそれを「撤回させてほしい」と書かれていたのは、「期待を裏切ることへの恐れ」と表裏一体であったという自己認識があるがゆえなのだと感じました。決して個人的な弱さや失敗ではなく、「夢」に純粋であることを社会や大人たちから期待され、その期待に対して「応えるしかない」と感じてしまう一例であるように私は感じました。
「夢」というものが求められがちなこの社会では、それが“本人の内発的な希望”であるかどうかは二の次になってしまうことが多くあるのかなと思います。私自身、幼少期なりたいと思っていたものは漠然とありましたが、あなたの表現をお借りするとそれは「夢」ではなく「ユメ」(自分がなりたくてというよりかは、親や親族から言われていたからだったなと思います)であって、そう自分のことも含めて思い返すと、もしかしたら子どもにとって「夢」は、自分の意思で選ぶものというより、他者の喜びや評価(あるいは期待)と結びついて形成されることも多いのではないでしょうか。そうした中で、他者の期待と自分の本心との境界線が曖昧なまま突き進んでしまうと、「自分」がどこにいるのか、わからなくなってしまうのもごく自然なことなのかもしれませんね…。
高校に入ってから、自分への洗脳の崩壊はその曖昧さにようやく気づいたという意味で、大きな転機だったともいえるのかもしれないなと私は思いました。けれど、同時に“確かなもの”が何もなくなる感覚もあったのではないかと感じますし、“空っぽの自分”と対峙することになるわけで、文章からは、その喪失感の深さと今も続く「前を向けない感覚」の苦しさが伝わってきました。ただ、ここまで自分を見つめ、偽りの夢と現実を切り分け、表現できることは、それ自体が一つの強さの証だと私は思います。それは前を向いているか否かではなく、あなたが失ったものはあってもそれすら冷静に分析し、自分と向き合おうとしているように見えたからです。
今は“前を向けない”と感じるあなたのままでいいと思いますし、無理に何かを始めようとしなくてもいいのではないかなと思ったりもしました。ただ、その感覚をこうして誰かに共有したり、言葉にしたりすることが、少しずつ自分を取り戻す一歩になるかもしれないな…と。失ったのではなく、見えにくくなってしまっただけなのではないかと信じたい自分がいます。また何か伝えたいことがあったり、自分の思いや考えを外に出したいと思った時はいつでも死にトリを活用してほしいです。投稿ありがとうございました。

感想2

投稿ありがとうございます。わたしの将来の夢は、時とともに転がり続けているようなものなので、夢にストイックになれることも、ユメにがんじがらめになることもあるのだと考えながら読ませていただきました。短い文にまとめられてはいるけれど、本当の自分と洗脳で思う自分のギャップが大きくなる過程、そして洗脳が解けた今現在のあなたの苦しさも相当なものだろうと感じています。

なぜあなたが夢を否定できなかったのか。「誰かの期待に応えようとするのが好き、応えないのが怖かった」という理由も、もしかしたら一つかもしれません。それでも、また別のところに理由があるのではないかな、と思えてなりませんでした。

要所要所に描かれていた、「過度な周囲の期待」はその一つだと思えます。「成績」によって評価が変わる環境だったのだろうかと思うと、褒められたくて、認められたくて自分の力以上に頑張ったりしてしまうことも起こりうるかもしれません。それ以上に、辛いなあと思うのはあなたの本当の気持ちを語れる時間や向き合える時間というものを感じられなかったことです。あなたの本心を語ることのできる隙間がないほど、期待されたり、応援される言葉をかけられていたのではないかな、と想像しています。(もしくは強い洗脳状態だったということもあるでしょうか。)

色々考えていると、過度な周囲からの期待と、ユメにがんじがらめにされることは”教育虐待”と同じ状態だったのではないかなと思えます。親や誰かの期待に応えられない=ダメという価値観が、知らず知らずの間に形成されてきていたのかもしれないなと思いました。

わたしだったら過度な期待をした周囲を責めたい気持ちが生まれそうですが、誰かを責めることもなく、現状を語ってくれたあなたというものを感じています。もしかしたら、ずっと自分を責めてきているのかもしれません。

「あなたなら何にでもなれる。やりたいことをやりなさい。」そんな言葉があなたのそばにあったら、どうなっていただろうか。いつだって、誰にだって、言いたい言葉です。

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