経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
電話相談をしてから、あの電話があるなら生きようかなって
電話相談したら、生きる希望はないけれど、これから生きようと思えました
死んだら感じれなかった本来感じられるべき、朝の心地よさ
死んだら飲めなかった美味しいと感じたカフェラテ
朝で少し涼しいからか、下を見ればダンゴムシがいた
まるで神様が届けてくださったかのような優しい風
そして、電話越しに聞こえる優しい私を思ってくれる誰か
話を聞いてもらったからか、とても心に余裕ができた
本当に久しぶりにODしなくても幸せになれた、心が満たされた
そんな、早朝に相談電話が繋がった、ある朝の日のこと
チャット相談は解決しなかったし、時間だけ取ってしまった申し訳なさがあったけれど、電話は違った
声があるだけでこんなにも変わるのなんですね
中々電話繋がりづらい状況かと存じますが、これを見て電話をかけて少しでも心が楽になる方が増えることを願っています。
感想1
文章を読ませていただいて、人の存在やその影響の大きさ、声や言葉の持つ力を(私自身がつらかった時の記憶も思い返しながら)ひしひしと感じていました。
「生きる希望はないけれど、これから生きようと思えました」とあるように、さながらそれは、色のついていないモノクロの世界に鮮やかにとはいかずとも微かに色どりを取り戻させてくれる出来事だったかのように私には思えました。
希望を見出せない中で溺れるようにして日々を生きていると、些細だったり何気ないことにどんどん気づけなくなっていくような気がしますが、そんな中でも自分の存在を認識し、受け止めてもらえ、他者に「自分の意識に触れてもらう」ことには、そういった感覚を呼び戻すだけの力があるような気がします。投稿者さんにとって相談の電話で話せたことはそれだけ大きな出来事だったのかなと思っています。。。
中々に生きづらく過酷な世の中だとは思いますが、自分が助かるのにも、誰かが助かるのにも、もしかしたら特別な何かは必要ないのかもしれません。「自分という存在」が観測され、認識され、そこに紐づく何かを誰かに手繰り寄せて知ろうとしてもらえるだけで、全てではないかもしれないけど人は助かるのかもしれないと、今投稿者さんが感じて書いてくれた文章に触れている私としては感じています。
投稿者さんがここに書きに来てくれた文章とその思いが「他の誰かの生きる希望になる」ことを願いつつ、少しでも多くの人の目に留まってほしいなと思いました。投稿ありがとうございました。
感想2
経験談を読みながら、閉ざされていた感覚が目を覚ましていくような、私の目の前にもその情景が映像で描かれ浮かぶように感じました。
本来は感じるはずの五感を、それを閉ざさないと居られないような環境の中で過ごして来たのかなと経験談を読みながら考えていました。それは生きる術となる一方で、心の中で行き場を失った苦痛が圧迫し、一時的でもどうにかするために自分で自己完結し続けてこられたのかなと想像しました。
この社会の自己責任論は(唐突にすみません)人に助けを求める事を躊躇わせてしまうと思います。例え、勇気を出して誰かに話をしても、自業自得などと言われてしまうことも残念ながらよくあると感じています。独りで抱え込み、孤立し、人に相談することに拒絶感を感じている人にとって、投稿者さんの経験談は「希望」という心の灯となりえるのではと私は思いました。それと同時に「容易いことではなかったと思うけれど本当によく繋がれましたね」と伝えたくなりました。
「電話越しに聞こえる優しい私を思ってくれる誰か」この文章を読みながら、そうそう、誰かが思いを寄せてくれていると感じる感覚が、心地よさや心が満たされる感覚と結びつくのですよね、と私も自分自身の経験を振り返り、共感しています。
人の温かな声は閉ざされた五感を呼び覚ます力があるのかもしれませんね。
独りで苦しさを抱えている最中にいる人の「希望」となりえることを信じています。経験談の投稿ありがとうございました。
感想1
文章を読ませていただいて、人の存在やその影響の大きさ、声や言葉の持つ力を(私自身がつらかった時の記憶も思い返しながら)ひしひしと感じていました。
「生きる希望はないけれど、これから生きようと思えました」とあるように、さながらそれは、色のついていないモノクロの世界に鮮やかにとはいかずとも微かに色どりを取り戻させてくれる出来事だったかのように私には思えました。
希望を見出せない中で溺れるようにして日々を生きていると、些細だったり何気ないことにどんどん気づけなくなっていくような気がしますが、そんな中でも自分の存在を認識し、受け止めてもらえ、他者に「自分の意識に触れてもらう」ことには、そういった感覚を呼び戻すだけの力があるような気がします。投稿者さんにとって相談の電話で話せたことはそれだけ大きな出来事だったのかなと思っています。。。
中々に生きづらく過酷な世の中だとは思いますが、自分が助かるのにも、誰かが助かるのにも、もしかしたら特別な何かは必要ないのかもしれません。「自分という存在」が観測され、認識され、そこに紐づく何かを誰かに手繰り寄せて知ろうとしてもらえるだけで、全てではないかもしれないけど人は助かるのかもしれないと、今投稿者さんが感じて書いてくれた文章に触れている私としては感じています。
投稿者さんがここに書きに来てくれた文章とその思いが「他の誰かの生きる希望になる」ことを願いつつ、少しでも多くの人の目に留まってほしいなと思いました。投稿ありがとうございました。